『キャビン』--洋ホラーの祭典とその批評として【続:ポルノ的映画の工学】
「ポルノ的映画」について書いた前回の記事を読むとわかりやすいです。
初見とそれ以降で鑑賞の楽しみ方が変わるタイプの作品なのでネタバレを踏みたくない人はここでブラウザバック(もはや死後)推奨です。
映画『キャビン』はある種のメタ・フィクションです。
簡単にあらすじを追うと、夏休みに森の中の湖畔つきの洋館を訪れた5人の大学生が酔った勢いで呪われた封印を解いてしまい、目覚めた怪物によって一人ずつ殺されていく恐怖の夜が始まる・・・。
という洋ホラーにありがちな展開がメインなのですが、その裏ではバカでかい組織が動いていて、隠しカメラのようなハイテク機器で彼らの行動をモニタリングし、薬剤の散布や照明の操作など、テクノロジーを駆使することでお決まりの展開になるようにオペレートしているという仕掛けの物語となっています。
洋館を訪れる大学生にはそれぞれ「淫婦」「戦士」「学者」「愚者」「処女」の5つの役割があり(これも洋ホラーにありがちな役付け)、「処女」以外の4人を生贄に捧げることで「古き神々」を封印するのが組織の目的です。
この映画をコントロールする組織は、まさしく「ポルノ的映画」の製作者であり、「古き神々」(=観客)を満足させるために筋書き通りのストーリーになるように学生たちを誘導し、時には電磁バリアのようなテクノロジーまで動員して、「呪われた洋館を訪れた若者たちの恐怖体験」という「映画」を作り上げようとします。
ここでは「ポルノ的映画」の工学的な側面が描かれています。ホラーを見る観客が望むものは当然ながら恐怖なのですが、これをどう満足させるかというのがホラーの製作者が取り組む問題となるわけです。そして予算や撮影スケジュールや表現規制などのファクターを考慮しながら、恐怖という特定のパラメータを最大化するような物語の流れ・手続き(=アルゴリズム)を考えるという意味で、これは工学的な営み(エンジニアリング)にほかなりません。
アート映画が監督の作家性を存分に表現することで、新しい価値観を提示するものだとしたら、「ポルノ的映画」の制作は既存の価値を最大化するように脚本や演出を工夫する工学的な作業としてとらえることができるのではないでしょうか。
そしてホラー映画のパラメータ最適化の蓄積によって有効性が実証され、愛用され続けてきた枯れた手法*1が、『キャビン』の組織がなぞろうとする「洋ホラーあるあるな展開」なのです。
この映画では組織による「ありがちな展開」の死守と過剰なほど存在するホラー作品からの引用によって、ある種の祭典のような仕上がりになっており、ホラーというジャンルに対する途方もない愛好を感じさせます。
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これに関しては「『キャビン』の(ほとんど)すべての元ネタ(Referense)」という動画がとても参考になります。おすすめです。
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ホラーを制作することの工学的な苦悩・楽しさを描き、過剰な引用によって彩られた祝祭的な雰囲気を感じる『キャビン』ですが、この映画はただのホラー賛美にとどまりません。
この映画では洋館にやってきた学生たちがバックナー一家に襲われるという、組織によって仕組まれた物語(物語内物語)のあと、よりメタ(高次)な恐怖がやってきます。
たまたま生き残ってしまった「愚者」によって地下で管理されていたホラー映画の怪物たちが放流される大惨事が起き、最終的には筋書きどおりの展開にならなかったことが「古き神々」(=観客)の怒りに触れて、この映画は打ち切られてしまいました(=作品世界の終焉)。
「洋館でのホラー」をコントロールしていた組織が、その内部の「愚者」らの混乱によって怪物たちのコントロールを失ってしまうのことがメタ的に怖いということです。そして『キャビン』の本質的な恐怖はこのアンコントローラブルな恐怖にあって、そこが批評的に思えるのです。
先ほども述べたように、『キャビン』では組織がコントロールするホラーあるあるな展開は、「お約束」というだけでそれ自体はギャグ的に描かれ*2陳腐化したものとして扱われました。けれども「古き神々」(=観客)はその様式こそを望んでいて、テンプレ通り「愚者」が死なないことに怒って世界を終わらせました。
これは倒錯した状況です。
「愚者」の生存によって引き起こされた怪物たちの解放という惨事こそが最も恐ろしいのにもかかわらず、「愚者」の死亡という様式にこだわっている状況は手段と目的の逆転といえます。だからこの映画はホラーについてのホラーという点で自己言及的で、「愚者」の生存とそれによる混乱はクリティカル(批評的・危機的)なシーンなわけです。
さて、この手の倒錯は陳腐にも見えます。けれどもこれは映画の可能性の拡張でもあります。
「ポルノ的映画」として恐怖というパラメータを最大化することを第一とするホラー映画について、「古き神々」のようにそこに至るまでのストーリーが様式に沿っているかどうかを気にして鑑賞する態度は、もともとの目的(怖がる)から、(やや制作者の立場の方に)逸れた楽しみ方です。
けれども、ただ真正面に恐怖を楽しむ以外に、(ホラー特有の文脈を踏まえるという意味で)"通っぽく"楽しむことができる解釈の方法を追加することは、映画の楽しみ方が増えるという意味で、映画の意味や価値の可能性の拡大といえるのではないでしょうか。
そしてこの手の欲望の転倒による、観客の映画の見方の変性(=映画の楽しみ方、価値の追加)が、既存の価値を量産する産業製品としての「ポルノ的映画」に宿ることにこそ、逆説的な面白さがあると思うのです。
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