虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

『明日ちゃん』と作画、写実化の不到達、その世界の自立性について

はじめに

 アニメ『明日ちゃんのセーラー服』は、蝋梅学園という架空の田舎の女子中高一貫校を舞台に、学内唯一のセーラー服を纏った限界集落出身の天真爛漫な少女、明日小路(あけびこみち)がクラスメイトたちを攻略と打ち解けていく物語である。アニメでは原作漫画を編さんし、ほとんどのキャラクターが主役となる回・パートがあり、16人の個性豊かなメインキャラクターたちの群像劇として楽しむこともできる。また、木崎-明日、戸鹿野-蛇森、苗代-鷲尾らの百合的な展開も見所だ。丁寧な作画で少女たちを描く本作は一部視聴者層に高く評価されるいっぽうで、フェティシズム的な着眼で未成年女子の身体を描く作風は「気持ち悪い」と評される*1側面も併せ持つ。

『明日ちゃんのセーラー服』の魅力は、キャラクター造形・動作の描写・ストーリー・キャラクターたちの関係など色々だが、本文では作画について取り扱いたい。というのも、すべてのアニメがそうであるように『明日ちゃん』の世界も作画がなくては成り立たないからだ。本稿では「よい作画」とは何か考慮したうえで、よい作画がもたらす作品世界の肯定と作品世界からのはたらきの可能性について扱う。そしてこの作品に独特の緻密な作画シーンについても考えていきたい。

 

 

1.よい作画とは何か

 作画とはアニメーションの基礎技術である。人物、表情、仕草、教室、机、床の木目、光、水......描かれるもの・・・・・・・はすべて作画され、丁寧な作画は描かれるもの・・・・・・・すべてに対して秩序をほどこす。アニメ(動画)はイラスト(静止画)と、その連続によって生じる動きの表現であるアニメーション(映像)、声優があてるキャラクターボイスやBGM(音声)によって成立するが、アニメそのものの制作過程からして、無声動画は録音に先行し、イラストは無声映像の構成単位であることから、イラストはアニメの基本的なレベルに位置する構成要素といえる。では、よい作画......いわゆる「神作画」などはどのように規定できるだろうか。

 すくなくとも、単にイラストの出来栄えだけで作画の良し悪しは判断できないだろう。というのも、とくにまんが・アニメではイラストの良し悪しは時代的な価値観に影響されるからだ。たとえば『スレイヤーズ』のキャラクターデザインは現在の感覚からして古めかしく見えるが、当時のアニメを見て「作画が悪い」とは思えないだろう。当時ではそれが普通なのだろうし、いま何気なく視聴しているアニメ作品もまた、10年後・20年後の基準からしたら「ヘンな絵」になっているだろう。アニメはキャラクターが写るシーンがほとんどだが、そのキャラクターたちの造形は同時代でも様々だ。イラストレーターの中村祐介*2のキャラデザを忠実に再現した『四畳半神話大系』と、四コマ漫画家のかきふらいの"萌え"なキャラクター原案からなる『けいおん!!(二期)』は同時期に放映されていた。キャラデザは時代やデザイナーのセンスに左右される。設計されたイラストに対する良し悪しの判別もまた、時代・視聴者の感性に左右される相対的なものにならざるを得ない。けれど、僕たちは異なる時代・異なるタッチの作品を比較して作画の良し悪しをジャッジすることができる。では、キャラデザや視聴者の趣向に左右されない普遍的な作画の良し悪しとはなんだろうか。これについては「神作画」とは対極的な概念「作画崩壊」を参照するとわかりやすいだろう。

Wikipedia作画崩壊*3によると、

 

作画崩壊(さくがほうかい)とは、「アニメ作品の作画クオリティが、秩序を失い、著しく低下している様相」を指す言葉である。(略)

キャラクターのデッサンやパース(遠近感)に狂いが生じたり、キャラクターの動きが不自然になったり、彩色のミスなどが発生したりするような例が挙げられる。

とされる。"崩壊"の名に着目すると、作画崩壊とはイラストの"崩れ"であり、キャラクターあるいは背景などがあるべき姿でいられない無秩序といえよう。そして作画崩壊は、単に担当したアニメータ・作画監督によって引き起こされる事態ではなく、アニメータの人材不足・制作会社の予算難・無謀な制作スケジュールなどの作品外で生じる困難によって引き起こされる。

 アニメーション制作の現場を描いた『SHIROBAKO』では作画崩壊を「溶ける」と表現した。生命が死とともに物質として発散するように、作画崩壊とは描かれるもの・・・・・・・、それ自体が自身のかたちを保てなくなる無秩序であり、恒常性(ホメオスタシス)の喪失であり、それは技術不足から生じる悲劇である。*4

フレームとフレームの間で、キャラクターたちは常にその同一性を揺さぶられる。ひとつ前のフレームと現在のキャラクターが連続していることを保証するのはただ視聴者の認識のみである。1コマ、1コマを移ろいゆく可塑的な身体をつなぎとめるのは、仮現運動という知覚現象である。アニメーションの本質が前後のコマの差分によって生じる仮想的な動きである以上、キャラクターは絶えず変化するしかない。立ち絵通りのフレームなど存在せず、手足を駆動し、言葉を紡ぎ、表情をつくる細やかな変化の連続のうちに、その輪郭を自ら揺るがし、しかし、それ自身が連続していることを示し、発散して背景に「溶け」てしまわないように...絶えずはたらく恒常性*5こそがアニメーションを可能にする。

 アニメを見る視聴者は無意識に正解の線画(秩序)を思い描き、あるべき姿から過剰にズレた画面を見て違和感を抱く......この現象が作画崩壊ならば、作画がいいアニメとは作品を通じて描かれるもの・・・・・・・が秩序に沿ってその存在の確かさを享受していることである。*6

まとめると、

・作画とはアニメ(動画)の根本的な構成要素となるイラストを描写する技術であり、

・「あるべくしてある線」の秩序によって、描かれるもの・・・・・・・につよい恒常性を与える。(それは作品外の要因によってもたらされる)

 

2.作画の祝福

 さて、ここで導出した作画論からこの作品について何を言えるだろうか。

 よい作画とは、キャラクターに活力を与え、それでいて過剰な変化によってキャラクターが発散しないように制御する技術である。作品の外部からはたらき描かれるもの・・・・・・・を確かに存在させ、それは作品世界そのものについて作用する。タッチの統一したアニメには安心感があるが、それは世界のゆるぎなさを示す。よい作画のアニメは、その作品世界全体を祝福する。作品に登場するものはすべて描かれたものである。*7高水準の作画を受けた作品世界は乱れの少ない「あるべくしてある線」によって構成される。これには必然性があり、その意味で強度の高い虚構世界である。作画のよい作品世界は肯定された世界である。

 だからこそ、作画のよいアニメはその内容をジャッジされ得る。

―「この"描かれたもの"は、"描かれるべきもの"なのか。この作品世界は祝福されるに足るものなのか。」

 しかし、この問いは転回できる。

 作品世界を美しく描くべきと肯定したから描くのではなく、そう描けてしまった事実が作品世界を肯定するのだ。よい作画で描かれた世界が、それに足るかどうかという判別は作品が生まれた後に行われるものであり、よい作画で描かれた時点にて既にそれは肯定された。その対象が美しいからこそ、美しいと信じるからこそ画家は対象を美しく描ける・精緻に描こうと思えるのではないか。

 ここで作中でのイラストレーションに関する言及を振り返ってみる。アニメ5話では美術の授業にクラスメートの大熊実が描いたトンボのスケッチが映され、明日小路が「絵、上手なんだね」とコメントするシーンがある。彼女は生物観察が趣味であり、普段から研究ノートをつけているので画力が自然と身についたと答える。生物学的な観察スケッチは写真のように生物の特徴をそのまま写し取ることが重視されるが、彼女には生物の美をそのまま描きたいという欲望があるのではないか。

f:id:Haily:20220411200720p:plain

5話より,スケッチを取る大熊実
©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会

 5話冒頭にて、大熊は初めて生で見たハンミョウの美しさに「図鑑よりもきれい」と感動し、明日の目を「アザラシみたいな瞳」と形容して惹き込まれていた。このような感性を原動力として彼女は生物を描くのではないか。そしてそのスケッチを可能にするのは、他の生徒がおそれるなかアオダイショウを平然と掴み愛でる独特なセンスと、描かれる対象の美である。精緻なスケッチが成立するのは画力以前に、それを美しく思う主体の感性と、それを誘発する対象の美による。ここではもはや、対象がもつ本質的な美とそれを見抜く(あるいは見出す)画家のセンスは区別しがたい。対象が美しいから主体たる画家は美しいと感じるのか、画家のまなざしにより対象に隠された美が発見されたのか、どちかなのかわからない。おそらく両方だろう。『明日ちゃん』の世界がよい作画の祝福にあずかることは、(仮想的な存在であっても)それを肯定的に思う感性だけでなく、その世界自身が肯定されるに値すること・そう訴えること、その両面から可能となるのではないか。よい作画を成立させる、作中世界自体からのはたらきもあるのではないか。

3.「超作画」の位置づけ

 明日ちゃんは第一に作画アニメである。作画によって祝福された、祝福されるにあたう世界の物語である。そして作画技術が過剰に現れるのが「超作画」のシーンである(下の画像)。(便宜上、本文では絵画のように高密度の作画を「超作画」と呼ぶ)

f:id:Haily:20220411201955j:plain

アニメ1話より、通常の作画

f:id:Haily:20220411201612j:plain

2話より、「超作画」の例
©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会

 

 この作品では上の例のように通常の作画とは異なる、絵画のような緻密な作画のシーンがある。色の種類と描き込みの密度が飛躍的に増加し、ときにパン(水平移動)やスチル(垂直移動)・ズームなどを用いて視点を移動し1枚のイラストを5秒ほどかけて眺める。*8これは見事な絵だが、どこか不気味な印象を受ける。

 前章で述べたように、よい作画とは乱れぬ秩序であり、それがキャラクターにしなやかな恒常性を与え、その統一性は作中世界をたしかなものにするのであった。そこではコマ送りの変化に耐える線画の秩序について着目した。「超作画」のシーンではその精緻な線画に加えて更に色数と密度が加わり、画像としての情報量が跳ね上がる。これは原作漫画では通常のモノクロページからカラーページになることで表現された情報量の増加が、元々カラーで描かれるアニメでは直接再現できず、ゆえにイラストの密度によって表現したものと考えられる。漫画におけるカラーページは特別だ。1冊の連載誌ではごく一部の作品にしか割り当てられず、通常の紙とは異なる質感の紙面に印刷される。そういった素材の差異は印刷の都合で発生するものであり、電子媒体での『明日ちゃん』に適用できるかは一考の必要があるが、それを抜きにしても白黒の世界が展開される漫画においてカラーには特殊性が宿ることは確かだろう。「超作画」にも似たようなはたらきがあるのだろうか。

 この作品における「超作画」は、作画を超えた作画であり、よい作画とは異なるはたらきがある。

 よい作画技術とは、キャラクターが動作しても崩れないことだった。「超作画」においてもそれは一貫している。よい作画がまずあり、そこに描き加える形式で塗りが加算されていく。これは情報量の増大という観点で白黒イラストのカラー化に似ている。異なるのは、リアリティが変質することだ。既に十分描いたレイヤーに、さらに詳細なレイヤーを重ねていく。そこにおいて加算されるのはデフォルメによって省略されていた質感である。衣服の皺が作る影、髪の艶など光の作用の物理的整合性である。繰り返しになるが、これは本来不要となる情報である。「超作画」では1枚のイラストが前後のシーンと比較して過剰に情報を持ってしまう。作画コストによる制約という面もあるだろうが、過剰な情報量を持ってしまったがゆえに、視聴者が処理するには重たい絵となる(ゆえにコマ送りせず5秒ほどかけてじっくり見せる)。この非-アニメ的なシーンはカラーページのような存在感を発揮することになるが、ここで描き足された情報とはなにか。たんに画像としてモデル化して考えると、色の種類の増加と描画密度の増加は「写真化」の過程である。現実世界の視覚情報は網膜が捉えるほぼ無限の色彩と、その色を持つ無限に細かい点で構成される。緻密な作画によって使用する色の種類と描画密度が増加するとグラデーションが再現でき、服のシワのような細部を描き、光の反射を忠実に再現できるようになる。無限の色彩を無限のドットに展開し、省略した情報を精密に再現することでイラストは写真(それを超えて視界そのもの)になる。けれどもアニメーションのキャラクター、とくにその顔は美術背景とは異なり、色彩とドットを無限に細かくし極限化し、精緻化にしても到達できる実写の像はない。この写実性を高めていくことで漸近可能な像が欠落することが、背景とアニメ的リアリズムを生きるキャラクターの差異であり、現実世界と虚構世界の差異である。そのギャップの片鱗に触れるが「超作画」シーンである。

 他の例を挙げてみると、『電影少女』などで知られる漫画家・桂正和の『I"s』の表紙ではキャラクターが実写のように描かれている(画像左)。しかし、ページを開くとデフォルメされたキャラクターが登場する(画像右)。このギャップこそ、この両者をつなぐことのぎこちなさこそが、現実と(まんが・アニメ的な)虚構の視覚的に規定されたリアリズムの差異なのだ。

f:id:Haily:20220410035020p:plain

桂正和『I"s』.左:表紙(15巻)/右:作中での作画

 "リアル"に描こうとするほど、キャラクターの顔貌をいかに表現すればよいか見失ってしまう。けれどもこの極限値を捉えることのできる存在がある。それは作中世界自体にある。明日小路にとっては自分も、クラスメートも、福本幹も実写である。写実性を高めていったそのさき・・・・を知るのは彼女たちだけである。緻密な作画による写実化がまっすぐ現実世界の写真へ向かうとは考えがたい。むしろ、その方向は"作中世界での写真"へ向かっている。それを踏まえると、「超作画」はデフォルメ度合いは減るが、それは必ずしも現実の視点での写実性の増加ではなく、作中世界の実写に近づいた視覚情報であると考えることができる。*9

 このようにして「あちら側」のパースペクティヴを挿入することは断絶を生む。僕たちが見ていた通常のシーンは、よい作画によってたしかに見えるが、それはあの世界のデフォルメに過ぎないと、その世界の深層を覗かせる。キャラクターと世界の同一性を担保したままより高解像度の階層へ導く。「超作画」をして写実化していくことは、キャラクターの視覚的リアリティをこちら側に引き寄せることではなく、むしろその延長線がこちらに到達しないことを示した。それは断絶に他ならないが、だからこそあの世界は美しいのだ。あるいは、女子校を美化しすぎで「現実」がないという指摘についても、それは当然と言える。視覚的段階―ただ見た目のレベルだが、アニメーションを成立させる根本的段階でもある―からリアリティの異なる世界について、どうして現実のリアリティが適用できるだろうか?

 少なくとも、現実世界からは描けない実写が「そこ」にはある。それを観ることは叶わないが、きっと、ぞっとするくらい美しく、不気味なのだろう。

 

 

 さて、章ごとのつながりについてあまり意識しないで行き詰りつつ書いてきたが、通じて作中世界の自立性という共通点があるように思う。

1章では「よい作画」とはあるべき姿という秩序を守ることだとしたが、それは描く側の自由度の低減(作画を崩さない=めちゃくちゃに描けない)であり、これは作中世界からの制限性である。

2章では「よい作画」という祝福の背後での、作中世界側からのはたらきかけの可能性を論じた。これは創造-被創造の関係とは逆の、未だ創造されない作品から製作者へのはたらきかけという被創造世界の能動性である。

3章では「超作画」での写実化が、現実世界の写真とは異なる像に向かっていて、かつ、その到達点がわからないという、現実世界との個別性について扱った。

べつにこれを『明日ちゃん』から導出する必要性はないかもしれない。ただ僕自身の主義主張が読解という迂路を通って表れただけかもしれない。それに作画の話ばかりして内容について触れないのも心苦しい。*10しかし、作画について考えるうえで作画のよいアニメ(あるいは悪いアニメ)は必要であるし、「超作画」という表現からアニメーション表現の(不)可能性について考えることは、(すくなくとも僕にとっては)『明日ちゃん』だからこそ、できたことではないだろうか。

 

 

 

*1:しかし、倒錯的な視点というのは、ある意味で性器に対する迂回であって、直接的な描写よりは幾らか倫理的ではないだろうか。

*2:謎解きはディナーのあとで』表紙や、アジカンのCDジャケット、最近では音楽の教科書などで知られる。

*3:

ja.wikipedia.org

※2022/4/6アクセス時点

引用部分は文献[1]:金田一「乙」彦(編)『オタク語事典2』(2009)を引用元としている

*4:恒常性(ホメオスタシス)とは生物が一定の状態を保とうとする性質を指すが、ここで一度、この語の選択について説明したい。アニメーション(animation)がイラストに生命(anima)をほどこすという含意のほかに、ここでは単に「安定性」では表現できない意味があるからである。画面が最も安定するのは静画のシーンであり、紙芝居状態で「安定性」は最大になる。これだと一般的な作画の良し悪しのニュアンスは損なわれる。宿命づけられた不可避の無秩序化(生物におけるエントロピーの増大則/キャラクターにおけるアニメーションという手法そのもの)にあらがうのが「恒常性」であり、むしろ激しい動きを伴ってこそその強度がわかる。静的な安定性とは異なる同一性、自身の変化に対して揺り戻る動的で柔軟な同一性こそが「恒常性」である。

*5:同一性をつなぎとめるのは線だけでなく「声」にも大きな役割がある。

*6:もちろん、バトルシーンなどで敢えてキャラクターを崩して描画することで躍動感のある描写を可能にする手法もあるが、動きを通して見てみると自然なこともあるし、このような"敢えて"の逸脱が可能となるのは、そもそも他の部分が安定していることを前提とするから、やはり作画と対象の恒常性は切り離せない。また、描き分けができないというのもキャラクター自身の同一性の欠如という点では作画崩壊といえるかもしれない。

*7:たとえ3DCGで描写されるものであっても、それはグラフィックデザイナーによって描かれる。

*8:この技法は他作品では『Vivy -Fluorite Eye's Song-』(2021)にも見られる。この作品ではアンドロイドを絵画のようなタッチの静止画で描写することで、静的な機械の冷たさを表現する効果がある。

*9:この、「超作画」は虚構世界からの視点であるという指摘は以下の記事を参考にした。「超作画」はそのフィルターを外した「虚構(虚構本来の姿)」との記述

 フィルターを通したまなざしを視聴者に与えることで、「虚構(我々が”見させられているもの”)」とそのフィルターを外した「虚構(虚構本来の姿)」を明確に区別することを、『明日ちゃん』は可能にしているのだ。

簡単に示せば、「現実(画面の前)-虚構(キャラクターの視点)」
 という構造のズレを生じさせることで、新たに虚構の不在性を創出している。

 

note.com

*10:もちろん、内容についても描きたいことがあるが、さすがに文字数が多すぎるので別の機会にする。