虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

なぜ『Do It Yourself!!』は近未来設定なのか?―シンギュラリティによる意味付けをめぐって

0.はじめに

 2022秋期放送のオリジナル・TVアニメーション『Do It Yourself!!』は、その独特な作風から(一部の層に)人気を博した。インナーカラーのような攻めた色彩設計に、どこかあたたかい筆致。マイペースな結愛せるふと、彼女をよく理解してくれる周囲の人々の織り成す物語は、現代の生活で摩耗する私たちに癒しをもたらした。あるいは、せるふと幼馴染”ぷりん”の関係が回復するまでの物語として楽しむこともできるだろう。

 そういった肯定的な作品受容の一方で、以下のような反応も見受けられる。

――本作は美少女キャラに(中年男性的な)趣味をやらせるタイプのいわゆる「趣味系」作品であり、『ゆるキャン△』『スローループ』『やくならマグカップも』などの先行作品と同様に、キャンプ、釣り、陶芸、そしてDIYなどの趣味を可愛らしいキャラクターで包装(パッケージ)したコンテンツにすぎない。

 このように分類する言説にたいし、単に雑なくくりだと批判するのは難しい。類型化という要約作用自体が「雑さ」を内在するため、雑な-類型化を批判するのは、類型化の-雑さの批判となってしまいかねない。

 また、製作側も美少女×趣味というコンテンツの定式を想定していることが窺える。公式ホームページの”女子高生×工具=ものづくり DIY”初心者“女子の日常物語、活動スタート!”の文言から、マーケティングの段階から「趣味系」への目配せがあることはあきらかだろう。本作が「趣味系」作品であることに異論をはさむ余地はないし、「趣味系」だから良い/悪いという価値判断は作品の外の領分だ。しかし、本作は「趣味系」として制作・受容されているものの、作中世界におけるDIYは単なる趣味のレベルを超えているのではないか。あの世界におけるDIYは、キャンプ・釣り・陶芸などの他の趣味と一線を画する――それらの趣味全般を内包するような、より普遍的な意味を持つのではないだろうか。

 作中世界におけるDIYが普遍性を獲得する構造を明らかにするために、本稿では世界観設定に着目する。世界観とは文字通り、作中世界そのものの視点であり、作中世界を貫く普遍的なテーマ=DIYに接近することができるだろう。てがかりとなるのは、本作の時代設定である。本作では近未来の世界を描くものの、その設定が十分に生かされているようには思えない。あえて少し先の未来を描く必要があったのかどうか、その答えが明示されることなく物語は幕を閉じるので、疑問を抱いたままの視聴者がいてもおかしくないだろう。

 よって本稿の目的は以下である。

 ①本作最大の謎である近未来設定について議論する。

 不要にもかかわず採用された時代設定の逆説的な重要性を確認したうえで、近未来を描くことが本作のテーマたるDIYを意味づけることを明らかにしたい。

 ②「DIY」が普遍性を獲得するに至る過程を追跡する。

 時代設定を端緒とし、DIY/シンギュラリティの対立構造を分析することで、”『Do It Yourself!!』は単なる「趣味系」である”という先行言説とは異なる解釈に到達する。

 

 

1. 近未来設定の不要性―「シンギュラリティ」の導入

 本作の近未来設定について考えるにあたり、まずその不要性について確認しなければならない。作品の要素がどこへ接続するのか考える方法は二通りある。まず「このシーンは伏線として後の展開で回収される」という順接的な接続があり、それが叶わなかったとき、「無意味なシーンだからこそ、重要である」として逆説的な接続に至る。後者は作品のテーマや作家の思想など高位の概念へ接続する傾向にあるが*1、逆接的でアクロバットな論理である以上、その要素が十分に疎外されていることを検討しなければならない。本作においては、近未来設定が作中内のどこかで活用されるならば、逆説的な重要性は失われてしまうだろう。

 さて、本作ではSF的な未来のガジェットがたびたび登場する。ぷりん(主人公せるふの幼馴染)の家にいるクラゲ型ロボット、留学生のジョブ子のドローンと彼女が開発したアプリケーション。作中の街並みは現代の日本と似ているが、自動運転のスクールバス、駅のような改札が設置された昇降口、顔認証で作動する玄関など未来の技術が人々の生活に浸透する過渡期のようだ。しかし、本筋のDIYについては未来の技術が介入しない。DIY部の製作物は、ブックラック・看板・ベンチ・貝殻のアクセサリー・犬小屋・ウィンドチャイム・そしてツリーハウスと、木工作品が多い。作中でキーアイテムとして登場する電動ドリルも原始的な工作機械であり、UVレジンですら目新しい技術でもなく、現在の日曜大工的な営みに収まっている。また、せるふの工作が常に負傷の危険と隣り合わせであることが繰り返し描かれ、DIYが身体的な仕事であることを強調している。

 「近未来設定によるDIY」を描くなら、3Dプリンター(作中ではぷりんが生体プリンターで作る血管をモデリングする)や仮想空間の設計など、未来の技術を使った工作が描かれてもよいだろう。あるいは、時代設定を活かして今日のDIYを伝統工芸・ロストテクノロジーのような珍しい技術として描くこともできよう。けれども、本作では近未来に現在の技術を描き、ある人物を除いて特別に古い技術としても扱っていないので、中途半端な設定となっている。

 この時代設定は本筋には影響しないが、DIY部から疎外された登場人物に引き継がれている。 須理出 未来、「ぷりん」あるいは「すりでっち」はガラス越しにDIY部の活動を見るに留まる。彼女にとってDIYとは「古臭い」「カビの生えた時代遅れの代物」であり、きたるシンギュラリティの到来によって不要になる前時代の遺物にすぎない。一見不要だが、どうしても外せなかったのであろう近未来設定を享受することで、彼女は特異点のような存在感を発揮している。つまり、本作における近未来設定は本筋のDIYには影響せず、むしろ物語の主幹から疎外された要素であり、同じくDIY部から疎外された「すりでっち」に引き継がれているのだ。

 キーワードとなるのは「シンギュラリティ(技術的特異点)」である。これは発明家のレイ・カーツワル(2007)が提唱した概念であり、機械学習・AI技術の発展によりその実現性が大真面目に議論されるようになった。いまや誰しも一度くらいは聞きいたことがあるだろう。もともと未来予想=SF的な想像力によって提唱された概念であり、厳密な定義は難しいが、コンピュータの知性が人間の能力を超えた「超知能」を有し、それによって社会が大きく変動するといった意味である。現在でも特定の問題(タスク)で人工知能は人間を凌駕する域に達している。チェス・将棋・囲碁といった知的なゲームにおいて、プロフェッショナルよりも強いAI棋士は存在するし、芸術の分野においても「Novel AI」等の画像生成ツールが猛威を振るっている。計算機の進歩速度による予測では、2045年人工知能の進歩は技術的特異点に達するとされる。*2シンギュラリティにおいては、人工知能が意識をもち(これは「強い人工知能」とよばれる)汎用的な知性によってボードゲームもできるし、絵も描け、今自分が駒を動かすか絵を描くべきか判断でき、全人類の総合的な知性を越える。シンギュラリティというのは全人類にかかわる、かつての資本主義/共産主義の対立のような広大なスケールの問題系である。

 では、この概念は作中において―すなわち須理出 未来において―どのような意味を持つのだろうか。悲観的に予想すれば映画『マトリックス』のようにAIが人間を支配することもありえるわけだが、彼女は楽観的にとらえている。ジョブ子との会話シーン(4話)では「シンギュラリティによって人間の知性の限界を超えることで、人類の諸問題は解決される」という旨を話している。人類の解けない問題をより強力な知性によって解決してもらうことは、いかにもエンジニアらしい考えだ。併せて、「Industry4.0(第四次産業革命)」についての言及があったことにも注目しよう。これはオートメーション化したロボットが現実の製造工程を監視しながら製品をつくるような製造技術である。人工知能による自動的なモノの生産により、もはや人類が製造作業に従事する必要はなくなる。人類の代替となる機械が勝手に考え・創造してくれる技術は、自分自身の手でモノを作るDIY(Do It Yourself)の思想と衝突する。面白いことに、「シンギュラリティ」以降の世界にとってDIYが不要となる両者の関係が本作では反転している。先に確認したように本筋のDIYにとっては近未来設定(シンギュラリティの拠りどころ)が不要となっている。

 つまり、近未来設定はメインストーリーには不要だが、同様にDIY部から疎外されたキャラクター(須理出 未来)が引き受けている。さらに、シンギュラリティを機械による生産手段の代替として捉えることで、シンギュラリティ=要/DIY=不要の関係がストーリーにおいて反転しているのだ。

 では、本筋から疎外された概念(シンギュラリティ)と主題(DIY)が対立するまでの流れは作中でいかに描かれているのだろうか。

 

2. ぷりん/せるふ―対立項の展開

 ここでは作品に立ち返り、二人の登場人物に着目する。注意深く分析すると、作中で最も強力なカップリングである、ぷりん/せるふが作品のテーマとなるシンギュラリティ/DIYの対立の最小単位として示され、中間項の社会(家族・学校)を経てスケールアップしていくことが分かる。

2.1 ぷりん/せるふ ――人間の有限性に対するスタンス

『Do It Yourself!!』公式サイトより
画像左:せるふ, 右:ぷりん
©IMAGO/avex pictures・DIY!!製作委員会


 両者を比較するにあたり、ぷりんの扱いについて留意しなくてはならない。彼女は作中のほとんどの時間においてDIY部の外部にいるが、物語を通して接近し、終盤の展開ではメンバーとして加入する。だがここでは理解を助けるために、物語が進む以前を基本的な状態として捉え、せるふと対置することにする。

 ぷりんの人物像の大枠は「合理的主体」である。彼女は最先端の科学技術が学べる湯々女子高等専門学校に所属する、せるふの幼馴染である。せるふとのやり取りから「ツンデレ」類型の印象が強いが、彼女の双極的なふるまいは、せるふを保護したいという欲望と責任感の表れである。幼少期を危なっかしいせるふと共に過ごした彼女は真面目な性格と相まって姉のように振る舞う。彼女はDIY部の外の存在だが、ときおり解決策を差し伸べる。ジョブ子が苦戦していたツリーハウスの設計を手伝ったり、収集していた廃材がなくなったときも再び材料を集める方策をせるふに提案している。具体的な問題に対する合理的な解決策を提示する役割を担っており、不完全なせるふをサポートする姿はどこかロボットのようにも映る。

 対するせるふは「想像的主体」として描かれる。成績は優秀なものの、授業中であろうと空想に耽っている。ぼさぼさの髪の毛、はみ出したシャツ、どこか抜けているキャラクターだ。手先が不器用で工作のたびに怪我をする描写が印象深い。豊富な想像力はしばしば現実を越えてしまうが、ツリーハウスのデザインでは才能を発揮した。現実を浮遊する彼女の想像力を、ぷりんがつなぎとめる関係として二人は描かれる。

 現実的な制約を踏まえて解決を探るぷりんと、現実を超越して空想するせるふは、シンギュラリティ志向/DIY志向の対称性を浮き彫りにする。「自分自身でする」ということは、自分自身に対する過大評価の裏返しでもあり、「機械にやらせる」には人類の能力の限界をわきまえなくてはならない。

 

2.2 ぷりん家/せるふ家 ――時代的対比

 ぷりん/せるふは隣接する家屋に住んでいる。二人はお隣さんであり、まんが・アニメの文法の通り幼馴染である。家庭とは最も小さな共同体の単位だが、両家もまた対立項として描かれている。

 まず、建築物としての家(house)のレベルにおいて、ぷりん宅のシステマティックな様子がうかがえる。玄関前に門が設置されており、監視カメラで撮影した訪問者を顔認識して開錠を管理する。対するせるふ宅はというと、平均的な一軒家といった出で立ちで内装に関しても現代の基準からしても古い「実家感」のある住居である。

 ペットについては、ぷりん家には(ペットというか家電?)クラゲ型のロボットが家事手伝いをしている。これは「アレクサ」のような対話型ロボットの進化系であり近未来SF的なガジェットにも位置づけられるが、会話の文脈が読めないせいでポンコツとしても描かれる。一方のせふる家ではイヌ・ネコ・ブタの三匹のペットを飼っており、食卓でせふるたちと一緒に食事するシーンが何度も描かれ、無機質なロボットと対比される。

 両家ともにペット(?)に加えて母親と住んでいるが、こちらも対称的だ。ぷりんの母親はスーツ姿で描かれており、キャリアウーマンとして海外転勤などで家を空けがち。ぷりん宅のセキュリティやクラゲ型ロボットは、仕事で忙しい母親の代替として子供を守るためのものでもあるのだろう。

 せるふの母親は専業主婦のようであり、エプロン姿でせるふやぷりんを家で迎える描写が多い。料理も得意で、娘の食事を毎日作っている。ステレオタイプな母親像であり、ぷりん家と比較すると女性の社会進出が尊重されていなかった、かつての(もちろん、今でも達成できているわけではないが)家族観にとどまっている。補足しておくと、両家の母親のありかたは中立に描かれている。ぷりんの母親も放任しているわけではなく、子供たちにおはぎを振る舞うシーンがあり、一方のせるふの母親が抑圧されているという描写はない。二人は優劣で描かれるのではなく時代性の対比にとどまっている。

 二つの家は、時代性とともにその温度も異なるようだ。ハイテクなロボットが管理する無機質でクールなスマートハウスと、動物たちと暮らすあたたい日本家屋。今日ではもはや珍しいせるふ家はノスタルジーすら呼び起こす。新しい技術の登場によって、古いものが相対化され「あたたかく」見える現象は、メディアの変遷でも見受けられる。YoutubeなどのインターネットメディアとTV、TVとラジオ、ラジオと新聞・書籍......これらのニューメディアの登場と、オールドメディアの再-評価の反復である(これは根源としての文字エクリチュール話し言葉パロールの対立まで遡及できるだろう)。技術の進歩(インターネットと個人用端末の普及、映像の撮影・放映、無線通信、活版印刷)によって新しいメディアが登場すると、それを歓迎するテクノオプティミズムと、懐疑的なオールドメディアノスタルジアの対立が発生する。*3革新派/保守派の政治的対立にも見えるこの図式は、実際には技術の進歩という線形的な時間に伴って展開される、必然的な時代性の衝突、時代的変化への葛藤なのだ。

 両家の対比はまさにこの技術的進捗=時代性の葛藤と、それに伴う「温度」の違いに映る。ステマティックなぷりん家には、海水で暮らすクラゲが無機質なロボットとして家事を管理し、「あたたかな」せるふ家では恒温動物たちと戯れている。母親の社会進出が新旧対比的なのは上述の通りである。隣接する両家は、まるで違う時代の家庭が並列に配置されたかのように、技術の進歩による時代的対立を媒介するかのようだ。

 

2.3. 湯専/潟女 ――広い社会への接続

第1話より

 本作はローカルな部活動の領域を描くスケールの小さな物語であるが*4、そのぶん中間項の描写が豊富である。*5

 ここまで、ぷりん/せるふの二人を起点に、家庭を比較してきたが、もう一段階スケールアップした対立・中間項として、ぷりんの所属する湯専(湯々女子高等専門学校)とせるふの所属する潟女(潟々女子高校)に注目しよう。

 両校は日照権の侵害が訴えられるほど近くに隣接している。ぷりん家/せるふ家と同様の地理的な隣接が、両者のコントラストを際立たせている。湯専は最先端の科学技術が学べる高等専門学校であり、せるふの通う潟女は一般的な普通科高校のようだ。駅の改札のように登校を管理し、自動運転のスクールバス、近未来的な内装の湯専と比較して、自転車で通学しアウストラロピテクス=世界史を学ぶような潟女は我々からしたら一般的(作中世界からしたら古典的)なカリキュラムである。

 とはいえ両校の対立は、その対立自体が不自然であり、本来はひとつの学校が分裂したようにも見える。日照権の問題が発生するほど近くに別の学校を建てるのは、フィクションと言えど過剰だし、両校の混同が作中において進行する。湯専と潟女の関係を語るにあたって、二人の登場人物――ジョブ子(ジュリエット・クイーン・エリザベス8世)、しー(幸希 心)をおさえる必要がある。

 ジョブ子は米国IT企業の令嬢であり、12歳の天才留学生である。本来は湯専に留学するつもりだったが、「湯々」と「潟々」を書き間違えたので潟女に入ることになってしまった。当然これはギャグシーンだが、両校の混同がもっとも明示されるシーンである。両校が「固有名」のレベルで根本的に入れ違う、双子を見誤るような混同。文字通り「湯々」と「潟々」を並べてみても、両者は似ているばかりか、「湯潟(ゆうがた)」として合成可能な、あるいはそこから分裂した固有名のようにも思える。

 対象そのものの混同のほかに、両者を隔てる領域への侵犯も描かれる。東南アジアの富豪の生まれで湯専の学生である しーは、潟女のDIY部に乱入する非公式の部員である。彼女はニンジャのような身体能力で、壁伝いに潟女に潜入しDIY部と活動を共にする。変装のためか潟女の制服まで身に着けて非公式な侵入に拘っており、オフィシャルな境界線の無効化が強調される。

 両校の混同を代弁する二人の人物は、ふたつの学校を接続するだけでなく、より広い領域まで拡張する。米国=欧米諸国と東南アジアにルーツを持つ設定により、地理的に局所的なぷりん家/せるふ家、湯専/潟女で展開される物語はワールドワイドな領域へ開口するのだ。

 

3. まとめ 表題の結論

 2章を踏まえて作品の構造をまとめる。

 ぷりん/せるふを発端とする人間の有限性をめぐるシンギュラリティ志向/DIY志向の対立は、上層の社会=家庭では、時代性の違いという時間軸が与えられる。ここではシンギュラリティ/DIYの対立は新技術/古い習慣の対立に置き換えられ、「クルーな」ニューメディア/「あたたかな」オールドメディアの図式に還元される。両者の対比は、人間の能力―あるいは尊厳―をめぐる問題系とは異なる軸において、時代の変化をめぐる葛藤として捉えられる。これはシンギュラリティ/DIYの対立と無関係ではない。身近な例では、AIが生成した画像よりも人間が描いたイラストのほうが「味がある」「ぬくもりがある」というノスタルジーを孕んだ相対化が発生している。また、若年層を中心に新技術を積極的に取り入れる層と、(主に権利的・尊厳的観点からだが)AIイラストに反対する層の対立は、まさにいま起こっていることだ。

 家庭→学校へと広げていったとき、湯専/潟女の対立からは、断絶よりも接続の兆しがみえる。ふたつの学校を混同する存在としてジョブ子・しー が配置され、両者が海外からの訪問者であることから両家・両校の地理的な隣接関係に亀裂が入り、より広い領域へと開かれる。

 つまり、ぷりん/せるふの個人的な思想の対比が、ぷりん家/せるふ家を通じて時代的なものとして捉えられ、湯専/潟女を介してより広い世界へなげかけられているのだ。中間項を介して時間的・空間的なスケールアップを経ることで、シンギュラリティ/DIYという歴史的な全人類に関わる問題系についに達する。

 かくして私たちは本稿の結論にたどりついた。

――どうして本作は近未来設定なのか?

 近未来設定によってシンギュラリティを導入することにより、DIYは歴史的・全人類的な大きな問題と対立する普遍的な概念へと昇華することができる。本作においてはDIY部からぷりんが疎外され、シンギュラリティにおいてはDIY(人間自身による生産)が疎外される関係が反転し、不要な時代設定はひとりのキャラクターに託される。二人のメインキャラクターの対立が家庭・学校のレベルへと引き継がれることにより、DIYが多層的に意味付けされ、シンギュラリティと対立可能な、たんなる趣味を超えた普遍のテーマに達する。

 また、たんなる趣味としてのDIYが、もはや巨大な問題系と密接する主題であると解釈することで、もはや本作を「趣味系」として受容するのとは異なる読解が果たされた。

 以上で本稿の目的①近未来設定の謎を解く②「趣味系」とみなす先行言説と異なる解釈を与えることができた。しかし、やっと導出したシンギュラリティと対比し得るDIYの価値づけを読み解かなければ、作品批評としては不十分だろう。

 

4. DIYとはなにか

 本作におけるDIYは字のごとく「自分自身でやる」ことだ。せるふは工作が下手だが、他の部員とおなじようにモノを作ることを諦めない。ひとりで犬小屋を建てるために悪戦苦闘しながらもやり遂げる姿は印象的だ。舞台が部活動である以上、自立した個人となるための教育的な側面は確かにつよいだろう。しかし、DIYとは成長のための単なる手段なのだろうか。生産過程をすべて代替するシンギュラリティ以降の工業をいかに相対化し、自分自身=人間自身がつくることを価値づけることができるのだろうか。

 この作品でフォーカスされるのは、作られたモノではなく、作る主体である。作中で何度も引用される「味がある」という表現に注目しよう。先述の通りせるふが作ったモノは不格好でミスがあったりする。DIY部の部長(矢差暮 礼)は、せるふが手掛けた椅子・アクセサリー・ツリーハウスの床に対して(不格好だと思いつつも)「味があって悪くない」と肯定する。一見するとこれは作品に対する客観的な評価にも思えるが、これは製作過程を知ったうえではじめて言えることだ。せるふが残した傷は、彼女やDIY部のメンバーからは、製作過程の痕跡に見える一方で、その文脈を共有せず作品だけを見た消費者からは単なる傷にすぎない。その「味」がわかるのは作る主体だけであり、作ること自体の愉しさをなぞることは製作者の特権なのだ。実際、部費を工面するためにアクセサリーを販売したときには、せるふ作の不出来な商品は製作の文脈を共有できない消費者に売れなかった。

 自分自身で作ることの楽しさ、自分自身で作ることの権利に注目することで、シンギュラリティ以降のDIYは特有の価値を帯びる。AIが生成したプロダクトに、作る主体はあるか?AIは自分自身で作ることの悦びを知るか?という問いかけである。ここでは生産過程は単なる手段ではなく、目的となる。作ることそれ自体が楽しいのだから、それをAIによって代替する理由はなく、もっというと作る主体としての人間をAIは代替できない。作ることを消費する・・・・・・・・・主体が現れることにより、生産過程→生産物の手段-目的関係は転倒する。

 作られたモノの価値から主体が作ることの価値へのシフトは、古い技術を「あたたかい」と擁護する論理とは一線を画す。2.2.で先述の通り、ニューメディア/オールドメディアの図式からシンギュラリティ以降のDIYを価値づけるなら、人間が作ったものの方が「親近感がわく」「あたたかい」といったノスタルジーに訴えかけることができる。しかし、この図式自体が時代の変遷とともに繰り返し反復される運命にある以上、最終的な審級には至らない。現状の画像生成AIもより自動化された技術の登場によって「プロンプトで人間が言葉を編むので味がある」などと再評価されかねないのだ。それに対し、作品の価値ではなく主体性に着眼することで、シンギュラリティ/DIYは主体なき生産という一回性の問題に帰結する。

 人間の有限性に失望することもなく、人間を無制限にとらえるヒューマニズムに陥ることもなく、AIが制作過程を楽しむ主体たり得ないという制限性によって、自分自身で作ることを価値づけることができるのだ。そしてこの主体への傾倒を示しつつも、最後につくったツリーハウスに部外の生徒(消費者)を挿入することで客観的評価との緊張関係も両立して描いており、ここに本作のバランス感覚が十分に発揮されているのではないだろうか。

 

 

*1:もののけ姫』における天皇批判のシーン。『すずめの戸締り』における芹澤など。

*2:2045年」という予測にはそこまでの妥当性はないという意見もあり、この指標は「2000年問題」「50-80問題」的なキーワードに近い。

*3:参考:石岡良治『視覚文化「超」講義』フィルムアート社 2014年 参照箇所はLecture.5 メディエーション/ファンコミュニティ P218~

*4:これは一般的な受容であり、本稿では身近な社会を描きつつも、全人類的な問題に直面している作品として理解する。

*5:ここで言う「中間項」とは、東浩紀らのセカイ系の定義――"主人公とヒロインを中心とする関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」などの抽象的な大問題に直結する"をふまえている。最もプライベートな関係としての「きみとぼく」が「セカイ」の大きな問題に直結することがセカイ系の特徴で、大雑把に言ってしまえば「たったひとりのヒロイン」と「全世界の命運」を天秤にかける葛藤が成立する作品群である。この「きみとぼく」-「セカイ」の短絡で省略された家族や学校・職場、地域共同体などの社会が中間項にあたる。