虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

アニメ・映画批評を書きはじめるための補助輪

 

はじめに――作品批評を書くことの難しさ

 私は大学のサークルや同人活動などで、映画やアニメの批評を書いています。自分が観た作品について考えたり書くことは面白いし、人の批評を読むのも好きなのですが、批評というジャンルは不人気がなばかりか、「批判」と字面が似ているせいで、なんだか偉そうな印象で忌避されていることも確かでしょう。
 それでも大学のサークルで作品批評を募集すると、自分も書いてみたいという声もそれなりに聞くので、潜在的な書き手は案外いるのかもしれません。けれど勿体ないことに、私は彼らに対して親切なアドバイスができませんでした。2、3年ほど徒手空拳で書きながらそれなりに読める文章が書けるようになってきたものの、自分自身がどのように書いているか理解できていなかったからです。そこで批評の書き方をシステマチックに整理して、はじめての批評を後押しするためのテクニックを記載したいと思いました。
 たとえば友人や恋人、家族と映画を観にいったあとのランチやカフェで、帰りの車内で30分ばかり作品について語りあうことは難しくないでしょう。それを文章の形式に変換してやれば批評はできあがります。つまり、そこそこの文字数(3000~10000字程度)の作品批評を書けないことは、書き手の感性や学識のまえに、たんに作文技術の問題にすぎないと断言したい。

 はじめて批評を書こうとする潜在的な書き手にたいして、批評書や批評理論の本をどさどさ積んでただ「読め」というのは、自らの知識量を誇示するばかりで不親切です。批評という行為をいたずらに複雑な知的営為と見せかけるより、身近に感じてもらうほうがジャンルの裾野が広がり、最終的に批評のためになると私は確信しています。批評のコモディティ化を目指したい。

 まだ幼くて自転車に乗れなかったころ、年上の人たちがなぜ乗れるのか不思議でしかたありませんでした。けれど、一度乗れるようになってさえしまえば、いままでなぜ乗れなかったのが不思議なほど、あっさり乗れてしまうものです。批評も自転車と同じように、一度コツを掴めばとりあえず書くこと(=自転車に乗ること)はできます。どのように書けば面白くて評価される批評が書けるか(=速く漕げる)かは私にもわからないし、むしろ教えてほしいくらいですが、競輪選手でなくとも自転車の乗り方を伝えることはできるでしょう。

二項対立を定める

 批評の定義は人によってさまざまですが、ここでは作品批評について「作品と一対一で結びつく、固有な長文」と既定します。「作品と一対一で対応する」としたのは、作品に星をつける、いわゆるレビューと区別するためです。「演出がよかった」「演技が下手だった」「脚本がすき」などの評価は、特定の映画ではなくても成立します。ここでは、Amazonレビューの★や「いいね」のように数値化されざる、あるいは点数を付けたあとにきたるオリジナルの文章を「批評」と想定します。「長文」としたのは自分の思考を最も表現しやすい形式がテキストであり、そういった文章は自然と140字のツイートには収まらない長さになるからです。
 さて、そのような文章を書くうえで最初につまづきやすいポイントは、「何を書いたらいいか分からない」ことです。何を書いたらいいか分からない状態とは、「何も書けない」のとは違います。作品を観て「何も書けない」ときは、とくだん書きたいような鑑賞体験ではなかったということなので、何も書かなくてよいです。「何を書くべきか迷う」ときは、いろいろと思うことはあるけれど「どれを書いたらいいか分からない」のが実情でしょう。つまり、書きたいことが多すぎるのが問題なので、とっ散らからないように取捨選択すればいいわけで、文章の方向性を決めてしまいましょう。
 例えば「〇〇(作品名)について書く」ことから、「〇〇の時代設定について書く」「キャラAとキャラBの関係について書く」と定めれば、記述の幅を絞ることができます。その文章で論じたいコアの部分を設定できれば、書きやすいだけでなく、テーマがカッチリした読みやすい文章になります。新書のタイトルやPVを集めるブログが「○○とはなにか」といった疑問形をとるように、自ら問いをたて、それに応答すると文章もまとまるし、同じ問題意識をもつ人の目をひきやすいかもしれません。

 もう一歩踏み込んで、二項対立の提示ができるとさらによいです。これは批評の書き方を紹介している他の記事でも主張されていることです。

hazuma.hatenablog.com

 著名な批評家である東浩紀は自身の批評の書き方について、特定の作家を前期/後期に分ける手法を紹介しています。

批評の対象となるのがXという作家あるいは思想家だとしましょう。すると、そのフォーマットに則ると、つぎのような批評が書かれます。「Xには前期と後期がある。前期XはAをテーマにしている。そして後期Xは一般にはダメだと言われる。しかしじつは、後期XはAを突き詰めたがゆえに、むしろ困難Bに立ち向かっているのだ。ではそのBはなにか。ぼくたちもまたそこでXと同じ困難に直面せざるをえない」云々。ここでのポイントは、作家のなかに「困難」を見つけ、それと書き手が共振すること。そしてその「困難」を見つけるために、作家のなかに前期と後期という(名指しはなんでもいいのですが)、一種の切断線を導入することです。このふたつができれば、批評の90%は完成したと言っていい。

 引用記事を読んでいただくとわかるように、東のいう「作家」とは”ウィトゲンシュタイン、カント、マルクスフロイト”などの哲学者・思想家を想定していますが、アニメ作品に関してはどうでしょう。「アニメ批評 書き方」で検索すると上位に表示される*12つの記事でも、二項対立は鍵となります。

 

teramat.hatenablog.com

てらまっと*2「誰でも書ける! アニメ批評っぽい文章の書き方」では、「仮想敵」*3を設定してそれに応答する形で文章の目的を設定する手法を紹介しています。

(2) 仮想敵を設定しよう
 何を批評するのか決めたら、次に「仮想敵」を設定します。なんじゃそりゃと思われるかもしれませんが、これは非常に重要なポイントです。この段階で批評(っぽい文章)のクオリティの大半が決まると言っても過言ではありません。
 仮想敵というのは、要するに「自分とは異なる見解」のことです。有名な批評家や評論家の発言はもちろん、ネットで広まっている通説や、誰かのブログ記事、Twitterで見かけた投稿でもかまいません。あなたが批評しようとする対象について、すでにどういうことが語られているのかを確認し、「一般的にはこう言われている」「◯◯はこう言っている」といったかたちで参照します。論文でいうところの「先行研究」ですね。

 また、他作品との比較を通じてその作品の特徴を前景化する手法もあります。

note.com すぱんくtheはにー*4「お手軽に批評と自称する文章を量産する方法(すぱんくtheはにー編)」では、論じたい作品と同じ要素をもつ作品を取り上げる手法を紹介しています。

(2)同類項でくくれる他の作品を考える。
 次に先ほど挙げた箇条書きの要素、これと同じ要素を持つ作品を探します……探します、とは言ったけど本当は「自分が知ってる作品からその要素を捻りだす」というのが正しい。これは慣れが大きくて、何本か批評を書いた経験を積むと「あ、これはアレで括れるな」というのが考えなくてもできるように(というか勝手にやってしまうように)なります。
(略)
この「同類項の設定」と「作品選択」で批評としては5割ぐらいのウェイトを占めます。つまり「なるほどそういう切り口があるのか!」と思わせて「同じ枠にそんな作品があるんだ!」と感心させれば、その時点で勝ちです。いや勝ち負けではないんですが、そういった視点を提供できた時点で批評としての役割はある程度達成できたと言って良いでしょう

  あるいは、

そして、一番大事なこと。それが①(概念の二項対立を意識すること)です。主なストーリーは二項対立で組み立てられています。枝葉末節をあまり気にしないで、著者は対立するAの側とBの側にどういう言葉を割り振り、その両側の関係をどう説明しているのか捉えるのです。


千葉雅也『現代思想入門』P211 「付録 現代思想の読みかた」より

 これは現代思想の読書法からの引用ですが、反転させれば執筆法としても読めます。現代思想という、きわめて精緻に言葉をあつかう学問分野のテクストも、二項対立を意識して読み解ける=書き手は二項対立を意識して書いているのです。

そして、一番大事なこと。それが(言説、作品、年代などの)二項対立を意識することです。主なストーリーは二項対立で組み立てます。枝葉末節をあまり気にしないで、対立するAの側とBの側にどういう言葉を割り振り、その両側の関係を説明するか意識しましょう。

 

東浩紀: 作家の前期/後期

・てらまっと: 先行言説/自説 

・すぱんくtheはにー:作品A/作品B

 このように三者ともに作家の時間軸、言説、作品のレベルでA/Bの二項対立を用意して、そこから文章を組み立てることを推奨しています。かっこよく言えば「切断線を導入する」、くだけて言うと「何かと何かをバトらせる」のです。ただ「二項対立」と聞くと対決的なニュアンスを感じるかもしれませんが、必ずしも論争的な書き方をする必要はありません。引用した三者の二項対立は①ある作家の変化、②先行言説との差異、③作品間の共通点にフォーカスしています。対立というようりは比較くらいの意味で捉えても問題ないでしょう。

 興味深いことに、引用した三者とも二項対立をおく次元は違えど、この段階を重要視しており、私もこれに同意します。設定した二項対立で批評の質はだいたい決まる*5し、二項対立を設定できた時点でその批評は半分完成したといっても過言ではありません。0→1でアイデアを生み出すには時間がかかるし、長い時間をかけて考えても何も生み出せないこともあります。しかしコアの部分が決まってしまえば、あとは行間を埋める「作業」をこなせばいいだけです。思考から作業への移行は実際に文章を完成させるうえで肝要です。

 さて、『Do It Yourself!!』について書いた拙稿では、先行言説と違いをみせつつ、

せるふ/ぷりん → せるふ家/ぷりん家 → 潟々女子高校/湯々女子高等専門学校 

と比較対象を空間的にスケールアップし、DIY/シンギュラリティという大きな二項対立を論じました。

よって本稿の目的は以下である。

(略)

 ②「DIY」が普遍性を獲得するに至る過程を追跡する。
 時代設定を端緒とし、DIY/シンギュラリティの対立構造を分析することで、”『Do It Yourself!!』は単なる「趣味系」である”という先行言説とは異なる解釈に到達する。

 

なぜ『Do It Yourself!!』は近未来設定なのか?―シンギュラリティによる意味付けをめぐって - 虚無らがえり 序文より

 このように二項対立を設定すれば、作品について書きたいことが溢れかえってしまう状態から、「作品A/作品B」について、作中における「A/B」について書くというシンプルな骨組みができあがります。「この作品は~~だ」「これは面白い」とただ述べるよりは、「一般にこの作品は~~と言われるが私は~~と思う」、「この作品Aは作品Bと比較して~~で面白い」と書くと対立項との緊張関係が生まれ、引き締まった文章に仕上がります。(この記事も「批評には難しいイメージがあるが/実は形式的に書ける」という二項対立をふまえて書いています。)

 とはいえ、「私はこのシーンが良かった!と言いたいだけで、何かとの二項対立を論じたいわけじゃない!」ということもあるでしょう。というか、それがほとんどなのでは。私自身も二項対立ではなく印象に残ったキャラクターやシーンについて書きたいことが多々あります。そういうときは、そのキャラクターやシーンが輝く二項対立をあとで設定しています。自分が肩入れしているキャラクターやシーンのために、二項対立という紙面の舞台をお膳立てしてあげるのです。

 『映画大好きポンポさん』について論じた拙稿では、私はアランというキャラクターについて書きたいと思いたちました。アランはポンポさんやジーンなどの映画に直接関わるメインキャラとは違い、ただの銀行員で、映画をつくるための出資をサポートする役どころです。ちょろっと調べてみると、映画の「制作」と「製作」は区別されていて、撮影など映画を直接つくるのが「制作」、プロモーションや資金管理などの仕事は「製作」と呼び分けているらしい。「制作/製作」という二項対立が使えそうです。さらにアランは原作には登場しないオリキャラだから、「原作/劇場版」、さらには「アニメ映画/実写映画」の違いを示すといいかもしれない。
 という具合に連想をはたらかせて、「ポンポさんの映画化とは言うけれど、この作品はアニメーションだから素直に<映画化>とみなしてよいのか?」という問題提起からはじめて、アランを描いたことで映画「制作」だけじゃなくて、映画「製作」も描けており、「製作」はアニメも実写も共通するため、<映画化>をはたしたといえる、アランありがとう!と締めることができました。

けれどここで重要なのは、そのリアリティではなく、映画制作のその先の、映画製作のプロセスをもうひとつのピークに据えたことにある。映画というメディアそのものではなく、その製作過程の特異性とは、作品をつくるまでに多くの人が関わる点にあり、ジーンのようなクリエイター気質な人間だけでなく、アランのようなサラリーマンの協力があってはじめて映画は完成するのだ。制作から製作へ視点を広げることによって、むしろ映画の実体を描くことに成功しているのではないだろうか。つまり、劇場版でアランというオリジナルキャラクターを動員して映画製作の過程を描くことによって、この映画化は果たされたのだ。

 

「ポンポさんの映画化――アランの役割」(『映画大好きポンポさんトリビュート』収録*6)より

 特定の一部分から遡行して文章全体の方向性を決めるという変則的な手法ですが、書きたいことを書きつつ体裁を整える「いいとこ取り」ができるので紹介しました。

 実際的なTipsを付け加えておくと、二項対立の骨組みができたらすぐに本文を書くのではなく、スマホのメモ帳やNotion、ツイッタ―など、好きなエディタを使ってアイデアをメモしておくことをおすすめします。私は問題提起と、メインの二項対立が決まったら見出しだけつくり、アイデアが浮かんだらどの見出しに入れるか分類しつつ箇条書きでメモをとっています。全ての見出しに3~5行程度のアイデアが埋まったら、文章のメモを膨らませながら書けばいいだけです。キーボードの前で何時間も頭をひねるより、日常のなかで暇なときに少しずつ断片を集めて、あとで一気に書き上げるほうが簡単です。

イデアは相対的には練り上げられた形でメモしておく。ある程度は文章になっている思考の流れのようなものだ。ある時点までは自分に言い聞かせる。「私は書いているわけじゃない アイデアをメモしているだけだ」

そしてある時点に達すると自分にこう言い聞かせる「もう素材はそろっている あとは編集するだけだ」、と。

www.youtube.com

「椅子に座り続けることが無理な人のための執筆論を語るジジェク(日本語字幕)」より

 さて、引用に頼ったこともあり、ここまででもうかなりの文字数になりましたが、要所は抑えることができたと思います。当初は二項対立については「小技」にて取り上げるつもりでしたが、よくよく考えると「大技」というか、批評ないし作文のクリティカルな部分はこれだと気づかされたので、冒頭に持ってきました。ここまでの記述で批評を書きはじめる「補助輪」としては十分だと自負します。残りの節は私自身の理解のためにまとめたものですが、気になった部分があれば読んでいただけると幸いです。


批評の要素ーー感想・分析・敷衍

批評の要素はいくつか分解できますが、佐々木敦『批評とはなにか――批評家養成ギブス』では、感想、分析、敷衍という分類が紹介されています。

感想:主観的判断

 批評はフォーマルな文体になりがちなので、分析に力点が置かれがちです。感想は分析に劣るように思われるかもしれませんが、批評の歴史は印象批評からはじまっていて、実に由緒正しい批評の作法でもあります。ただ、主観的な判断に依拠してしまうがゆえに、説得力を持たせるには文章の(修辞の)巧さが問われます。印象批評が主流だった当時は教養のある知的エリートが書いていたようですし、分析より感想のほうがかえって難しい側面もあるでしょう。ともあれ、作品の物語と自身の体験を照らしあわせれば(二項対立)、あなたにしか書けない印象批評となります。「いいね」と「★」という統計的に処理できるように数値化された「評価」が溢れかえる現代において、自分自身の言葉で語ることの価値はますます重要になるでしょう。エッセイを書き慣れている人は向いてるかもしれません。

 

分析:客観的判断

 批評にかっちりとした印象を与えるのが客観的な判断で、批評のメインはここにあります。分析には客観性が求められるがゆえに、アカデミックな研究の対象となっています。より尤もらしい分析がしたくなったら「批評理論」を学びましょう。
 ただ注意しておきたいのは、分析の客観性とは「客観的な事実を述べること」ではなく「客観的に妥当な推論によって作品を読み解くこと」である点です。そもそも作品の解釈には幅があり、同じ作品について多様な読解が、正反対の見方が両立でき、それが許されています。分析の誤謬とは、分析結果を誤ることではなく、その分析自体の枠組みのなかで矛盾や誤りをしてしまうことであり、たとえ作者が否定したとしても、その導出過程の価値はまったく毀損されない、と私は考えます。分析については「分析の対象」「分析の枠組み」「批評理論」の節でも深堀りします。

敷衍:(社会的な)価値への接続

 「感想」と「分析」が独立しているのに対し、「敷衍」は「分析→敷衍」などの形で、文章の最後に接続して書かれます。デジタル大辞苑によると「敷衍」とは

意味・趣旨をおし広げて説明すること。例などをあげて、くわしく説明すること。

敷衍(フエン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

とありますが、批評においては作品について論じるだけで終わらず、一般化して社会に向けて言葉を放つことが多いです。ようは「作品を観て得られた教訓」です。小学校の読書感想文や道徳の授業で、「登場人物Aは~~ですごいと思った。わたしも今度から~~していきたいです。」といった作文をしたことがあるでしょうか。これです。
 作品の価値を面白いだけで済まさずに社会的な価値付けを担う要素でもあります。
が、社会→作品方向の社会反映論はまだしも、作品→社会方向の影響力はそこまで大きくないだろうし、作品は社会的価値規範を増強するプロパガンダじゃないし、社会をよりよくするのは政治が頑張れと思うし、そもそも作品には興味があるが社会には興味ないし……もうお気づきかもしれませんが、私はこの「敷衍」が大の苦手です。
 けれど、この部分が欠けた文章は尻切れトンボのような印象になってしまうので、文章の体裁を整えるつもりで捻出します。困ったら、「~~ということを考えさせられたよい作品でした」とか「~~という見方をするとさらに面白いのでは」みたいに作品を肯定すればよいと思います(よいということにしてください)。
 もともと自分のなかで問題意識を持っている人は分析を足がかりに、広く社会に問うことができるので敷衍をメインに据えると書きやすいかもしれません。作品から社会へ、スケールの大きい議論ができるのも魅力です。
 私は共著という形で批評に参加させていただいたことがありますが、分析に終止していた僕の原稿を、共著者*7の敷衍部分とつなげて、『明日ちゃんのセーラー服』という個別作品のから「萌え」をめぐる問題へと発展させることができました。

この章ではアニメ『明日ちゃんのセーラー服』の作画について記述する。アニメ批評の切り口は脚本・演出・演技・音楽などさまざまだが、本稿ではこの作品において特殊な表現である作画に着目する。そしてこの作品の作画に関する記述が、その視覚性を介して「萌え」をめぐる議論へ展開されることを期待する。ビジュアル偏重の「萌え」が視ることの所有性によって成り立つ一方で、そのまなざしが到達できない階層がある、という議論だ。しかし注意したいのは、個別的・具体的な作品の読解が「萌え」という一般的な概念についての単なる説明の道具として従属しないか、という点である。そのような普遍的・抽象的な概念を前提とした結論ありきの演繹的適合ではなく、あくまでも一つの作品から「萌え」概念を導出する手続きをここでは志向したい。

 

「『明日ちゃんのセーラー服』論 超作画、そして萌えについて」(『蠟梅学園中等部一年 夏休みの宿題』に収録)筆者担当パートの冒頭より

 もちろんこれは特殊な事例で、困ったら共著で書けといいたいのではなく、人によって敷衍に重心を置くかどうかはそれぞれということです。私の関心から本稿は「分析」に偏っていますが、「敷衍」を重視する書き方もあるし、商業的な批評では敷衍が重要という印象をうけます。

分析の対象ーー物語・画面・受容

 作品を分析するとはいっても、どこを見ればよいのでしょうか。
 ここではアニメあるいは映画=映像作品についてメインとなる視点を取り上げます。

物語

 意識せずに作品分析を書くと、物語について論じることになるでしょう。「この作品って要するに○○だよね」と要約することは分析の基本であり、あらすじを記述すること自体が物語の分析です(あらすじを書くことについては「小技」の項にて後述します)。物語を読み解くうえで留意したいは、作品全体の流れを追うのではなく(それはファスト映画の仕事です)、ある特定の人物に着目したり、提示した二項対立に沿って、物語を再構築することです。

 作品を鑑賞してまず思い浮かぶ問いは「これは何の話か」ではないでしょうか。そもそも文章=テキストデータじたい、脚本=物語と相性がよいので、意識せずとも物語についての書くことになります。むしろ注意したいのは、物語以外にも目を向けることです。

画面と音

 物語の分析は小説でもできますが、映像作品のメディアとしての特異性は画面(視覚)と音(聴覚)にあります。批評は文字だけで完結する決まりはありません。紙面ならば画像を、WEB媒体なら動画や音声を使ってもよいのです。私たちは言葉(ロゴス)によって作品を語りがちだけど、言葉に全て還元してしまわないで、テキストエディタから目を離して、表層のレベルにとどまって、「作品を観る」という基本に立ちかえることも必要ではないでしょうか。

 

図1 TVアニメ『明日ちゃんのセーラー服』ノンクレジットOPアニメーションより抜粋 ©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会 

このシーンの構図はとても奇妙だ(図1)。画面外から伸びるブレザー服の腕。それを掴む彼女も含め、二人の配置は画面の右側に偏っている。カメラレンズの加工は人物に焦点があてられ、背景はピンボケしている。焦点はキャラクターに絞られるが、二人は中央に配置されず、もう一人の生徒が不自然に見切れている。この作為的な構図が写せなかったもの。それはブレザー服の顔であり、キャラクターの特定要素である。その”隠蔽によって描かれる”のは固有名なき「彼女たち」、ブレザー服の一般的な他者性である。


「『明日ちゃんの非-ブレザー服』―復権する「彼女たち」の固有名」(『蠟梅学園中等部一年 夏休みの宿題』収録)より

 

映像の構成:「ショット」「カット」「シーン」「シークエンス」
カメラの動き:「パン」「チルト」「ズーム」
被写体の撮り方:「バストショット」「ロングショット」「アオリ」「メダカ」「俯瞰」
編集:「フェードイン」「フェードアウト」「カットイン」
などの撮影用語を知っておくと画面について書く上で助けになります。詳しくは「ショット分析」などで調べましょう。

 

 また、映像作品における<音>も重要な情報です。ぱっと思いついた作品では『竜とそばかすの姫』『ONE PIECE FILM RED』『ぼっちざろっく』など、音楽がテーマの作品では音について論じる必然性があります。音楽を論じるうえでも 「BPM」「曲調」「歌詞」などの用語がありますが、筆者は音楽批評には疎いので詳しくは紹介できません。

 ともあれ、物語以前の情報も積極的に分析することで、分析に奥行きが生まれることでしょう。

山田リョウ「音を聴け 音を」
©はまじあき, 芳文社, CloverWorks
下記動画のサムネイルから引用
音を聴け音を - ニコニコ動画
受容

 物語・画面・音は映像作品を構成の要素でしたが、作品がどのように受容されているか、という外在的な分析もあります。興行収入やレビューの平均点などの定量データ、口コミの傾向などの定性データを参照して作品がどのように広まっているか調べることができます。

 また、『けいおん!』~『ゆるキャン△』~『ぼっちざろっく』のように、アニメの影響で新しい趣味をはじめるなど、視聴者は作品を観るだけにとどまらず、さらなる趣味活動につながるような作品も多くなっています。あるいはロケ地を観光する「聖地巡礼」も分析の対象となるでしょう。つきつめると社会学的な、文化批評の範疇になってきますが、作品批評を書く上でも、一般的な受容(口コミ)を調べておくと自説との比較対象にできるので、Twitterやブログの感想や商業記事に目を通すと役立ちます。

(前略)
 そういった肯定的な作品受容の一方で、以下のような反応も見受けられる。

――本作は美少女キャラに(中年男性的な)趣味をやらせるタイプのいわゆる「趣味系」作品であり、『ゆるキャン△』『スローループ』『やくならマグカップも』などの先行作品と同様に、キャンプ、釣り、陶芸、そしてDIYなどの趣味を可愛らしいキャラクターで包装(パッケージ)したコンテンツにすぎない。

なぜ『Do It Yourself!!』は近未来設定なのか?―シンギュラリティによる意味付けをめぐって - 虚無らがえり 冒頭より

分析の枠組みーー作家論・テクスト論・社会反映論

 ここでは批評理論のうち、作家論・テクスト論・社会反映論を取り上げます。作品の分析にはいくつかの枠組み(私は流派や主義イズムと捉えています)がいくつかあります。批評理論は現象学マルクス主義精神分析構造主義ポスト構造主義、新歴史主義、カルチュラル、スタディーズ、ジェンダーフェミニズムクィア理論、ポストコロニアリズムなど、人文諸科学と共に展開されていますが、ここでは理論史ではなく、実践に活用しやすい批評の範囲を規定する3つの枠組みを紹介します。

作家論

 作家の性質が作品に反映されていることを前提とし、作家の伝記的エピソードなどを補助としてテクスト(作品)を論じる、あるいは複数のテクストを比較しながら作家の特性=作家性を分析します。上述した東浩紀の「前期/後期モデル」がまさにそうですが、伝統的な手法です。国語の授業やテストで出題される「作者の考えを書きなさい」も作家論的発想であり、一般に浸透している考え方ではないでしょうか。
 アニメ監督なら宮崎駿庵野秀明細田守新海誠などのヒットメーカーだと書きやすいでしょう。作品が好きというよりは監督が好き、という人は作家論を軸に据えてみては。

テクスト論

 「テクスト」とは文章を意味するが、小説なら文章を、映画なら映像を、作品そのものを意味します。ようは「作品」と同じ意味なのですが、「作品論」とだけ書くと作品=テクストの外部の作家まで内包されるようにも読めるため、訳さずに「テクスト」としています。
 ロランバルトが「作者の死」を宣言したように、一度書かれたテクストは「作者の意図」の支配からのがれて自律的に振る舞う以上、多様な解釈が許されており、むしろ「作者の意図」に押しとどめるべきではなく……云々。簡単にいうと、「作者の人そんなこと考えないと思うよ」という指摘に対して「それになんの問題があるのか?」と返す流派です。

©椿いづみ, スクエアエニックス
千代ちゃんは作家論者。このコマだけ切り抜かれて独り歩きしていますが、
脚本の人(野崎くん)は”そこまで考えていた”というオチが続きます。


 私自身はテクスト論の立場をとりますが、それは小説や漫画と違って大規模な集団作業で作られる映画やアニメというテクストが、監督によって完全に管理されているとは思いにくい(作家性がフルに反映されていることを前提としがたい)という妥当性の観点だけでなく、誤謬を回避しやすいという単に実用的なメリットがあるためです。
 作中のあるシーンを位置づけるとき、逡巡なく「作者の意図」と主張することにはリスクが伴います。私たちはその作品に携わったわけではないし、監督にインタビューできたわけでもありません。裏取りのできない「作者の意図」を「代弁」することは、虚偽の吹聴となってしまうかもしれません。(逆に、作家論ではインタビューなどに収録された作家の証言は強力な論拠になります)
 「~~として描かれる」「~~のように映る」といった言い回しでこの手の問題は回避できますし、作者に支配されない「深読み」によって作者の意図を飛び越える批評に価値があるのではないでしょうか。「作者の死」「公式が勝手に言ってるだけ」などと聞くとラディカルに思えるかもしれませんが、誤謬を避けて多様な解釈を認める(自分の分析が絶対としない)という謙虚な側面もあるのです。*8

社会反映論

 作品にはその時代の社会が反映されており、作品をひも解くことで社会を論じることができる、という流派です。歌は世につれ世は歌につれ。当時流行した作品を介して「時代の気分」の分析を試みます。セカイ系→日常系→異世界系といった主流ジャンルの推移を分析したり、とても広い視点で作品を位置づけることもあります。歴史的にもっとも大きな切断線は「第二次世界大戦(とその敗戦)」となるでしょう。現代では「震災」や「コロナ禍」など、社会的にインパクトのある出来事の前後に切断線を引くと、社会の変化をうまく捉えられるかもしれません。東日本大震災と『まどまぎ』、震災と『シンゴジラ』など盛んに論じられてきた印象です。

 社会反映論は前提条件(社会の潮流が作品に影響する)に隙があります。作品は自身を内包する社会の影響を受けざるをえないが、はたしてどの程度つよく影響されるのか。反骨的な作家が社会の逆を向いたり、社会よりも個人的なこだわりが強く反映されているのではないか。

slides.com

 松永伸司の講義スライド「社会反映論の落とし穴」(京都大学での講義資料?)では、社会反映論の脆弱性がきつめに指摘されています。ただ、これは厳密な論証を重んじるアカデミックな現場であることを留意されたい。

 テクスト論は誤謬が起きにくいが、テクストについてしか論じないのでスケールは小さくなってしまう。社会反映論は正当性は低いが、社会という広大なスケールを論じることができる。つまり「尤もらしさ」と「話のスケール」のトレードオフだと私は諒解しています。
 そりゃ作品をもってして日本社会とかデカいことを語るなら、無理が生じるにきまってますよね。しかし批評とは感想と研究の汽水域に位置しており、厳密さだけを求めるのではありません。論理の飛躍は批評の華。この懐の広さが批評の魅力(であると同時に厄介なところ)だと私は思うのです。

 

 電子回路の仕組みが分からなくてもスマホを使えるように、批評理論を知らずとも批評は書けますが、自身の批評の方法論的反省は最低限必要ですし、他の批評を読むときに「これは社会反映論か」「この書き方はクィア理論っぽいな」と理論の枠組みがわかると読みやすく、自身の執筆に活かしやすいです。本稿の説明は理論をどう実践するか、という視点で書かれたものであり、テクスト論はポストモダンと繋がっていたりとそれぞれ理論的な背景があります。批評理論史をまとめた本や、紹介できなかったも理論も含めて、どれも大抵は日本語で書かれた入門書や教科書がそろっているので図書館などで借りてみてはいかがでしょうか。

小技

 ここでは批評を書きはじめた方から質問されたこと、独力で書くときに知りたかったテクニックをまとめます。

あらすじは自分で書く

 未見の読者を想定して、作品のあらすじを書くことが多いと思うが、公式ホームページや「Wikipedia」や「映画.com」の内容をコピペしないほうがいいです。なにもコピペが悪徳なのだと言いたいわけではなく、その方が書きやすいからです。「分析の対象」の節で物語の分析について述べたように、「作品がどんな話だったか」というのは大事な分析成果です。公のあらすじは、だいたいの大筋をさらった要約であり、自分の見立てと一致することは少ない。むしろ、公式のあらすじ/自分から見たあらすじの違いこそが論じるべきポイントです。

 あらすじを引いてから物語を分析するのは二度手間なので、あらすじを書くと同時に、物語の分析に入ってしまいましょう。大胆に物語を再構成して、全く別作品のように紹介してもかまいません。物語のほかに画面・音など分析したいことがあれば、常識的なあらすじにしておき、物語の分析がメインなら公式の物語のオルタナティブを再構成して独自性をアピールするなど、使い分けるとよいでしょう。

 文体の選択

 文体、とくに「です・ます(敬体)」と「だ・である(常体)」のどちらで書くか、という質問もよく聞かれます。これはマジでどっちでもいいのですが、感想よりの柔らかい文章は「です・ます」、分析よりの固い文章は「だ・である」とすると丸い。私は書きはじめたときは「です・ます」でしたが、今は「だ・である」を愛用しています。ふてぶてしくなったのもあるかもしれませんが、脳内言語は常体なので、それを敬体に変換するプロセスで生じるラグをきらってのことです。ではなぜこの文章を敬体で書いているかというと、「教える」という構造からして偉そうになってしまうので、文体でバランスをとろうと画策しているからです。ちなみに全文を常体で書いたうえで、いちから敬体に書き直しています。
 また、書きはじめのころの文章には「私は~~と思いました。」という表現が多くなりがちです。謙虚な姿勢は大切ですが、あまりにも多いと自身がなさげに見えるし、文体が単調になってしまうので、断言の表現も取り入れるべきでしょう。そもそも筆者がそう書いている時点で「筆者は~~と思っている」ことは自明なので、これは冗長な表現です。感想の記述なら自分が特に強く思っている部分の強調に、分析の記述なら事実や論証と意見の部分の区別に使うと、その表現の妥当性が生じます。

 序文の書き方

 私も序文は苦手なのですが、だいたい3パターンの書き方があるようです。

・作品の概要からはじめる

 掲載媒体によりますが、未見の読者を想定して公開日や製作会社、監督などの書誌的な情報から記すとやりやすいでしょう。

 2022秋期放送のオリジナル・TVアニメーション『Do It Yourself!!』は、その独特な作風から(一部の層に)人気を博した。インナーカラーのような攻めた色彩設計に、どこかあたたかい筆致。マイペースな結愛せるふと、彼女をよく理解してくれる周囲の人々の織り成す物語は、現代の生活で摩耗する私たちに癒しをもたらした。あるいは、せるふと幼馴染”ぷりん”の関係が回復するまでの物語として楽しむこともできるだろう。

なぜ『Do It Yourself!!』は近未来設定なのか?―シンギュラリティによる意味付けをめぐって - 虚無らがえり 書き出しより

 

・作品外の情報からはじめる

 共有しておきたい前提知識があれば序文に入れてしまうという手もあります。なんとなくこなれた印象を与えられますが、本文に挿入する必然性があるか精査しましょう。エピグラフからはじめるのもお洒落。

 チリ共和国の首都サンティアゴから南に三四〇キロメートル。鬱蒼とした森の中には、ドイツ系移民たちの暮らす広大な異民族コミュニティがあった。「コロニア・ディグニダ( Colonia Dignidad)」とよばれるその地には、いかにもドイツらしい勤勉さで開墾された東京ドーム約二八〇〇個分もの敷地が広がり、農地に学校と病院や教会、そして武器の地下工場が建てられた。

「コロニアの再生産として観る『オオカミの家』」(『カカリマカ・スマリカ』収録*9)書き出しより

 

・モノローグからはじめる

 私は書いたことがない、というか書けませんが、関西圏の学生批評では個人的なエピソードから始まる文章をみかけます。エッセイ寄りの文体だったら作品との出会いや、映画館までの道のりなんかを書くとエモいのでは。

 

 文章の締め方

 「批評の要素」で先述のとおり、そこまでの記述を敷衍させて、それっぽいことを書けばよいでしょう。文章が長い(感覚的には5000字以上)場合は、ここまでの論点を要約しておくと親切です。私はカッチリとした作品分析を書いてきたあとで、ここらで羽を広げて情緒的な文体で書きます。序文のモノローグが書けないと記した理由がこれで、エモは最後にとっておきたいのです。

 私たちの場所、キャラクターも奇跡も存在しない水槽の外の方へ作品は近づく。くくるたちと同様に、ここ(現実)もまた肯定し得る場所と、私たちに気づかせるようだ。「与えられる場所で励むこと」それは素朴な教訓にすぎないかもしれないが、作品が見せる「鬱展開」とその回復の体験によって、それは単なる言説以上の強度を持った。あるいはそれが、アニメーションにおける奇跡の作法なのかもしれない。ついにそれは果たされる。水槽を海水で満たし、死体に生命を、言説に物語を注ぐことによって。

「鬱と希――『白い砂のアクアトープ』における「鬱展開」について」(『鬱と僕と…』収録) 結言より

 どうしても書けない場合は主題歌の歌詞を引用して強引に終らすという裏技もあります(小声)

 

書くつもりで観る

 人と一緒に映画をみて意見を交わすときに「よくそんなにしゃべれるね(書けるね)」と言われることがありますが、特別なセンスが備わっているわけではないと思います。私は書く(話す)つもりで映画を見ているから、アウトプットの瞬発力が高い(ように見える)だけです。アウトプットを意識せず映画を見ている人と比べて、いわばフライングをしているのだから当たり前ですよね。新作映画などは経済的な事情からリピートするのが難しいので、この一回で書けるようにと真剣に見ます。
 しかし、見てからすぐ書くのではなく間隔をあけて案外忘れてしまったほうがいいのかもしれません。時がたっても印象に残っている断片こそ、自分にとって重要な問題となるでしょうから。

 

引用のしかた

 適切な引用は文章に客観性を持たせることができ、連続する言説にのっかることができます。人文系の、とくに文学部の大学教育を受けた書き手は豊富な文献を巧みに引用していて流石だなと思う反面、文章を書くために本を何冊を読むのはしんどいな、とも思ってしまいます。ただ、(どこで読んだのか失念してしまいましたが)引用を「召喚」と表現する文章を読んで膝を打ちました。引用とは面倒な作業ではなく、先人の知恵を借りる、困難を簡単にするためのお助けアイテムなのです。

二つの家は、時代性とともにその温度も異なるようだ。ハイテクなロボットが管理する無機質でクールなスマートハウスと、動物たちと暮らすあたたい日本家屋。今日ではもはや珍しいせるふ家はノスタルジーすら呼び起こす。新しい技術の登場によって、古いものが相対化され「あたたかく」見える現象は、メディアの変遷でも見受けられる。YoutubeなどのインターネットメディアとTV、TVとラジオ、ラジオと新聞・書籍......これらのニューメディアの登場と、オールドメディアの再-評価の反復である(これは根源としての文字エクリチュール話し言葉パロールの対立まで遡及できるだろう)。技術の進歩(インターネットと個人用端末の普及、映像の撮影・放映、無線通信、活版印刷)によって新しいメディアが登場すると、それを歓迎するテクノオプティミズムと、懐疑的なオールドメディアノスタルジアの対立が発生する。(参考:石岡良治『視覚文化「超」講義』(2014)フィルムアート社 P218~)革新派/保守派の政治的対立にも見えるこの図式は、実際には技術の進歩という線形的な時間に伴って展開される、必然的な時代性の衝突、時代的変化への葛藤なのだ。

 

なぜ『Do It Yourself!!』は近未来設定なのか?―シンギュラリティによる意味付けをめぐって - 虚無らがえり 本文より


 ここではメディア論からニューメディア/オールドメディアの図式を引用していますが、たしか執筆時点よりだいぶ前に読んだ本の内容をなんとなく覚えていて、図書館で借り直して確認しつつ引きました。本文を書くにあたって文献にあたるのが理想なのでしょうが、そうはいっても義務的な読書はつらいので、自分の興味に沿って本を読んでおいて、知識のストックから取り出すと楽です。それに引用元は本だけでなくネットの記事でもいいし、インタビューなども使えます。別の作品を引き合いに出すのもある種の引用技術でしょう。本稿では、三人の書き手の方法論を呼び出して類似点をまとめたうえで、しれっと自分の手法も並置していますが、これが引用の力です。
 ただし見かけばかりに気を寄せて自分でも理解していない格式高い書籍を引用しないように注意したいところです。それは単に誠実さにかけるし、強力すぎるテクストを引用すると本文が食われて・・・・しまいます。自分がしっかり咀嚼した、慣れ親しんだ文章を大事に呼び出しましょう。なるほど「召喚」とは言い得て妙です。

公開手段

 さて、こうして書いた文章をどこで公開すればいいのでしょうか。
――「やっぱり気恥ずかしいし、やめとく」だと?

©芥見下々, 集英社

 私は批評の最良の読者とは自分自身であると思っています。批評は何らかの対象について書かれた文章ではあるけれど、その文章には当時の自分の視点が確かに焼き付いている。1年くらい経って自分の文章を読み返してみると、我ながら一生懸命考えてるな、感心することがあります。別に誰かに公開しなくたってよいのです。それでもせっかく書いたんだから、誰かに読んでもらいたい!と思ったら、以下の公開手段があります。

 

・知り合いに読んでもらう
 ネットに公開するのはちょっと...って人向け。お互いに作品評を交換して読み合っても楽しいですね。大学や出版サークルに入るのも手でしょう。

 

・ブログに書く
 これが一番手っ取り早いです。最近だと「note」に書く人が多い印象。私はこの「はてなブログ」を愛用していますが、脚注機能がありHTML編集ができる点、「いいね」が可視化されにくいところが気に入っています。(「note」のSNSチックな運用が肌に合わないのもあります。)

 

・同人誌に寄稿する

 紙媒体で書かれた文章はPV数でみればブログよりも(かなり)少ないです。だから劣るといいたいのではなく、にもかかわらず・・・・・・・、物理的な冊子を作ってしまう以上、そこには固有の魅力があるはずです。自分の書いた文章を(お金を払ってまで)読んでくれる人がいるという実感は、なかなか味わえるものではありません。

 「文学フリマ」(コミケの文学版みたいな同人誌即売会)では「評論・研究」ジャンルで同人誌を頒布しているサークルがたくさんあります。中には掲載原稿を募集しているサークルもあるので、Twitterなどでコンタクトをとると載せてもらえるかもしれません。私は自身の所属サークルのほか、『明日ちゃんのセーラー服』『映画大好きポンポさん』の同人誌に寄稿させていただきました(ただ、これらの雑誌は批評誌というよりは「コミケ」的な、同好会の側面がつよいです)。自分の好きな作品を扱った同人誌が希望募集していればラッキーです。私は寄稿しませんでしたが、文学フリマ東京37では評論誌『ブラインド』*10が『まちかど魔族』『リコリス・リコイル』の批評を募集していました。シャフト専門にはなりますが、批評誌『もにも~ど』もときどき寄稿募集していたと思います。

moni-mode.hatenablog.com

また、WEB媒体では「週末批評」もクオリティが高く、校正が丁寧なのでチャレンジしてみてもいいかもしれません。

worldend-critic.com

 

 この記事を書くうちに思ったのですが「試作派」などと称して、批評を書きはじめた人向けの掲載媒体があってもいいかもしれません。完成されたテクストを掲載するのではなく、批評の書き手を増やし、批評の書き方を探求していくような、敷居の低い発表の場を確保することは長い目で見て重要でしょうから。(余力があれば)来春の文学フリマ東京にむけて何らかの活動をしますので、よろしくお願いします。

 

(2023-12-15更新)

 ということで、同人をつくりました。

note.com


参考資料

 そもそも本稿のターゲットは批評に興味あるけど、書き方がわからない、本を読むのはちょっとハードルが高い、という想定をしているし、だからなるべく簡潔に、「二項対立の設定」だけ読めばとりあえずなんとかなるように書いたつもりです。
ただ、自分一人の考えは行き詰ることが多い。麻雀の点計算と同じで、もっと面白く、より正しく、より自在に書きたいと思ったら文献にあたりましょう。筋トレと同じで地道な積み重ねのうちに気づかぬうちに成長していることがあります。一緒に勉強していきましょう。

 商業同人問わず批評そのものも読んだ方がいいのでしょうが、私たちは漫画をたくさん読んでるけど描けるわけではないですよね。まずは「批評の書き方」などで調べることをおすすめします。

※書影があった方がわかりやすいと思いAmazonのリンクを貼っていますが、筆者には一銭も入りませんのでご安心(?)を。

批評の書き方

・千葉 雅也, 山内 朋樹, 読書猿, 瀬下 翔太 『ライティングの哲学』(2021)星海社

 批評を書く以前に、長文を書くことへの戸惑いと苦悩があります。この本では書くことの理念的な話から愛用しているテキストエディタまで「書くこと」について記されています。本文も座談会形式で書かれているので読みやすいです。

 

佐々木敦『批評とは何か?ーー批評家養成ギブス』(2008)メディア総合研究所

 

 感想--分析--敷衍の三分類はこちらを参考にしました。著者は映画と音楽批評を専門にしているので、音楽批評についても書いてます。ただ講義録の書き起こしということもあり、雑談的な文章で紙の本として読むにはどうかな、と思いました。

 

・広野由美子『批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 』(2005)中央公論新社

 


 一般むけの批評理論の本ならまずこれ、という印象です。本文で紹介した理論に即して『フランケンシュタイン』を批評してみせるという画期的なつくりです。

 

批評理論

筒井康隆文学部唯野教授』(2001)岩波書店

 こちらは小説ですが、印象批評からポスト構造主義までの流れを追うことができます。筒井の軽妙な文体で描かれる文学部教授たちの日常も面白く、読み物としておすすめです。
 
・森本奈理『文学批評理論「入門」 : 精神分析理論からポストコロニアリズムまで』(2015)文教大学文学部紀要28, 39-54

cir.nii.ac.jp

 文教大の英文科では『文学部唯野教授』をテキストに使っており、ポスト構造主義以降の文学批評理論についてまとめた研究ノートが公開されています。

 

・土田知則,神郡悦子,伊藤直哉『現代文学理論―テクスト・読み・世界(ワードマップ)』(1999)新曜社 

 

 文学理論の網羅的な解説書。キーワード単位でまとまってるので、ちょこちょこ読みやすいです。

 

・石原陽一郎『映画批評のリテラシー―必読本の読み方/批評の書き方』(2001)フィルムアート社

 

 人物単位で批評理論を紹介した本。ブックガイドの記述が豊富で独学が捗ります。”ジジェクの『ヒッチコックによるラカン』は断じて『ラカンによるヒッチコック』ではないのだ”という一節が好きです。


アニメ研究

小山昌宏,須川亜紀子『アニメ研究入門―アニメを究める9つのツボ』(2014)現代書館

 

 こちらはアニメ研究の論文集で、新海誠作品の背景論~情報システムとしてのアニメ論まで幅広い分析手法があることが分かります。『化物語』のショット分析はたいへん参考になりました。

 

加藤幹郎(編)『アニメーションの映画学』(2007)臨川書房

 これもアニメ研究の論文集。アニメ研究の古典であるエイゼンシュテインの「原形質」論の解説が載っています。アニメーションの動きを定量解析する計量アニメーション学なる手法なんかも紹介されてます。

 

 むすびに――批評を書きおえるために

 本稿では作品批評を書く一助となるような情報をまとめてみましたが、それを書きおえる・・・・・ために最も大切なことは、自らが生成するテクストを信じ切れるかどうかにかかっているのではないでしょうか。多くのプロフェッショナルが関わり、多額の予算を注いで作られた作品について、たったひとりで切り込んでいくことは心細いでしょう。それを乗り越えるためには、自身の主張を精査しながら積み上げる内在的な正当性や、書き手である自分自身についての総合的な自信が不可欠です。

 しかし、それでも、批評という素朴で孤独な営みは、圧倒的な無力さの前に投げ出されるという不安を消せないだろう。そうした不安と表裏一体のものとして、たった一人で、徒手空拳で、素手で、対象に向き合っていく、という面白さがあり続けるだろう。既存の価値判断に頼れない場所で、自分の判断に賭けて固有の批評的な価値を提示する、むしろそれを創造する、という孤独な喜びは変わらずあるだろう。

 

book.asahi.com

 あるいは、いま書いている文章そのものの価値に不安があるかもしれません。けれどあえてメタに考えないことは、批評のみならず創作全般についても大切でしょう。メタ視点に立って「そもそもこんな文章を書く意味は」「原稿のクオリティが」と構えてみても、賢そうに装えるだけで終わりも始まりもやっては来ない。オブジェクトのレベルにとどまって、孤独な没入と葛藤の果てに、私たちは作品と決着をつける・・・・・・ことができるのです。こうして書かれた、あなたのたったひとつの批評が、だれかの心に止まるかもしれない。そして、作品たちはみな、あなたの言葉を待ち望んでいる。◇

*1:2023年11月1日現在のgoogle検索の結果では、

誰でも書ける! アニメ批評っぽい文章の書き方 - てらまっとのアニメ批評ブログ

【プロ直伝】“アニメレビュー”ってどう書けばいいの? 藤津亮太が伝授する、たった1つの心得と3つの技 | アニメ!アニメ!

お手軽に批評と自称する文章を量産する方法(すぱんくtheはにー編)|すぱんくtheはにー

の順に表示されています。

*2:大学院生時代に『ツインテールの天使』という革新的な『けいおん!』評を書かれた方で、現在もTwitter上のスペースで新作アニメについて語る「低志会」、丁寧な校正のもとハイクオリティな批評をジャンルを問わず公開する「週末批評」というWEBサイトを運営されています。Twitter: @teramat

てらまっと𝕏 (@teramat) / X

*3:この言い回しは物騒だったとご本人が後にふりかえっていましたが、好戦的なニュアンスはなく「先行言説」くらいの意味です。

*4:同人誌などで批評を書く活動を長く続けている方で、毎週新作映画を観て作品批評を一本書く、という鉄人的な批評活動をされています。すぱんくtheはにー|note

*5:この二項対立が離れるほど(意外な年代で区切るほど、一般的な作品受容と異なるほど、無縁な作品と比較するほど)興味深い批評となります。ならば批評の巧拙とは、この二項対立の設定と、それを成立させる文章技術なのかもしれません。

*6:こちら11/11の文学フリマ東京37にて頒布されますので、よろしくお願いします。ブース:た-17

*7:舞風つむじさんという方で、早稲田大学負けヒロイン研究会・明日ちゃん活動の会の主宰をされています。Twitter: @maikaze_tumuzi 

舞風つむじ (@maikaze_tumuzi) / X


*8:私はテクスト論と受容理論の違いが曖昧(テクスト論は受容理論に内包される?)ですが、受容理論=読者の立場に着目する考え方は、昨今の苛烈な「創作者信仰」を相対化する上で重要だと思います。批評に関する拒否感の一部は、「つくってもないのに偉そうに話してる」イメージからくるものですが、ここには国語教育で染みついた作家論的発想が見られます。「作者の意図」を絶対的な正解として崇拝すると、作品の「正しい解釈」を一意に決め、その解釈が正しいか/正しくないかの白黒評価に陥ってしまいます。いやむしろ、正しいかどうかという「採点」がないと不安なのでしょう。作品内部の謎を解き、作者によって正解/不正解を判別可能な「考察」が批評と比べて人気なのはそういった背景があるのかもしれません。ともあれ、読者の積極的な立場を擁護するテクスト論が浸透し、正しい/正しくないの二分法ではなく、解釈やその手続きの面白さという価値基準が広まることで批評への拒否感はいくぶん緩和するのではないでしょうか。

*9:こちらも文学フリマ東京37にて頒布します。よろしくお願いします。ブース: つ-36

*10:すぱんくtheはにーさんの「アニメ批評の書き方紹介」的な記事も掲載されるらしいです。Twitter: @blin_d_s 

アニメ批評誌『ブラインド』@文フリ東京37そ-58 (@blin_d_s) / X

アニメと振り返る2023年

 刹那的に生きるという悪癖は、成人しても直らなかった。それどころか、6年間にも及ぶ「自由な」暮らしを経て、この性癖はさらに悪化した気さえする。夏休みの最終日に全日分の日記を書くような愚かしさから卒業できずにいる……とはいえ、だ。このまま回顧することなく、Spotifyのハイライトだけが僕の2023年を総括したまま新年を迎えるならば、生きた心地がしない・・・・・・・・・。この365日を通過したという紛れもない事実を、生の実感を、わが手に把持しなくてはならない。(べつにドラマやソシャゲのイベントでも、なんでもいいのだが)テレビアニメを端緒として、あの時の記憶を探りたい。

 

1~3月(冬アニメ)

anime.eiga.com

 このクールは『おにまい』も放送していたが、最後まで観てなかった気がする。スケジュールアプリを確認したら、前年から早期選考をしていて、中旬に某半導体メーカーの最終面接を受けたようだ。一次面接は手ごたえがあったので余裕をかまして挑んだところ、志望動機が曖昧過ぎて面接の後半は反省会みたいになってしまった。

面接官「いや君がなにできるかは分かったからサァ、もっと"熱意"を伝えなきゃだめだよ笑(真顔)」みたいなことを言われ、その場でお祈り。のちのち調べたり面接を受けていくうちに、自己分析+企業研究の合わせ技で"能力"と"熱意"をアピールするのが就活の定石だと気づくことになる。当時の僕は就活を舐め切っていたので早期選考の段階で面接官から直接指摘されたことは、振り返ってみればいい経験になったと思う。当時はふつうに凹んだが。

 とまぁこんな感じで「お仕事ください!なんでもしますから!*1」という精神状態で過ごし、リクナビのタブを開く頻度と反比例するようにDアニメを開く頻度は減っていき、もとから細かったアニメ筋はさらに萎んでいった。そんな就職活動という、自分の理想像が社会から見て好ましく見える像へとすり替わっていく最中、『大雪海のカイナ』だけはかかさず観ていたようだ。

 雪だらけの凍てついた作中世界は、当時の季節感とマッチして「リアタイ」感があったし、ポストアポカリプス的な衰退した世界観がむしろ安らぎを与えてくれた。そういえばその年の金沢は異様な寒波で、上階の水道管が破裂して僕の部屋ではキッチンが水浸しになりました。

 午前5時に異音で目が覚め、台所に向かうと換気扇からシャワーのように水が流れており、午前からシフトに入っていたバイト先に欠勤の旨を伝え、管理会社に電話。死んだ魚の目をしながら2時間くらい床に溜まった水をセコセコ排水していると、死んだ魚の目をした不動産会社の人がやってきて原因の水道を止めてくた。内心もっと早く来てよはよこいやと苛立っていたが、市内の物件で同様のトラブルが相次いでいると死んだ魚の目を歪ませていたので、何も言えず隣の物件に一旦引っ越し。このような自らの受難を『大雪海のカイナ』と重ねて観ていたのかも。

 

4~6月(春アニメ)

anime.eiga.com

 4月からも就活を続けていたが、件の面接をふまえて企業研究に力を入れた(といっても会社説明会を真面目に聞き、IR資料読み、OBとの座談会に参加した程度)。第一志望の面接では、御社独自の人事制度に魅力を感じてェ……みたいなことを話したら「ウチのことちゃんと調べてくれてうれしいです(真顔)」と好感触。失敗から学べたうれしさを噛み締めつつ、4月末に内定をもらって就活編は完結。

 

 で、アニメの方は『江戸前エルフ』『推しの子』『僕ヤバ』『久保さん』『君は放課後インソムニア』『U149』『スキップとローファー』など、見返すとかなり豊作だった。

 『推しの子』の1話が衝撃的で、放送直後に居酒屋で会った知らない人と「目のハイライトの演出がサァ!」「アニメーションにおける静止画が"死"の表現として優れていてェ」と語り合ったことを覚えている。ただ、あえてピックアップするとしたら『君イソ』ーーというより白丸先輩(白丸結)は外せない。

『君は放課後インソムニア』3話より
©オジロマコト小学館/アニメ「君ソム」製作委員会

https://www.youtube.com/@owattahito

 バイクに乗ってる萌えキャラって萌えですよね(トートロジー)。このフェティシズムは中学生のとき読んだ『キノの旅』で萌芽し、『ゆるキャン△』の志摩リンを経て、『スーパーカブ』をもって自覚に至った。少女×バイクの取り合わせは、斎藤環がいうところの戦闘美少女=ファリック・ガールの一形態にすぎないかもしれない。二輪車という不安定ながら単独走行に適したマシンは、美少女の孤高さ、完全さを強化する装置にほかならない。しかし僕は自らを必要としない人格を偏愛する倒錯したフェティシズムの果てに、関係とは異なる方法で、自らの内に展開する=「なる」ことによって彼女に到達するという一種の悟りに至った。200kmぐらいカブで移動してるときに。

 横道にそれてしまった。白丸パイセン、マブいっす(不良少年)。ずっと一人でカブに乗って写真撮って、社交的なタイプじゃないんだろうけど、面倒見よくてさ、シャイなところも心にぐっとくる。

”これじゃあ『君は萌課後もーかごインソ萌ニア』だよ~~~~(???)”
『君は放課後インソムニア』10話より
©オジロマコト小学館/アニメ「君ソム」製作委員会

 そういえば当時睡眠リズムが終わっていて僕もインソムニアだったので、この時期から学生相談室(カウンセリング)に通いはじめた気がする。今でも月1くらいの頻度で通っていて、精神の健康に寄与している。心療内科の紹介状も書いてくれるので、睡眠や精神の悩みがある大学生におすすめです。

7~9月(夏アニメ)

anime.eiga.com

 ほかには『五等分の花嫁∞』『呪術廻戦 2期』『好きな子がめがねを忘れた』『うちの会社の小さい先輩の話』など。ツイッターのTLでは『ちいせん』が盛り上がってたっぽいが、正直夏アニメはあまり観てなかった。『好きめが』はプロモーション映像の作画がリッチで魅かれてみてみたけど、ゆるいラブコメの割に作画カロリーが高すぎてしんどくなってしまった(腑抜け)。『怪人開発部の黒井津さん』『4人はそれぞれウソをつく』みたいな、いい感じに肩の力が抜けてる深夜アニメっぽいやつが見たいんだよ!と絶叫。こうして人は年を経るにつれて「中華そば」と「ラーメン」の違いにこだわるようになっていく。

”深夜アニメってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
暗転した次のシークエンスで作画崩壊が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。”
『怪人開発部の黒井津さん』11話より
©水崎弘明・COMICメテオ/「怪人開発部の黒井津さん」製作委員会

 でも『幻日のヨハネ』は毎週正座して観てたワケは、ひとえに主人公=ヨハネの境遇に自身を重ねていたからかもしれない。ヨハネは架空の中世ヨーロッパ風の田舎=「ヌマヅ」からアイドルになるべく上京したが結果は実らず、あえなく地元に帰ることになる。*2そこで雑用みたいな仕事をこなしつつ自分の将来を見つめていく……というあらすじなのだが、2話の展開がとても刺さった。

 ヨハネには地元の同級生(?)が何人かいるのだが、みんなお菓子屋を売ったり実家の旅館を手伝ったり、公務員になって働いており、その様子を見学して回るという見る人が見れば精神的リョナじみた回だった。「さーて萌萌過剰摂取モエモエ・オーバードーズ、キメますか(笑)」と再生ボタンをクリックした僕のニチャついた顔面は、みるみるうちに真顔になった。

 盆に帰省したとき、高校時代の友人たちとバーベキューをしたのだが、大学進学した同級生も学校の先生や医療従事者、公務員として立派に働いていた。僕はというと、もう味がしなくなった親のスネを未だに齧り続ける学生であり、ぐぅーっと胸が苦しくなった。その夜は飲み過ぎて、帰り道の公園で四肢を投げ出して天を仰ぎ、ギリギリたどり着いた実家のベランダ家庭菜園にアホみたいに嘔吐した――23の夏。

 

10~12月(秋アニメ)

 そして今季、『葬送のフリーレン』『薬屋のひとりごと』『SPY FAMILY 2期』『アンデッドアンラック』『星屑テレパス』など、なかなか粒揃いだ。しかし、最終回がいちばん気になるアニメは――

 

anime.eiga.com

 

 『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』はいわゆる「タイムリープもの」作品で、開封すると発売当時のアキバにリープする不思議なエロゲを手に入れた主人公=コノハ*3がエロゲの歴史をなぞり、そして追い越していくSFアニメである。作品を端緒に過去を思い出すことが、ある種の時間遡行とみなせるのならば、この記事もまた『16bit』とパラレルなのだ!16bitどころか30fpsデジタルアニメーションだけど。僕は煽情的な服装しか着れない呪いにかかったインナーカラーの美少女イラストレーターではないけれど。

『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』"あの頃"風公式サイト

https://16bitsensation-al.com/90s/

©若木民喜/みつみ美里甘露樹(アクアプラス)/16bitセンセーションAL PROJECT

 ホームページも出来よくってェ……"あの頃"のにおいがムンムンでェ

 

はい。
©TBS

 序盤は作画の脱力感やコノハ=タムの雑に萌な感じがちょうどよくって、同期に放送中のフリーレンとのギャップも相まって、それこそ「こういうのでいいんだよ」ってスタンスで観ていた。だが後半にかけての大雑把なSF展開が深夜アニメすぎて、どんどん没入していき、今では「こういうのいいんだよ!!」と絶叫している。残り1話なんですけど畳めるんですかね、これ。

 

 で、人生の方はというと、同人誌を立ち上げたりしました。

note.com

 (おかげさまで14本の記事が参加予約されました。ありがとうございます。)

 直近の課題は卒業研究だけなんですけど、まだ実験は続いていて、グラボの性能が足りなくってェとクネクネしてたら新卒の初任給くらいのエグイ𝑴𝒀 𝑵𝑬𝑾 𝑮𝑬𝑨𝑹を支給されてしまい、この文章も実験の待ち時間に書いてます。どう畳むんですかね、これ。

 首尾よくこなせれば2月下旬から時間ができそうなので同人活動も再開していきたい。春の文学フリマ東京に向けて『スーパーカブ』、『グリッドマンユニバース』論、クソデカコンビニ駐車場おねショタ神話SF(創作)を書くつもりです。

 

 あ、来年の抱負は「早寝早起き朝ごはん」です(未就学児?)。

*1:なんでもすると言ってない

*2:『白い砂のアクアトープ』と同様の幕開け

*3:コノハたむ、な

文学フリマ東京37の寄稿情報など

 こんばんは。私=葉入くらむは今週土曜日に東京流通センターにて開催される文学フリマ東京37では3本の同人誌に寄稿しました。遠方かつ卒業研究が佳境にさしかかっていることもあり、私自身は現地参加できませんが、当日来られる方はよろしくお願いしますね。

 先日投稿した「批評の書き方」記事でも作例として挙げた原稿が読めるのでぜひ同人誌の方も読んでください。

※件の記事は労作でしたが、思いのほか反響があって嬉しかったです。ツイートのブックマークが見たことない数になっていて、とても長文なので「あとで読む」に回されているのだと思いますが、私としても短期的に話題になるよりも時間をかけて読まれるつもりで書いきましたので、じっくり読んでいただければ幸いです。「ネットで書かれている断片的な情報をまとめてくれている」という反応もいただけましたが、まさに自分のもっているノウハウを結集するつもりで書きました。今回は2年ほど前に公開された2つの記事をメインに引用しましたが、また2~3年を経て若い方にアップデートしてもらえることを期待しています。

comkaeri.hatenablog.com

 

  • 『カカリマカ・スマリカ』「コロニアの再生産として観る『オオカミの家』」

 出版サークル「インタース亭ラー」では社会人の方々と一緒に本を作っています。既刊では「鬱」「依存」を、新刊では「カリスマ」をテーマにした同人誌を作りました。私は寄稿のほか編集校正で参加しています。今回は原稿がなかなか集まらなくて苦労しました。入稿の前日に、まだ上がってない方と深夜まで通話して原稿を回収しましたが、ちょうど誕生日だったので日付を越えて届く「おめでとうLINE」にお返事しながら修羅場になってました。もう二度と経験したくないですね。こちらも労作なので、よろしくお願いします。

 

  • 『蠟梅学園中等部一年 冬休みの宿題』「水上りり席順問題とはなんだったのか」

 去年も寄稿させていただいた『明日ちゃんのセーラー服』の合同誌です。今回は二次創作が多めらしく、私も趣向を変えて考察(作品内の謎解き)の記事を書きました。水上りりの席がおかしいというだけの話ですが、既存の仮説をまとめつつ、新説を提唱しています。

 

  • 『映画大好きポンポさんトリビュート』「ポンポさんの映画化――アランの役割」

 こちらでは『映画大好きポンポさん』劇場版のオリジナルキャラクターのアラン君について書きました。たしか前回の文フリで主宰*1の方に寄稿を依頼されて二つ返事で参加したのですが、うまくまとめられず〆切りをオーバーした思い出があります。(その節はすみませんでした。)

 アランというサラリーマンに着目することで『ポンポさん』全体に蔓延する「創作者至上主義」みたいなものを相対化できたのではないかと思っています。

 

  • (おまけ)『金沢大学映画研究会 部誌vol.9』

表紙

 10月末の学祭で頒布した「金沢大学映画研究会部誌vol.9」では表紙デザイン・編集を担当しました。原稿が間に合わなかったので、『カリスマ』同人に載せた「オオカミの家」評を転載させていただけました。この都合でネットに無料公開するのはもう少し先になると思いますが、金沢市内なら手渡しで配布できます。

 先日はDMをくれた金大生の方にお渡ししました。ショット分析やアニメ監督について雑談できて新鮮でした。

 

  • (おまけ)批評同人「試作派」の構想

 先日公開した「批評の書き方」記事のなかで、発表の場としての同人を作りたいと書きました。書き方を教えておいて発表手段を他の主催者に依存するのは無責任だと思いますし、プラットフォームを作っていくモチベーションも湧いてきたんですよね。私自身は大学時代はサークルに所属したおかげで発表の機会が確保できていたんですが、無事卒業すればコミュニティから抜けて宙ぶらりんになってしまうので、同じような書き手を集めたいです。大学サークルは豊富にあるけど、社会人になるとなかなか難しい。

 現状の構想では、敷居が低くて新しい書き手が参加しやすい同人を目指していますが、同時に雑誌の質をいかにして担保するかが課題です。手厚い校正、ピアレビューで入稿前と後で原稿の質が上がるような仕組みを導入したいところです。また、既存の批評同人とどのように差別化するか、というメタゲーム上の戦略も最低限必要でしょう。最も敷居が低く、最も実験的な同人を作れるよう構想中です。

 

  • (おまけ)近況報告

 修士2年の秋ということで、卒業研究が忙しくなってきました。今日もゼミで修論のタイトルを提出しましたが、そこそこ形になってきていて、あとは良い実験結果がでれば完成しそうです。私の専攻分野はコンピュータがあれば完結するのですが、常に計算機を回しながら、次の実験の用意をするソシャゲのスタミナ管理じみた作業をしています。前期は先行きが不安でしたが、ここまでくると腹を括ってやるしかないので、研究にも身が入っております。正直それなりにこなせば卒業はさせてくれるので、途中で燃え尽きないように注意しつつコンスタントに進捗していきたいです。

 実験の合間に本を読んでいるのですが、北村匡平『24フレームの映画学』が面白いです。ショット分析をメインにした批評なのですが、撮影方式と効果を丁寧に分析していて参考になりました。

 

 そんなところです。今季アニメは『アンデッド・アンラック』に期待してます。

 

*1:ぺシミさん

日本海まで あと15kmです

 休日の昼間を睡眠に費やしてしまった夜は出かけたくなる。食べ干したカップ面の容器と、飲みさしのペットボトル、読みかけの文庫本と封を切ってない電気料金の請求書。大学入学と同時に買ったローテーブル(実際はコタツ机)の上には怠惰が蓄積し、なにか生産的な作業をする気にならない。通学圏内では家賃が安いエリアの、特に安い物件に越してからもう5年は経っている。去年の冬は上階の水道管が破裂してキッチンがビシャビシャになったし、駐輪場は乗れるんだか乗れないんだかわからん自転車でごった返し、最近は上階のベランダから謎の汁が落ちてくる。人を招くには躊躇する部屋だが、暮らすぶんには案外困らない。でも外に出たい。時刻は午後10時。今日を終えるにはまだ早いが、何かを為すにはもう遅い。こんぐらいの時間帯がいちばん困るし、中年になったら毎日が土曜の午後10時のようで、焦燥感と諦観の間でクネクネしてるうちに全てが間に合わなくなるのだろうか。しかし気に病むことない。棒に振った一日はバイパス沿いの治安の悪いゲーセンと海で消化すればいいし、残りの人生はまだまだ長い。

 さぁ出かけよう。バッテリーが劣化した型落ちのアイフォンと財布、煙草をポケットにつめこんで。アニメの影響で買った原付にまたがって、最初の目的地を目指す。この時間の道はいつも嘘みたいに静かで、駅前に続く大通りもメスガキに煽られた前髪みたいにスカスカだ。大半の店は閉まっていて、ときどきコンビニの灯りが横切る道を走る。夜風が心地よい。骨伝導イヤホンから流れるミックスリストが5曲目にさしかかったあたりで、ネオンの原色が見えてきた。

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 県の条例か何かで未成年が出ていき、メダルゲームで時間をつぶす老人たちが寝静まったあとのゲーセンは、メスガキに煽られた前髪みたいにスカスカだ。いるのは20歳くらいの地元の若者グループか、夜なのにサングラスをかけてる彼氏または金髪のつむじが黒くなった彼女のどちらか、あるいは両方で構成されるカップル、退勤後と思われる目の死んだサラリーマンくらいで、みんなここに何も新しいことを求めていない。僕はアーケードゲームが好きなわけではない。大半のゲーセンは奥のほうに喫煙所があるので、そこでタバコを吸って、そのまま帰るのも店に悪いから適当に1クレジットだけプレイしてお茶を濁す程度だ。それでも夏の羽虫みたくこの怪しげなネオンに引き寄せられるのは、全体的に退廃したこの空間の雰囲気が好きだからだ。あと麻雀ファイトガールやりたい(正直)。

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 『麻雀ファイトガール』――2023年3月から稼働中のKONAMIアーケードゲーム。ゲームシステムはなんてことない、麻雀ゲームだ。1クレジット(=100円)で東風戦が遊べるのだが、大勝ち(最終40000点以上)するともう1ゲーム遊べてギャンブル性もある。同社製品には有名な『麻雀格闘俱楽部』もあるが、こちらは初心者・若年層をターゲットにしているらしく、プレイ中のサポートが手厚い。あとキャラがかわいい。「家で無料で出来る『雀魂』でいいじゃん」と思われるかもしれないが、君は100円払って筐体に座って、全国の同じように画面上部に萌えキャラが写ってるギャグみたいな筐体の前で真剣な顔して腕組んでるオタクと勝負する面白さを解さないのか(じゃんたまもだいたい一緒だろ)。あと3Dキャラが卓を囲ってわちゃわちゃリアクションするのが楽しい。キャラに目を取られて河が見づらいんだけど、シンプルモードにするぐらいなら大人しく(?)麻雀格闘してろってハナシ。


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 他家がセコセコ手役組み上げてるのを尻目に運だけで点棒かっさらうのがいっちばん気持ちいい!!!!ざぁこ♡点箱すかすか~♡

 通り雨が過ぎるまで、最近あんまり見かけなくなった500mlの缶コーラ(いつもありがとう)を飲みながら3ゲーム遊んだ。このエンタメがワンコインで済むなんて本当に合法なんですか???

 一通り満足したら、最終目的地の"海"に向かう。自宅からゲーセンまでと同じくらいの距離バイクを走らせる。海に近づくにつれて潮の匂いが濃くなってくる。やくしまるえつこの歌声がちょうどサビにかかったところで、海浜公園についた。時間がないの今何時。駐輪所から海までは歩く必要がある。街灯もなく真っ暗な道を、わだちと波音を頼りにふらふらと進んでいく。足元の砂は存在しないみたいに細かい粒で、踏みしめるとコンビニの卵蒸しパンみたいにふかふかする。もうすっかり汚れたスタンスミスに砂が入り込むのを無視しながら、真っ暗で心細い海岸を歩く。砂を触ってみるとべったりと湿って手についた。もうそこまできている。

 

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 波打ち際にたどりつくとホッとする。この暗がりのなか手探りで目的地まで突き進むのはちょっとした冒険だ。たどりついたからといって何をするでもない。調子に乗って近づきすぎてスニーカーに海水がかかったりしながら、この恐ろしくデカく黒い水のかたまりに圧倒されるだけだ。

 

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 運がいいと、こういう座りたくなる形をした流木が漂着しているので座る。住宅地より明るい星が散った空と、大きく黒くうねる海に挟まれると、日々の悩みがばかばかしくなってくる。星が生まれ、海から生命が生まれるまでの途方もないタイムスケールからしたら、四半世紀も生きていない一個体が抱く不安、研究が進まないだとか将来が不安だとか、さっきのインパチ直撃だとかどうでもよくなってくる。

 春から就職を期に上京する。東京にはなんでも揃っているというが、バイパス沿いの治安の悪いゲーセンや、真っ暗でだだっ広い海岸はあるのだろうか。しかし気に病むことはない。人が多い場所なら、うすい絶望を抱えた人々の集うひそかなアジールの一つや二つあるだろうし、なにより内定先の本社ビルから見えるあの東京湾も、この海とつながっているのだから。

大阪大学萌研究会発行『もえけん!』を読む

※この記事は日本萌学会アドベントカレンダー企画に参加しています。

moekyung.com

 前回の記事はこちら!

moekyung.com

 

 

角川つばさ文庫」のグーグル画像検索結果



 カリスマホストが『ロウきゅーぶ!』でマネジメントを学び、ボカロP発のアーティストがオリコンを席巻し、角川つばさ文庫の表紙が萌え絵で埋め尽くされる現代日本。かつて嘲笑と軽蔑の対象であったオタク文化は、メインカルチャーと言って差し支えないほどに一般層まで浸透した。「推し」「尊い」「エモ」......SNSでは夥しいライト・オタクが屈託なく二次元コンテンツを楽しみ、同好の志と交流する充実した生活を送っている。そんなすばらしき新時代の訪れとともに、ひっそりと息を引き取りつつある言葉があった。

――「萌」。30年ほど前、東京の電気街=アキバを中心に発生した"それ"は今や失われた技術ロストテクノロジーならぬ 失われた情緒ロストエモーションに追いやられているのだろうか?

 

 大阪大学萌研究会の会誌『もえけん!』には、「萌」の熱狂が過ぎ去ったあとの20年代を生きる学生の視点から「萌」に関する文章が綴られている。

 

表紙にはメガネっ子(萌)と「今、萌えを再構築する同人誌」との力強いコピー

 

note.co

 

激論!萌え座談会2023 

「萌えとは何か?今、萌えはどこにあるか?」をテーマに5名が語る座談会記事。
    冒頭に萌研設立の経緯が語られている。
    ・オタクカルチャーを全体を内包するポテンシャルがありながら、語られることの減った「萌え」を復興したい(海綿なすか)
    ・思想的な関心というよりはかわいい系の深夜アニメや漫画について喋れる場がほしい(カピバラ
    両名が設立した萌研では、評論系のソリッドな文章だけでなく、エッセイやキャラ紹介なども含めた裾野の広い場(会誌)を目指しているようだ。

 大まかな設立経緯を掴んだところで座談会の内容について触れよう。まず座談会全体の雰囲気がいい。 座談会を収録していた部室にやってきたSF研の部員がしれっと乱入してくる。アカデミックな「萌え」の定義(東浩紀斎藤環)を引用したかと思えば、おにまいEDを流し、声出してエロゲするかどうかみたいな話で盛り上がる。 このアンバランスさというか、本当に話したいことを話してることが伝わってきて、ごちゃついた部室で語り合うオタクの情景が思い起こされる。

    具体的な作品では『らき☆すた』『ハルヒ』『ぼざろ』『DIY』『おにまい』などが取り上げられており、古の「萌え」(キャラ)→「関係性の『萌え』」(≒百合?)、「推し」(アイドル、Vtuber)、「エモ」(シチュエーション)への変遷をたどる。
    時代性を主題としながらも一般論だけでなく、自分にとっての萌えを語るところがよかった。

三峰結華とメガネー内面、殻、アイデンティティ (松浦信)

”三峰にとってメガネとは、「内面」を隠し、アイドルという役割を支える「殻」でありながらも、そのことに彼女はアイデンティティを見出している、というように結論付けることができよう” P32

 三峰結華は異様な数のメガネ(著者調べで44種類)を着用する――この設定を端緒にコミュをひも解き、彼女の内面へ思いを馳せる文章。立ち絵と一枚絵を網羅的にチェックして着用したメガネの種類をカウントする地道な作業がすごい。メガネ=印象の取り替えにより内面を隠す「殻」という解釈を踏まえたうえで、そうして取り繕った自分もまた本当の自分でありメガネが「アイデンティティ」となる、内面変化まで扱うことで三峰結華というキャラクターの深みが伝わった気がする。
    他のキャラ紹介もそうだけど、メガネキャラという類型ではなく、三峰結華の固有性を論じるところにキャラクターへの愛を感じた。

 

近付くが故に強調される溝としてのメガネ (くるみ瑠璃)   

   "夜ふかしをした。何があったわけでもない、いつものように夕方ごろに起き出したからだ。(略)ただ読むだけのノベルゲームではない、自分で選んでいくノベルゲームを遊んだのは初めてだった。”(P34)

 日記のような書き出しからはじまる。Leaf天使のいない12月』に登場する栗原透子に関する……評論、エッセイ、プレイログ?不思議な文体。メガネ属性一般に対する分析や自虐的な精神についての普遍的な論考と、個人的な心情が混在する。

"このような自虐的なあり方は今ではよく見るものだ。インターネットにいるオタクたちにもしょっちゅう見られる態度だろう。自虐できる自分に固執するようなあり方を斎藤環は「自傷的自己愛」と名づけている。"(P36)

    "「知ってるよ……かわいくないもん、あたし……」彼女は自虐する。そんなことはない。透子はかわいい。しかしこの声は届かないだろう"(P35)
    "手元が狂い、透子以外のヒロインに入ったとしたら、そしたら透子が時紀を求めてやってくる。ごめん、ただごめん。行けなかったことが、虚しい"(P38)

 『天使のいない12月』をプレイし、栗原透子について一般的な知見も個人的な感情も含めて考え抜くこと、このプロセスを素描する。生活~ゲームのプレイ~思考が一体となり、ロジックとエモーションが混在しながらも、紡がれた言葉たちが栗原透子に収束することで、一貫した文章として成立している。

 

かわいそうでかわいいハンバーガーちゃん (海綿なすか)

 特にフォローしてないけどTwitter(現:X)でよく流れてくる漫画筆頭のハンバーガーちゃんの紹介記事。作者本人の役として登場するけど、作者自身とは切り離されたキャラって日記漫画と相性がいい表現だと思う。川尻こだま、カエルDX、にゃるら、福田ナオ絵など。『てーきゅう』原作者のルーツが2014年に自分を美少女化した日記漫画を描いており、いまの原型を作ったのではと妄想している("ルーツ"だけに)。

seiga.nicovideo.jp

 

執事メガネ紹介&眼鏡レビュー (カピバラ・海綿なすか)

 執事メガネといえばキャラクターコラボの印象が強く、オタグッズ専門店みたいな認識だったが、かなり本格派の眼鏡屋さんらしい。前半は執事メガネの紹介で、後半はハンバーガーちゃんモデル眼鏡のレビューとなっている。ハンバーガーちゃんが掛けている赤縁眼鏡を完全再現したうえに、「Whtat should I do?(私ってどうしたらいいですか?)」と「LUK-10(不運デバフ)」の封刻が入っており、そういう遊び心もあるらしい。

ハンバーガーちゃん × 眼鏡】販売開始! | 執事眼鏡 eyemirror

そしてメガネを机に飾ると、ハンバーガーちゃんが外した眼鏡を置いているように感じられて、これもまた楽しい。お気に入りのキャラのメガネを置いて、同棲してる妄想をするのも(あるいは、メガネはあるけど彼女はここにはいないんだ…とちょっと感傷的な気分になるのも)良いかもしれない。 (P48)

 原作再現グッズを買うとキャラとの距離が近づくので実質聖地巡礼

いま、萌えを考える (海綿なすか)

 グーグルトレンドと象徴的な作品を参照するに、2005年の『電車男』をきっかけにオタク文化は一般層にも知れ渡ることになり、「大衆化」すると主に、オタクの間だけで通じる魔法の言葉であった「萌え」の意味が固定化され役割を失ってしまったと考察している。また、萌えの分類も試みている。

①ビジュアルの萌え(外見)

②キャラ性(ツンデレ、妹などの属性。妹(キャラ)-兄(観測者)のように、関係が生じる)

③キャラ性の表明としての見た目の萌え(①-②が結び付いたタイプ。メガネ=真面目・根暗など、外見と性格は強く相関する。外見とキャラ性が不一致だとギャップ萌えになる)

④関係性の「萌え」(キャラ同士の関係に対する萌え。BL、百合など)

 近年の(男性)オタクの傾向としては百合が増えていて、キャラクターそのものに対する①-③型の萌えよりは、キャラクター同士の関係に対する④型の「萌え」にシフトしていると指摘しており、確かに「俺の嫁」などと言うオタクは消えてみんな壁になりたがってる気がする。

 複数化する 鑑賞者 と「嫁」概念 ──萌えの歴史と構造を“シチュエーション消費”の観点から (ペシミ)

 対話編の形で、萌えの歴史と構造を整理した記事。

 下手な要約より文中で示される表を見た方がわかりやすい。

  嫁たち
A B
俺たち C D

80~90年代 ロリコンブーム

90~00年代 萌え=「俺の嫁

10~20年代 ハーレム=「俺の嫁たち」

20年代~   状況消費=「俺たちの嫁たち」 (P67)

 メディアの変遷に着目したとき、一対一でヒロインと対峙する美少女ゲームが、アニメ・漫画化によって、複数のルートを描くためにハーレム系に変化するという指摘が面白いと思った。

 

変態さんへのご提案 幻視される「物語」をめぐって (舞風つむじ)

  「萌え」についての論じる文章というよりは、むしろ「物語」との向き合い方について力点が置かれていると思った。この論考では「萌え」と入れ替わるように勃興した「推し」、両者の違いを物語の有無で区別する。「萌える」対象と「私」の間には物語は必要ないが、「推す」対象と「私」の間には同じ物語が共有される*1

 とはいえ、物語を必要としない「萌え」であっても、「小さな物語」を「大きな物語」に拡大しようとする「推し」、あるいは個々の「小さな物語」の背景にある「大きな物語」を探る陰謀論、のような物語による囲い込みのゲームから逃れることはできない。物語から降りようとも、倫理的な「小さな物語」を得ようにも、それを包含・基礎づけるメタ的な物語が生じるからだ。この空間で「萌え」るために提案される物語こそ、誰も囲い込まない物語であり、具体例として(私的な)歴史を挙げている。

「萌え」には同一性(=キャラクター)を保証しながら個別の物語(=萌えた記憶)を生み出す可能性が存在している。(P92)

 自分史とは他者を取り込み得ない物語であるが、自分以外の誰とも共有できない孤立した物語でもあると思う。「萌えた」記憶を語ることにより、没入したキャラクターをハブとして個々人がつながることができる。「物語」との向き合い方を捉えなおすことで、「萌え」の希望が、というよりは希望としての「萌え」が見いだせるのか。

 

 萌えをいかに語るか (松浦信)

 「萌え」に関する既存の評論・研究の概観を整理してくれる第二節<「萌え」とは何か?>がありがたかった。本書の論考パートでは東浩紀動物化するポストモダン』、斎藤環戦闘美少女の精神分析』、本田透萌える男』が三種の神器ばりに引用されるが、論考パートが重いと思ったらこの記事から読むと理解しやすいかもしれない。

 『「萌え」をいかに語るか』という題にかえると、「萌え」と性的欲求の混同から語ることが憚れる、あるいは「萌える」ことが個人内で完結しているので語る必要がないことが「萌え」の語りにくさにつながっていると指摘する。「萌え」について語る場はインターネットや既に親密なオタクとの会話に限られるが、語りの場を新たに用意することは難しい。語りの場を増やすのではなく、「今語ることができる場で、どのように語るか」に注目すると、閉ざされた語りが問題となる。「萌える」対象に没入しすぎずに、「萌える」自己に自覚的な距離感を保つこと、閉鎖的な定型表現を検討することで、魅力的な語りが増えるのではないかと提案する。

 「萌え」作品の減少に気をとられがちだが、「萌え」が死語となっていること=語られないことが衰退の原因なのではないかと思った。しかし単に語られないのではなく、「萌え」という概念自体が語りにくさを内包しており、なかなか難しい問題だと思った。

 

 萌えの将来は明るいのです! (森野鏡)

 全体的に「萌えは衰退した」という論調が強い冊子で、「萌えの将来は明るいのです!」というポジティブなタイトルが目を惹く。とはいえ本文では萌えの衰退を認めており、アニメトレンドの変化に注目している。萌え(データベース消費)の代名詞である日常系アニメは2016年をピークに減少傾向にあり、2020年以降では入れ替わるように『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『チェンソーマン』『進撃の巨人』などのストーリー漫画を原作とした作品(物語消費)の人気が高まっている。一方で、ゼロ年代萌えアニメを彷彿とさせる『おにまい』が人気を博していることから、逆に物語性の弱い日常系アニメ・萌えアニメに期待したい、といった論旨。ファッションの流行などを見るに、文化が”一周回る”ことはよくあるので、萌えの揺り返しがあるかもしれない。

 

失われた萌えを求めて~聖地巡礼から2.5次元まで~ (三条しぐれ)

 キャラクターとの接近を期待して聖地巡礼をしても、かえってその不在を感じてしまう。しかし、2.5次元ライブでは、3次元の声優が舞台の上で2次元キャラクターとして演じ、ファンがそれを応援し声優とキャラクターが限りなく近づく。聖地巡礼の限界は街並みなどが再現されても肝心のキャラクターが現れないことだと思うが、キャラクターの再現に重心を置いた2.5次元イベントのほうがむしろ”会える”経験としては強力なのかなと思った。

 

まとめ

 前半のキャラ紹介ではキャラクターへの愛と熱量が伝わるような萌え語りが展開されたが、論考パートでは皆「萌え」の衰退から議論をスタートしており、なかなかの温度差があって味わい深い。無邪気に「萌える」こと、冷静に「萌え」の現状を見つめることは相補的な関係にあり、このかけがえのない「萌え」をいかに維持するかという問題意識は、「萌え」に対するポジティブな経験がなければ始まらない。

 また、現在の「萌え」を考えるには、「推し」がキーワードとなることがわかった。「推し」との違いから「萌え」を考える、「萌え」から「推し」の変遷をたどる、あるいは「萌え」と「推し」は比較できな別概念とみなす、など現在浸透している「推し」を使って衰退しつつある「萌え」を考える方針は悪くない気がする。

 

ここで紹介した同人誌は、BOOTHでの通販*2、夏コミC102でも頒布*3するらしいので気になった方は読んでみては。

 

 最後に、記事を書き本の形にまとめた参加者の方々に敬意を表したい。僕自身も同人誌に寄稿・編集したりブログに記事を書いていますが、学校の課題でも仕事でもない文章を書くことは本当に骨が折れることです。もちろん書く楽しさはありますが、自分の語彙・文章力のなさに歯がゆい思いをしながら、学業・労働などの”やらなきゃいけない”ことをこなしながら時間をつくり、まとまった文章を書きあげることは尋常なことではありません。拙いレビューでしたが、本記事が「萌え」に関心のある誰かと『もえけん!』をつなぐことになれば、あるいは執筆者のモチベーションになれば幸いです。*4

 

 

アドベントカレンダー:次の記事はこちら

kanimisoknuckle.com

*1:例えば、武道館を目指すアイドルと、それを応援するファンは同じ成長物語を作り上げている

*2:もえけん! - 大阪大学萌研究会 - BOOTH

*3:日曜日東ヘ40a

*4:要約部分に誤りがあれば修正指摘していただけると助かります。はてなブログのコメントかTwitter:@Kuram_HailyのDMまで

なぜ『Do It Yourself!!』は近未来設定なのか?―シンギュラリティによる意味付けをめぐって

0.はじめに

 2022秋期放送のオリジナル・TVアニメーション『Do It Yourself!!』は、その独特な作風から(一部の層に)人気を博した。インナーカラーのような攻めた色彩設計に、どこかあたたかい筆致。マイペースな結愛せるふと、彼女をよく理解してくれる周囲の人々の織り成す物語は、現代の生活で摩耗する私たちに癒しをもたらした。あるいは、せるふと幼馴染”ぷりん”の関係が回復するまでの物語として楽しむこともできるだろう。

 そういった肯定的な作品受容の一方で、以下のような反応も見受けられる。

――本作は美少女キャラに(中年男性的な)趣味をやらせるタイプのいわゆる「趣味系」作品であり、『ゆるキャン△』『スローループ』『やくならマグカップも』などの先行作品と同様に、キャンプ、釣り、陶芸、そしてDIYなどの趣味を可愛らしいキャラクターで包装(パッケージ)したコンテンツにすぎない。

 このように分類する言説にたいし、単に雑なくくりだと批判するのは難しい。類型化という要約作用自体が「雑さ」を内在するため、雑な-類型化を批判するのは、類型化の-雑さの批判となってしまいかねない。

 また、製作側も美少女×趣味というコンテンツの定式を想定していることが窺える。公式ホームページの”女子高生×工具=ものづくり DIY”初心者“女子の日常物語、活動スタート!”の文言から、マーケティングの段階から「趣味系」への目配せがあることはあきらかだろう。本作が「趣味系」作品であることに異論をはさむ余地はないし、「趣味系」だから良い/悪いという価値判断は作品の外の領分だ。しかし、本作は「趣味系」として制作・受容されているものの、作中世界におけるDIYは単なる趣味のレベルを超えているのではないか。あの世界におけるDIYは、キャンプ・釣り・陶芸などの他の趣味と一線を画する――それらの趣味全般を内包するような、より普遍的な意味を持つのではないだろうか。

 作中世界におけるDIYが普遍性を獲得する構造を明らかにするために、本稿では世界観設定に着目する。世界観とは文字通り、作中世界そのものの視点であり、作中世界を貫く普遍的なテーマ=DIYに接近することができるだろう。てがかりとなるのは、本作の時代設定である。本作では近未来の世界を描くものの、その設定が十分に生かされているようには思えない。あえて少し先の未来を描く必要があったのかどうか、その答えが明示されることなく物語は幕を閉じるので、疑問を抱いたままの視聴者がいてもおかしくないだろう。

 よって本稿の目的は以下である。

 ①本作最大の謎である近未来設定について議論する。

 不要にもかかわず採用された時代設定の逆説的な重要性を確認したうえで、近未来を描くことが本作のテーマたるDIYを意味づけることを明らかにしたい。

 ②「DIY」が普遍性を獲得するに至る過程を追跡する。

 時代設定を端緒とし、DIY/シンギュラリティの対立構造を分析することで、”『Do It Yourself!!』は単なる「趣味系」である”という先行言説とは異なる解釈に到達する。

 

 

1. 近未来設定の不要性―「シンギュラリティ」の導入

 本作の近未来設定について考えるにあたり、まずその不要性について確認しなければならない。作品の要素がどこへ接続するのか考える方法は二通りある。まず「このシーンは伏線として後の展開で回収される」という順接的な接続があり、それが叶わなかったとき、「無意味なシーンだからこそ、重要である」として逆説的な接続に至る。後者は作品のテーマや作家の思想など高位の概念へ接続する傾向にあるが*1、逆接的でアクロバットな論理である以上、その要素が十分に疎外されていることを検討しなければならない。本作においては、近未来設定が作中内のどこかで活用されるならば、逆説的な重要性は失われてしまうだろう。

 さて、本作ではSF的な未来のガジェットがたびたび登場する。ぷりん(主人公せるふの幼馴染)の家にいるクラゲ型ロボット、留学生のジョブ子のドローンと彼女が開発したアプリケーション。作中の街並みは現代の日本と似ているが、自動運転のスクールバス、駅のような改札が設置された昇降口、顔認証で作動する玄関など未来の技術が人々の生活に浸透する過渡期のようだ。しかし、本筋のDIYについては未来の技術が介入しない。DIY部の製作物は、ブックラック・看板・ベンチ・貝殻のアクセサリー・犬小屋・ウィンドチャイム・そしてツリーハウスと、木工作品が多い。作中でキーアイテムとして登場する電動ドリルも原始的な工作機械であり、UVレジンですら目新しい技術でもなく、現在の日曜大工的な営みに収まっている。また、せるふの工作が常に負傷の危険と隣り合わせであることが繰り返し描かれ、DIYが身体的な仕事であることを強調している。

 「近未来設定によるDIY」を描くなら、3Dプリンター(作中ではぷりんが生体プリンターで作る血管をモデリングする)や仮想空間の設計など、未来の技術を使った工作が描かれてもよいだろう。あるいは、時代設定を活かして今日のDIYを伝統工芸・ロストテクノロジーのような珍しい技術として描くこともできよう。けれども、本作では近未来に現在の技術を描き、ある人物を除いて特別に古い技術としても扱っていないので、中途半端な設定となっている。

 この時代設定は本筋には影響しないが、DIY部から疎外された登場人物に引き継がれている。 須理出 未来、「ぷりん」あるいは「すりでっち」はガラス越しにDIY部の活動を見るに留まる。彼女にとってDIYとは「古臭い」「カビの生えた時代遅れの代物」であり、きたるシンギュラリティの到来によって不要になる前時代の遺物にすぎない。一見不要だが、どうしても外せなかったのであろう近未来設定を享受することで、彼女は特異点のような存在感を発揮している。つまり、本作における近未来設定は本筋のDIYには影響せず、むしろ物語の主幹から疎外された要素であり、同じくDIY部から疎外された「すりでっち」に引き継がれているのだ。

 キーワードとなるのは「シンギュラリティ(技術的特異点)」である。これは発明家のレイ・カーツワル(2007)が提唱した概念であり、機械学習・AI技術の発展によりその実現性が大真面目に議論されるようになった。いまや誰しも一度くらいは聞きいたことがあるだろう。もともと未来予想=SF的な想像力によって提唱された概念であり、厳密な定義は難しいが、コンピュータの知性が人間の能力を超えた「超知能」を有し、それによって社会が大きく変動するといった意味である。現在でも特定の問題(タスク)で人工知能は人間を凌駕する域に達している。チェス・将棋・囲碁といった知的なゲームにおいて、プロフェッショナルよりも強いAI棋士は存在するし、芸術の分野においても「Novel AI」等の画像生成ツールが猛威を振るっている。計算機の進歩速度による予測では、2045年人工知能の進歩は技術的特異点に達するとされる。*2シンギュラリティにおいては、人工知能が意識をもち(これは「強い人工知能」とよばれる)汎用的な知性によってボードゲームもできるし、絵も描け、今自分が駒を動かすか絵を描くべきか判断でき、全人類の総合的な知性を越える。シンギュラリティというのは全人類にかかわる、かつての資本主義/共産主義の対立のような広大なスケールの問題系である。

 では、この概念は作中において―すなわち須理出 未来において―どのような意味を持つのだろうか。悲観的に予想すれば映画『マトリックス』のようにAIが人間を支配することもありえるわけだが、彼女は楽観的にとらえている。ジョブ子との会話シーン(4話)では「シンギュラリティによって人間の知性の限界を超えることで、人類の諸問題は解決される」という旨を話している。人類の解けない問題をより強力な知性によって解決してもらうことは、いかにもエンジニアらしい考えだ。併せて、「Industry4.0(第四次産業革命)」についての言及があったことにも注目しよう。これはオートメーション化したロボットが現実の製造工程を監視しながら製品をつくるような製造技術である。人工知能による自動的なモノの生産により、もはや人類が製造作業に従事する必要はなくなる。人類の代替となる機械が勝手に考え・創造してくれる技術は、自分自身の手でモノを作るDIY(Do It Yourself)の思想と衝突する。面白いことに、「シンギュラリティ」以降の世界にとってDIYが不要となる両者の関係が本作では反転している。先に確認したように本筋のDIYにとっては近未来設定(シンギュラリティの拠りどころ)が不要となっている。

 つまり、近未来設定はメインストーリーには不要だが、同様にDIY部から疎外されたキャラクター(須理出 未来)が引き受けている。さらに、シンギュラリティを機械による生産手段の代替として捉えることで、シンギュラリティ=要/DIY=不要の関係がストーリーにおいて反転しているのだ。

 では、本筋から疎外された概念(シンギュラリティ)と主題(DIY)が対立するまでの流れは作中でいかに描かれているのだろうか。

 

2. ぷりん/せるふ―対立項の展開

 ここでは作品に立ち返り、二人の登場人物に着目する。注意深く分析すると、作中で最も強力なカップリングである、ぷりん/せるふが作品のテーマとなるシンギュラリティ/DIYの対立の最小単位として示され、中間項の社会(家族・学校)を経てスケールアップしていくことが分かる。

2.1 ぷりん/せるふ ――人間の有限性に対するスタンス

『Do It Yourself!!』公式サイトより
画像左:せるふ, 右:ぷりん
©IMAGO/avex pictures・DIY!!製作委員会


 両者を比較するにあたり、ぷりんの扱いについて留意しなくてはならない。彼女は作中のほとんどの時間においてDIY部の外部にいるが、物語を通して接近し、終盤の展開ではメンバーとして加入する。だがここでは理解を助けるために、物語が進む以前を基本的な状態として捉え、せるふと対置することにする。

 ぷりんの人物像の大枠は「合理的主体」である。彼女は最先端の科学技術が学べる湯々女子高等専門学校に所属する、せるふの幼馴染である。せるふとのやり取りから「ツンデレ」類型の印象が強いが、彼女の双極的なふるまいは、せるふを保護したいという欲望と責任感の表れである。幼少期を危なっかしいせるふと共に過ごした彼女は真面目な性格と相まって姉のように振る舞う。彼女はDIY部の外の存在だが、ときおり解決策を差し伸べる。ジョブ子が苦戦していたツリーハウスの設計を手伝ったり、収集していた廃材がなくなったときも再び材料を集める方策をせるふに提案している。具体的な問題に対する合理的な解決策を提示する役割を担っており、不完全なせるふをサポートする姿はどこかロボットのようにも映る。

 対するせるふは「想像的主体」として描かれる。成績は優秀なものの、授業中であろうと空想に耽っている。ぼさぼさの髪の毛、はみ出したシャツ、どこか抜けているキャラクターだ。手先が不器用で工作のたびに怪我をする描写が印象深い。豊富な想像力はしばしば現実を越えてしまうが、ツリーハウスのデザインでは才能を発揮した。現実を浮遊する彼女の想像力を、ぷりんがつなぎとめる関係として二人は描かれる。

 現実的な制約を踏まえて解決を探るぷりんと、現実を超越して空想するせるふは、シンギュラリティ志向/DIY志向の対称性を浮き彫りにする。「自分自身でする」ということは、自分自身に対する過大評価の裏返しでもあり、「機械にやらせる」には人類の能力の限界をわきまえなくてはならない。

 

2.2 ぷりん家/せるふ家 ――時代的対比

 ぷりん/せるふは隣接する家屋に住んでいる。二人はお隣さんであり、まんが・アニメの文法の通り幼馴染である。家庭とは最も小さな共同体の単位だが、両家もまた対立項として描かれている。

 まず、建築物としての家(house)のレベルにおいて、ぷりん宅のシステマティックな様子がうかがえる。玄関前に門が設置されており、監視カメラで撮影した訪問者を顔認識して開錠を管理する。対するせるふ宅はというと、平均的な一軒家といった出で立ちで内装に関しても現代の基準からしても古い「実家感」のある住居である。

 ペットについては、ぷりん家には(ペットというか家電?)クラゲ型のロボットが家事手伝いをしている。これは「アレクサ」のような対話型ロボットの進化系であり近未来SF的なガジェットにも位置づけられるが、会話の文脈が読めないせいでポンコツとしても描かれる。一方のせふる家ではイヌ・ネコ・ブタの三匹のペットを飼っており、食卓でせふるたちと一緒に食事するシーンが何度も描かれ、無機質なロボットと対比される。

 両家ともにペット(?)に加えて母親と住んでいるが、こちらも対称的だ。ぷりんの母親はスーツ姿で描かれており、キャリアウーマンとして海外転勤などで家を空けがち。ぷりん宅のセキュリティやクラゲ型ロボットは、仕事で忙しい母親の代替として子供を守るためのものでもあるのだろう。

 せるふの母親は専業主婦のようであり、エプロン姿でせるふやぷりんを家で迎える描写が多い。料理も得意で、娘の食事を毎日作っている。ステレオタイプな母親像であり、ぷりん家と比較すると女性の社会進出が尊重されていなかった、かつての(もちろん、今でも達成できているわけではないが)家族観にとどまっている。補足しておくと、両家の母親のありかたは中立に描かれている。ぷりんの母親も放任しているわけではなく、子供たちにおはぎを振る舞うシーンがあり、一方のせるふの母親が抑圧されているという描写はない。二人は優劣で描かれるのではなく時代性の対比にとどまっている。

 二つの家は、時代性とともにその温度も異なるようだ。ハイテクなロボットが管理する無機質でクールなスマートハウスと、動物たちと暮らすあたたい日本家屋。今日ではもはや珍しいせるふ家はノスタルジーすら呼び起こす。新しい技術の登場によって、古いものが相対化され「あたたかく」見える現象は、メディアの変遷でも見受けられる。YoutubeなどのインターネットメディアとTV、TVとラジオ、ラジオと新聞・書籍......これらのニューメディアの登場と、オールドメディアの再-評価の反復である(これは根源としての文字エクリチュール話し言葉パロールの対立まで遡及できるだろう)。技術の進歩(インターネットと個人用端末の普及、映像の撮影・放映、無線通信、活版印刷)によって新しいメディアが登場すると、それを歓迎するテクノオプティミズムと、懐疑的なオールドメディアノスタルジアの対立が発生する。*3革新派/保守派の政治的対立にも見えるこの図式は、実際には技術の進歩という線形的な時間に伴って展開される、必然的な時代性の衝突、時代的変化への葛藤なのだ。

 両家の対比はまさにこの技術的進捗=時代性の葛藤と、それに伴う「温度」の違いに映る。ステマティックなぷりん家には、海水で暮らすクラゲが無機質なロボットとして家事を管理し、「あたたかな」せるふ家では恒温動物たちと戯れている。母親の社会進出が新旧対比的なのは上述の通りである。隣接する両家は、まるで違う時代の家庭が並列に配置されたかのように、技術の進歩による時代的対立を媒介するかのようだ。

 

2.3. 湯専/潟女 ――広い社会への接続

第1話より

 本作はローカルな部活動の領域を描くスケールの小さな物語であるが*4、そのぶん中間項の描写が豊富である。*5

 ここまで、ぷりん/せるふの二人を起点に、家庭を比較してきたが、もう一段階スケールアップした対立・中間項として、ぷりんの所属する湯専(湯々女子高等専門学校)とせるふの所属する潟女(潟々女子高校)に注目しよう。

 両校は日照権の侵害が訴えられるほど近くに隣接している。ぷりん家/せるふ家と同様の地理的な隣接が、両者のコントラストを際立たせている。湯専は最先端の科学技術が学べる高等専門学校であり、せるふの通う潟女は一般的な普通科高校のようだ。駅の改札のように登校を管理し、自動運転のスクールバス、近未来的な内装の湯専と比較して、自転車で通学しアウストラロピテクス=世界史を学ぶような潟女は我々からしたら一般的(作中世界からしたら古典的)なカリキュラムである。

 とはいえ両校の対立は、その対立自体が不自然であり、本来はひとつの学校が分裂したようにも見える。日照権の問題が発生するほど近くに別の学校を建てるのは、フィクションと言えど過剰だし、両校の混同が作中において進行する。湯専と潟女の関係を語るにあたって、二人の登場人物――ジョブ子(ジュリエット・クイーン・エリザベス8世)、しー(幸希 心)をおさえる必要がある。

 ジョブ子は米国IT企業の令嬢であり、12歳の天才留学生である。本来は湯専に留学するつもりだったが、「湯々」と「潟々」を書き間違えたので潟女に入ることになってしまった。当然これはギャグシーンだが、両校の混同がもっとも明示されるシーンである。両校が「固有名」のレベルで根本的に入れ違う、双子を見誤るような混同。文字通り「湯々」と「潟々」を並べてみても、両者は似ているばかりか、「湯潟(ゆうがた)」として合成可能な、あるいはそこから分裂した固有名のようにも思える。

 対象そのものの混同のほかに、両者を隔てる領域への侵犯も描かれる。東南アジアの富豪の生まれで湯専の学生である しーは、潟女のDIY部に乱入する非公式の部員である。彼女はニンジャのような身体能力で、壁伝いに潟女に潜入しDIY部と活動を共にする。変装のためか潟女の制服まで身に着けて非公式な侵入に拘っており、オフィシャルな境界線の無効化が強調される。

 両校の混同を代弁する二人の人物は、ふたつの学校を接続するだけでなく、より広い領域まで拡張する。米国=欧米諸国と東南アジアにルーツを持つ設定により、地理的に局所的なぷりん家/せるふ家、湯専/潟女で展開される物語はワールドワイドな領域へ開口するのだ。

 

3. まとめ 表題の結論

 2章を踏まえて作品の構造をまとめる。

 ぷりん/せるふを発端とする人間の有限性をめぐるシンギュラリティ志向/DIY志向の対立は、上層の社会=家庭では、時代性の違いという時間軸が与えられる。ここではシンギュラリティ/DIYの対立は新技術/古い習慣の対立に置き換えられ、「クルーな」ニューメディア/「あたたかな」オールドメディアの図式に還元される。両者の対比は、人間の能力―あるいは尊厳―をめぐる問題系とは異なる軸において、時代の変化をめぐる葛藤として捉えられる。これはシンギュラリティ/DIYの対立と無関係ではない。身近な例では、AIが生成した画像よりも人間が描いたイラストのほうが「味がある」「ぬくもりがある」というノスタルジーを孕んだ相対化が発生している。また、若年層を中心に新技術を積極的に取り入れる層と、(主に権利的・尊厳的観点からだが)AIイラストに反対する層の対立は、まさにいま起こっていることだ。

 家庭→学校へと広げていったとき、湯専/潟女の対立からは、断絶よりも接続の兆しがみえる。ふたつの学校を混同する存在としてジョブ子・しー が配置され、両者が海外からの訪問者であることから両家・両校の地理的な隣接関係に亀裂が入り、より広い領域へと開かれる。

 つまり、ぷりん/せるふの個人的な思想の対比が、ぷりん家/せるふ家を通じて時代的なものとして捉えられ、湯専/潟女を介してより広い世界へなげかけられているのだ。中間項を介して時間的・空間的なスケールアップを経ることで、シンギュラリティ/DIYという歴史的な全人類に関わる問題系についに達する。

 かくして私たちは本稿の結論にたどりついた。

――どうして本作は近未来設定なのか?

 近未来設定によってシンギュラリティを導入することにより、DIYは歴史的・全人類的な大きな問題と対立する普遍的な概念へと昇華することができる。本作においてはDIY部からぷりんが疎外され、シンギュラリティにおいてはDIY(人間自身による生産)が疎外される関係が反転し、不要な時代設定はひとりのキャラクターに託される。二人のメインキャラクターの対立が家庭・学校のレベルへと引き継がれることにより、DIYが多層的に意味付けされ、シンギュラリティと対立可能な、たんなる趣味を超えた普遍のテーマに達する。

 また、たんなる趣味としてのDIYが、もはや巨大な問題系と密接する主題であると解釈することで、もはや本作を「趣味系」として受容するのとは異なる読解が果たされた。

 以上で本稿の目的①近未来設定の謎を解く②「趣味系」とみなす先行言説と異なる解釈を与えることができた。しかし、やっと導出したシンギュラリティと対比し得るDIYの価値づけを読み解かなければ、作品批評としては不十分だろう。

 

4. DIYとはなにか

 本作におけるDIYは字のごとく「自分自身でやる」ことだ。せるふは工作が下手だが、他の部員とおなじようにモノを作ることを諦めない。ひとりで犬小屋を建てるために悪戦苦闘しながらもやり遂げる姿は印象的だ。舞台が部活動である以上、自立した個人となるための教育的な側面は確かにつよいだろう。しかし、DIYとは成長のための単なる手段なのだろうか。生産過程をすべて代替するシンギュラリティ以降の工業をいかに相対化し、自分自身=人間自身がつくることを価値づけることができるのだろうか。

 この作品でフォーカスされるのは、作られたモノではなく、作る主体である。作中で何度も引用される「味がある」という表現に注目しよう。先述の通りせるふが作ったモノは不格好でミスがあったりする。DIY部の部長(矢差暮 礼)は、せるふが手掛けた椅子・アクセサリー・ツリーハウスの床に対して(不格好だと思いつつも)「味があって悪くない」と肯定する。一見するとこれは作品に対する客観的な評価にも思えるが、これは製作過程を知ったうえではじめて言えることだ。せるふが残した傷は、彼女やDIY部のメンバーからは、製作過程の痕跡に見える一方で、その文脈を共有せず作品だけを見た消費者からは単なる傷にすぎない。その「味」がわかるのは作る主体だけであり、作ること自体の愉しさをなぞることは製作者の特権なのだ。実際、部費を工面するためにアクセサリーを販売したときには、せるふ作の不出来な商品は製作の文脈を共有できない消費者に売れなかった。

 自分自身で作ることの楽しさ、自分自身で作ることの権利に注目することで、シンギュラリティ以降のDIYは特有の価値を帯びる。AIが生成したプロダクトに、作る主体はあるか?AIは自分自身で作ることの悦びを知るか?という問いかけである。ここでは生産過程は単なる手段ではなく、目的となる。作ることそれ自体が楽しいのだから、それをAIによって代替する理由はなく、もっというと作る主体としての人間をAIは代替できない。作ることを消費する・・・・・・・・・主体が現れることにより、生産過程→生産物の手段-目的関係は転倒する。

 作られたモノの価値から主体が作ることの価値へのシフトは、古い技術を「あたたかい」と擁護する論理とは一線を画す。2.2.で先述の通り、ニューメディア/オールドメディアの図式からシンギュラリティ以降のDIYを価値づけるなら、人間が作ったものの方が「親近感がわく」「あたたかい」といったノスタルジーに訴えかけることができる。しかし、この図式自体が時代の変遷とともに繰り返し反復される運命にある以上、最終的な審級には至らない。現状の画像生成AIもより自動化された技術の登場によって「プロンプトで人間が言葉を編むので味がある」などと再評価されかねないのだ。それに対し、作品の価値ではなく主体性に着眼することで、シンギュラリティ/DIYは主体なき生産という一回性の問題に帰結する。

 人間の有限性に失望することもなく、人間を無制限にとらえるヒューマニズムに陥ることもなく、AIが制作過程を楽しむ主体たり得ないという制限性によって、自分自身で作ることを価値づけることができるのだ。そしてこの主体への傾倒を示しつつも、最後につくったツリーハウスに部外の生徒(消費者)を挿入することで客観的評価との緊張関係も両立して描いており、ここに本作のバランス感覚が十分に発揮されているのではないだろうか。

 

 

*1:もののけ姫』における天皇批判のシーン。『すずめの戸締り』における芹澤など。

*2:2045年」という予測にはそこまでの妥当性はないという意見もあり、この指標は「2000年問題」「50-80問題」的なキーワードに近い。

*3:参考:石岡良治『視覚文化「超」講義』フィルムアート社 2014年 参照箇所はLecture.5 メディエーション/ファンコミュニティ P218~

*4:これは一般的な受容であり、本稿では身近な社会を描きつつも、全人類的な問題に直面している作品として理解する。

*5:ここで言う「中間項」とは、東浩紀らのセカイ系の定義――"主人公とヒロインを中心とする関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」などの抽象的な大問題に直結する"をふまえている。最もプライベートな関係としての「きみとぼく」が「セカイ」の大きな問題に直結することがセカイ系の特徴で、大雑把に言ってしまえば「たったひとりのヒロイン」と「全世界の命運」を天秤にかける葛藤が成立する作品群である。この「きみとぼく」-「セカイ」の短絡で省略された家族や学校・職場、地域共同体などの社会が中間項にあたる。

BLTサンドをDIYしてみる

こんにちは。

みなさん『Do It Yourself !!』見てますか?

本作はタイトルの通りDIYをテーマにしたオリジナル・アニメーション作品です。

『Do It Yourself!!』キービジュアル
©IMAGO/avex pictures・DIY!!製作委員会
©IMAGO/avex pictures・DIY!!製作委員

これは、家具や友情や、ひいては人生までも、
考え、工夫し、苦労し、失敗し、それでも諦めずに自分の手で完成させて、
未来を切り開いていこうとする少女たちの、その最初の一歩を描く物語である―――

<Do It Yourself!! 公式サイトより引用>

 

 雑な言い方をすれば「おじさんの趣味をかわいいキャラにやらせるタイプのアニメ」なのですが、淡くやわらかな絵のタッチ、登場人物の掘り下げ方や、近未来設定など、随所に光るところのあるユニークな作品です。

 せるふたち「DIY部」のメンバーが自分自身の力で、部室をアップグレードしていく過程は地味ながら成長譚として楽しめますし、彼女たちを包み込む穏やかな世界観に癒されます。なんというか、教育テレビ感がありますね*1。ちなみに私はくれい先輩が好きです。ボーイッシュキャラのCV.佐倉綾音は身体に効く。

 さて、今期絶賛放送中の本作品ですが、サブタイトルに法則性があります。

  1. DIYって、どー・いう・やつ?
  2. DIYって、だれかと・いっしょに・やるってこと?
  3.  DIYって、どうして・いきなり・やってきた?
  4. DIYって、どこでも・いごこち・よくなるよ
  5. DIYって、どこかに・いばしょが・ようやく
  6. DIYって、どうでも・いいもの・やくにたつ!
  7. DIYって、ぢめぢめしてたら・いえで・やればいいね
  8.  DIYって、できない?・いいえ!・やれますとも!
  9. DIYって、どっきり?・いがい!・よていがい!
  10. DIYって、どんぞこ?・いんぽっしぶる?・ゆうきとやるきがあればなんでもできる!

 「D」「I」「Y」の頭文字をとってるんですね。縛りのあるサブタイは『バカとテストと召喚獣』(〇と△と◇)や、『ようこそ実力主義の教室へ』(偉人や哲学者の名言)など、アニメあるあるですね。ともあれ、DIYのサブタイトルの法則、どこか既視感があるのではないでしょうか。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:BLT_sandwich_(1).jpg

 ――そう。BLT(ベーコン・レタス・トマト)サンドですね。

 というわけで米国が誇る最適組み合わせベスト・トリプレットBLTサンドイッチをDIYしていきましょう。

 

□主な材料:ベーコン・レタス・トマト・食パン・マヨネーズ 

食パンは八枚切りがオススメです。ベーコンも薄い方がいいです。サンドイッチとは層の積み重ね、平面から立体を構築する営みに他ならないのだから。

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 トマトを切ります。これも薄ければ薄いほど良いです。

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 トマトを切ったら塩を振り、水分を抜きます。パンがべちゃつくとテンション下がっちゃうので。靴下が雨で濡れると本当に寂しい気持ちになるように、びしゃびしゃのサンドイッチはもっとも身近な不幸のひとつ(イギリスのことわざらしいね)。 

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 パンを表面がほんのり焦げる程度焼きます。家にトースターが無いのでフライパンで焼きます。フライパンを使うと加熱時間が短いので忙しい朝におすすめです。

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 こんなもんでいいでしょう↓
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 ベーコンも焼きます(カリカリ派)。これ意外と知られてないんですけど、ベーコンのシナシナ派/カリカリ派を一発で見分ける方法があって、それは「マックのポテトならシナシナ/カリカリどっちが好み?」と聞くことです。逆もまたしかり。ポケットモンスター・シナシナ/カリカリでは、バージョンによって登場するポケモンが違うぞ!友達と交換して図鑑をそろえよう!

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 下準備が終わったので盛り付けです。

パン→レタス→トマト→ベーコン→レタス→パンの順番で挟み、随所にマヨネーズ・塩コショウで味付けします。

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 パンを押して具材をなじませたら完成です。f:id:Haily:20221214185215j:image

(この料理も形になってきたな)

?「う~ん...」

?「この料理さ、なんか違うんだよね…王道すぎるというか…ひねりがないよねぇ…」

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?「ここで萌えキャラをひとつまみ...w」

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 完成です。

アメリカのオタクがカフェテリアの隅っこで齧ってそう

 せっかくサンドイッチを作ったのでピクニックと洒落込みましょうか、ということで近所の公園にきました。

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 狙い通り人っ子一人いません。近所の子たちは今頃ブルーアーカイブでもしてるんでしょうか。 

世も末

 12月中旬の夜です。寒(さむ)暗(くら)すぎる。「行楽日和」の対義語か???

 近場の自販機で紅茶花伝をピックして体温バフかけます。

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 夜道を無機質に照らす自動販売機には、得も言われぬ良さがあることはいまさら言及するまでもないが、ぼざろの例のシーンのせいでエモさが渋滞しており、そのうち自販機の前を通るだけで泣いちゃうかもしれない。

許されざる角度

 作っておいてあれですが、一時間くらい前に大学生協で買ったパンを食べたので、あまりお腹空いてないんですよね。せっかくだし、軽く遊ぶか♦

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 東屋があるので、そこで実食とします。

撮影ミスで「心霊スポット凸系スレ」みたいになっちゃった

 いただきます。
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(一応”アレ”やっとくか)

 空の果てへ 大地の底へ

 走れ Dash! Dash! Dash!

 砕け Kick! Kick! Kick!

 愛を込めて

 イタダキマス!

 

www.youtube.com

 

 マヨネーズと塩コショウだけのシンプルな味付けですが、素材の味が際立って、とても美味しいです。トマトが調味料的な役割をしてくれます。市販品と違って最後まで具材が入ってるのもうれしいところ。

萌えモクZipLockがパンをホールドして食べやすさに貢献してるのが面白かった。



 ごちそうさまでした。

最後の一口は
切ない

 おやつはもちろん、コレ(都昆布)ですわ!

 

 正直、昆布系のお菓子はパリッと乾いてるほうが好きです。これ意外と知られてないんですけど、昆布菓子のシナシナ派/カリカリ派を一発で見分ける方法があって、それは「ベーコンならシナシナ/カリカリどっちが好み?」と聞くことです。逆もまたしかり。

直方体のヤツ

 

 雪が降ってきたので帰ります。

 

――いかがでしたか!?(豹変)

 今回は『DIY』に感化されてBLTを作りましたが、自分自身でやってみることで、新たな発見がありました。「なんか楽しいことないかな」と漠然と思っていても、文化祭も修学旅行もあなたの人生にやってきません。私たちは、自分自身の力で「なんか楽しいこと」を作り上げていかなくてはならないのです。市販品を買っていれば、無人の公園でBLTを頬張るような事態は発生しなかったことでしょう。デジタルツイン、AIのレコメンド、エコーチェンバー...過去の傾向に基づく提案によって個人の行動が再帰的に固定される現代社会にて、あえて「自分自身でやってみる」ことが、どこでも・いつでも・よりあなたらしく生きるための可能性を広げてくれるのではないでしょうか。

 

*1:ただし、せるふママ(スイレンママの用法)の妖艶さは考慮しないこととする。