虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

「人を見る目」とは何だろう

対象としての人の特殊性

 「人を見る目がある/ない」という言葉がある。悪い知人との関係を切れない人、メンヘラと付き合って共依存に陥る人、配偶者からDVを受ける人など、人間関係に失敗した人に投げかけられる言葉である。人間というのは(人にとって)特殊な対象だ。人間は社会によってはじめて成立する。僕たちは他人の存在を前提として人間足りえるのだという言説は、しばしば人間の条件として挙げられる言語、それがもつ他者性--言語は人から教えてもらってはじめて獲得できるとともに、その発話は他者への情報伝達を第一目的とする--から納得できるだろう。人間が他人の存在を前提とする人間そのものの特殊性と、犬にとっての犬が特別であるような同胞の特殊性からして、「見る」対象としての人は特殊である。僕たちは「人を見る」ことに「犬/ネコ/映画/建築物/法律 を見る」よりいっそう関心をかける。

人を見ることの特殊性(生物学的観点から)

 「シミュラクラ現象」というのがある。

顔っぽいものが顔に見える「シミュラクラ現象」 | 雑学

 ヒト(Homo sapiens)は上のように3点が逆三角形に配置された図形を見ると、顔として認識する。これは本能としてプログラムされていて、我々は生まれつき視覚情報からヒト(の顔)を抽出するための優れたコード(識別子)*1を知っている。このようにして「ヒトを見る」ことがヒトにとって重要であることは形質(遺伝子によって伝えられる、生物の特徴・性質)のレベルにおいても確認できる。シミュラクラ現象からわかる通り視覚情報による他個体の認識は生存上重要視され、サルの時代からの歴史を引き継いで「人を"見る"」という言葉が生まれたのかもしれない。

"見る"と"聞く"のちがい

 人間の本質を言語にゆだねるならば、「人を"聞く"」にはならなかったことになんらかの含意を感じとれるだろう。"聞く"ことは"話す"ことを前提とする。他人が意識して発した音声が耳に届いてはじめて聞くことは可能となる。その意味において"聞く"は聞かれる対象が主体的にはたらきかけて成立する情報の取得形式であって、また会話においては"聞く"主体もまた"話す"ため*2インタラクティブ(双方向型)な情報伝達なのだ。また、会話における自身の発した声が相手だけでなく自分自身にも聞こえる(フィードバックする)性質は"見せる"ときとは異なる。自分の会話内容は聞きこえるが、そのときの自身の表情は鏡を使わないと確認できない。

 この比較において"見る"ことは一方的に他者を認識するプロセスだと言えよう。"見る"主体にとって対象は、"見せる"気があるかどうかに関わらず"見る"ことが可能だ。僕たちは髪型や服装で外見をある程度制御できるが、自身の表情などをいちいち確認することは叶わない。見られたくないところを見られるかもしれないし、見てほしいところを見てくれないかもしれない。見る主体はさらに特権的なことに、目を閉じて"見ない"選択もできる。会話においては一方が口をつむげば沈黙(=情報伝達の停止)が訪れるが、一方が目を閉じたとしてもそれは自身が見ることを放棄するだけであって、むこうは見つめ続けることができる。そして互いが目を閉じたことを確認する手段は、見ることによって確認するしかないために、目隠しのような物理的アプローチをのぞき原理的に存在しない。

 見ることは一方的な他者の認識であり、暴力性を孕みうる。『宇崎ちゃん』ポスターなど広告における女性の性的対象化をめぐる議論が図画(graphic)を取り上げるのも、見ることの根源的な一方向性に由来するのかもしれない*3。あるいは、斎藤環*4が指摘したように"「視ること」は所有の第一歩"であり、対話的な関係性ではなく古典的には猫耳やメイド服といった「萌え要素」がビジュアルに偏重している事例も、「見ること」の宿命としての対象化作用が由来しているのではないか。

 もはや「見ること」は単に視覚情報を得ること以上の意味をおびた。それは所有であり解釈であり投影であり…けれど、日常的に使う言葉としての「見る」が身体の素朴な感覚から敷衍していったことはたしかだろう。

見ることは一方向

 見ることは主体が対象物を一方的に視認する行為なのだと確認した。これは対象物と対話せずに一方的な認識をもつことであり、そのプロセスで主観的なバイアスがはたらく。ならばいわゆる「人を見る目」があるとは、偏見なく人を見ることができる能力なのか。いや、むしろ逆ではないだろうか。冒頭に述べたような人間関係のトラブルの回避に必要な能力とは、断絶だ。つまり目の前の人が面倒・有害かそうじゃないか早い段階で判断し関係を切る能力こそが、現代社会において重要視される「人を見る目」であり、偏見はその実現において強力に作用するのだ。「地雷」というNGポイントを隠し持ち、そこを踏み抜いた者はコミュニケートしないという戦略*5をとれば、総合的な判断を介せず省労力で「人を見る」ことができる。インターネットによって他人とのアクセス可能性が高まった現代では、このような排他的基準によって他者を区別していく傾向はつよいだろう。公的人物の過去の失態を告発し、社会的地位を落とさせる「キャンセルカルチャー」はこの傾向の末路にも思える。バイアスという絶対的なパラメータを元にした計算によって他者を評価することは、見ることの一方向性からして避けられないかもしれない。けれど、同一の根源的特性から出発して異なる「見方」に着地することは出来ないのだろうか。

 主体が対象物(モノ)を見るとき、主体は見えるものすべてを見ることができる。対象が見せたいものだけでなく、対象が見せたくないもの、対象が見えないものが見えるのだ。アンコントローラブルなありのままの自分を見ることができるのは、他者だけであり、外部の視線によって対象の新たな側面が照らされる。そこに「人を見る」ことの意義があるのではないか。偏った見方というのは、対象のどこを見るかという差異であって、それはフェティシズムのように個人によって異なるだろう。「人を見る」ことで対象の新たな面を発見するとき、それは対象の個別性とともにそれを見た自身のものの見方(perspective)の個別性が作用する。それは、人からなにかを「見出す」ことであり、バイアスのかかった情報をさらに解釈する余地が入り込む。そこで社会通念と照らし合わせ外在的な基準で判断したら、そこには見る主体自身の個別性は宿らない。偏見は捨てることができないが、それを自身の個別性として引き受けた上で、ただ見たことを元に解釈する創造的な営み*6に、他人を"切る"かどうかチェックするような判別にはない「人を見る」ことの豊かさがあるように思えるのだ。そしてそこには見ることの特性とともに、他人がいて初めて個別に存在できる人間という対象の特殊性が関係しており、はたして「人を見る」ことの人間性は回復するのだ。

 

 ここでは人を見ることについて考えた。「人を見る」その"目"を対象化して見つめ返すことに、面接官のような採点として「人を見る」態度を崩壊させる可能性が託されるのではないだろうか。そのような含意を込めて、「人を見る」ではなく対象化された「人を見る目」をタイトルとした。

僕たちは特権的な主体として他者を見る、けれども僕たちが"それを見つめるその目"だけは、目を閉じるほかに覆い隠すことはできないのだから。

 

*1:∵三点の配置は、ヒト特有のものではないと思うかもしれない。両眼と口の配置はイヌやネコも同じなので、必ずしもヒトだけを見つけるためのフィルタではないという意見だ。けれども、他の動物はウマに顕著なように鼻が高く突きだし、正面からは口が見えにくい立体的な配置を取る。ヒトの顔は平面的なので∵三点による認識が特に有効と言えるだろう。むしろ、他の動物についてもこの三点の配置が有効だと思うことこそが、シミュラクラ現象によって動物の顔をヒトの顔として認識している例ではないか。

*2:そもそも「話す」という語句自体が、双方向の会話のやり取りを意味する。一方的な発話は「演説」だとか「報告」などにあたる。

*3:「モノ化」の問題点として" 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在と見なす"というのがある。けれども、他者を見ることそれ自体が他者を「モノ化」することならば、これはフェミニズムの領域を超えた問題(原理)にも思える。

参考:

gendai.ismedia.jp

*4:『関係する女 所有する男』(2009)P153より。本書において斎藤は「精神分析」(とくにジャック・ラカン)の立場にたって「所有」と「関係」の違いから男女を説明する。引用箇所では、おたくの虚構的欲望がイデオロギーなどの反映されない「純粋な」欲望であるとして腐女子と男性おたくを比較する。「やおい」文化が男同士の関係性に注視する一方で、男性おたくにとっての「萌えキャラ」はビジュアルがすべてであり、いかなる「関係」も無いとした。この記事では"聞く=話す"が「関係」、"見る"が「所有」に対応するが、ジェンダーについて扱うのではなく人間に普遍な"見ること"についての議論を主としたい。

※個人的にはこの本以降のムーヴメントとしての「百合」文化や、女性声優ファンに関してどのように適用できるか興味深いところではある。

*5:これは条件分岐であり、「戦略」というにはあまりにも単調な情報処理にすぎないが、しかし単純に処理することこそが戦略なのだ。

*6:これを創作物について行うことが、批評(critique)なのだろう。ポリコレに如何に準拠しているかではなく、内在的な読解によって作品の価値を判断する批評の重要性についてこのように援護することができよう。