パン屋でトングをカチカチする行為は威嚇なのか
緒言
瀟洒な店が並ぶ道をあたたかな日差しのなか歩いていると、どこからか小麦のいい匂いがする。匂いにつられてパン屋のドアを開けると、すぐ近くにはトングとトレーが待ち構えていた。店内にはむき出しのパンが並べられていて素手で掴むわけにはいかないから、あなたはトングを持ってかわいらしいパンやドーナツを蹂躙していく。舌なめずりをして今日の獲物を選別しているとき、トングをカチカチさせていることに、あなたは気づきもしない......
このトングをカチカチする行為が周囲を威嚇しているようだという言説がある。
人はどうしてパン屋でトングを持つとカチカチっとパンを威嚇するような態度をとるのだろう。カチカチ
(トングカチカチに関する調べ得るかぎり最古のツイート(2010年)*1)
トングをカチカチする動作がハサミを開け閉めする動きに見えること、カチンカチンと音が鳴ることからなんとなく威嚇っぽい。という指摘が世間に広く受け入れられた。
2018年にはこれをモチーフにした*2Tシャツとして売られているほどだ。
トングをカチカチする行為は威嚇にあたるのか。それが威嚇行為だったとして、それは誰に対する威嚇行為なのか。われわれはなぜトングをカチカチしてしまうのか。
今回は威嚇について定義を確認したあと、自然界にトングカチカチと似た威嚇をする生物がいるか考察し、トングカチカチの分析を経てトングカチカチの本質にせまりたい。
威嚇とは何か
1.威嚇(いかく)は、実際の攻撃ではなく、それに似た姿や様子を見せることで対象を脅かすことであり、
2.往々にして自らの身を守るために自らの力を誇示する攻撃的な防衛手段である。
レッサーパンダが立ち上がったり、スズメバチがキリキリと音を鳴らすのは威嚇のためである。ヤドクガエルのような毒を持つ生物が派手な色をしているのも、派手な色=毒をもつというイメージによって対象を脅かす威嚇行為と言える。見た目や音で相手を脅かすのではなく、臨戦態勢に入っていること(いつでも攻撃できること)を示すのも一種の威嚇である。
1が意味するように威嚇は、実際に攻撃するわけではなく自らの力を誇示するにとどまることで、対象との衝突をさけて自らが傷つくリスクを減らす戦略的な行動である。
2より、あらゆる威嚇はその性質上、行為の対象として自身を脅かす存在を想定する。
種間関係において食う-食われる関係があったとき、被食者が捕食者を威嚇することがあっても、その逆はあり得ない。捕食者が被食者から自分を"守る"ことはないからだ。
また、威嚇は種内関係(イヌとイヌ、ヒトとヒトのように同じ種(species)どうしの関係)においても作用する。
配偶行動や縄張り争いのよって同じ種の個体と衝突することもあるが、その場合は決まりきった形式的なやり取りによって勝敗をつける場合があり、儀礼的な行為だけで決着がつく。
自然界のトングカチカチ
自然界には多様な威嚇手段がある。トングカチカチが威嚇っぽいと感じるのは、自然界で似たような威嚇をする生物がいて、我々がそれから類推(analogy)しているからではなかろうか。
一般にトングは金属製の板を曲げて作られており、巨大で滑らかなピンセットのような形状をしている。そのシンプルな構造から、「片手で操作してモノを挟むことができる」というアフォーダンス*4を示し、われわれは直観的にこれをもってパンを挟んでいる。この行為を抽象化して、トングをカニやエビのような甲殻類のもつ鉗脚(ハサミ)と同等の器官のように扱い、トングカチカチをカニやエビの威嚇行動と結び付けていないだろうか。
ではカニやエビはハサミをカチカチして威嚇するのか。
上の動画を見ると、ハサミを動かさずに身体を大きく開いていることがわかる。
節足動物はコオロギのような一部の昆虫を除いて基本的に聴覚を持たない。そのためハサミをカチカチと鳴らすことに意味はなく、ハサミをなるべく開いて自身を大きく見せ、視覚的に威嚇するのだ。
身体に対して大きな顎(ハサミ)をもつクワガタもまた、ハサミを大きく開いて威嚇する。
顎(ハサミ)を使って音をだす生物としてスズメバチが挙げられるが、スズメバチの威嚇はハサミの先端を打ち付けるように音を鳴らすのではなく、ハサミを擦り合わせるようにして音を鳴らしている。これについては参照動画の後半で分かりやすく解説されている。
最もトングカチカチに近い動物の行動は、テッポウエビの挟み行動である。
巨大な鉗脚(ハサミ)を打ち付けて破裂音を鳴らす。これは威嚇にも用いられるが、テッポウエビはこれによって獲物を気絶させたりもするので「攻撃性の誇示(威嚇の定義1)」というよりは「攻撃性の実行」、すなわち攻撃そのものである。
そもそもテッポウエビ自体がマイナーな生物であり、トングをカチカチするときにテッポウエビを連想する人は少ないだろう。
以上から動物の行動の類推によってトングカチカチの威嚇性を説明できない。
トングカチカチのようなしぐさはヒト特有のものだ。
トングカチカチの分析
トングをカチカチと鳴らす行為を威嚇に当てはめるとどうだろうか。
まず、「威嚇の対象」を明らかにしたうえでその行為が「自身の攻撃性の誇示」に当たるかどうか検討したい。
パン屋でトングをカチカチするときに周囲にいる存在は主に人間(店員または客)とパンである。緒言で挙げた初出(推定)のつぶやきやTシャツの文面ではトングカチカチの威嚇対象はパンとされている。
しかし威嚇の定義2から示したように、あらゆる威嚇はその性質上、行為の対象として自身を脅かす存在を想定する。
パンはわれわれを脅かすか。あのやわらかく、まるまるとしたやさしさのかたまりのような"あれ"が、われわれの何を奪うのだろう。たしかにパンをたくさん食べてしまうと太ったり糖尿病になるが、それはわれわれの節操のなさのせいであり、パンがわれわれを傷つけるわけではない。脆弱な理性が、われわれの血管を内側から傷つけるのだ。
だから、パンは威嚇の対象ではありえない。たとえあなたがパンを威嚇しているつもりでトングをカチカチしたとして、その行為は威嚇ではない何かなのだ。
であるならば、トングカチカチが威嚇であるならば、その対象は店内にいる人間となる。
トングをカチカチすることは自分がトングを持っていることを周囲に視覚的、聴覚的に知らせる行為であり、自分の力を誇示しているように見受けられる。警察官が警棒を持ち構えたり、軍人が銃を抱えるように、武器の存在をちらつかせる行為は人間の、人間に対する代表的な威嚇であるが、はたしてトングにそれほどの殺傷能力があるだろうか。
2018年9月に郵便局員が後輩社員に熱されたトングを押し付けて火傷させたという事件があった*5。おそらくトングが凶器となった傷害事件はこれだけだろう。しかしこの事件はパン屋でなく焼き肉屋で発生した。焼き肉用のコンロで金属製のトングを熱して、相手を火傷させる「武器」に変性させたために傷害事件になったのであって、小麦香る平和なパン屋ではトングは武器になりえない。
食料の前でわれわれが野生の本能(略奪と攻撃)を刺激されたとしても、攻撃性の誇示という面ではトングをカチカチ鳴らすよりも、大声を上げたり四肢をあらんかぎり開いたほうが威嚇としては有効だろう。
しかしトングカチカチ威嚇の対象が人間(種内関係)ならば前述のように種内の衝突に関しては直接攻撃性を感じない儀礼的な行動で威嚇が成立することがある。
トングをカチカチ鳴らす行為が人々の間で威嚇として認知されれば、これは威嚇として成立する。
ヒトAがほしいパンをとろうとしてるヒトBへむけてカチカチと威嚇すると、ヒトBも負けじとカチカチする。お互いにらみ合い激しくカチカチとトングを鳴らしあい、閑静な店内に金属の乾いた音が鳴り響く。ヒトBの握力が限界になりトングを鳴らせなくなると、この時点で敗北が決定し、そそくさとパン屋を去る。
こんな未来があるかもしれない(あるいは、もうはじまっている?)。
トングカチカチの本質
ここまでトングカチカチについて
他の生物から類推できる威嚇行為ではない。
パンを対象とするトングカチカチは威嚇たりえない。
ヒトを対象とするトングカチカチはお互いの了解の上で威嚇として成立する。
ことがわかった。
トングカチカチが威嚇であるならば、それはヒトを対象とするわけだが、本当にヒトを威嚇するつもりでトングを鳴らす人は(そんなに)いないだろう。
やはりトングカチカチはパンに対する行為というのが実際のところだろう*6。
ではわれわれがパンに対して、カチカチとトングを鳴らしてみせる行為は、威嚇でないならなんなのか。
その本質は「暴力」である。
ここでいう「暴力」は哲学的に「他者に対する力の行使」という意味として使う。
力の行使は実行とは限らないことに注意してほしい。人間が、他者に対して腕を振り上げた時点でその力は行使されているのだ。
「暴力」は対象が攻撃されなくても、主体にその意思がなかったとしても他者に対して力を行使すればそれはつまり「暴力」である。「暴力」は誰もが性質として持っているし、生きる以上これを実践せねばならない。威嚇も機能的には防衛行動だが、本質的に自身の攻撃性(という力)を他者に晒している(行使している)、「暴力」の一種である。
無防備なパンにたいして彼らを攫み上げる道具をカチカチと軽快に操作してみせるのは、捕食者としての、略奪者としての力の誇示にほかならない。
獲物を食べる前にひとしきり鳴いたり、よく研がれた爪を見せつける動物はいない。
トングカチカチはその動作だけでなく、意味としてもヒト固有のものである。
動物もまた「暴力」によって生きているが、少なくとも
トングカチカチはわれわれ人間に特有な「暴力」の表現、実践である。
清潔な店内に並べられた、こんがりと焼けてまるまるとしたパンたちに向けて
今日もあなたはトングを鳴らす。無邪気に鳴らす。
その弛緩した口元から猥褻な舌を、ダイヤモンドほど頑強な歯をのぞかせて......
補足
実際のところトングをカチカチする行為はトングのばねの具合を確認したり、手になじむようにするために行われている(という意見があります)。
今回はトングカチカチが威嚇である という論に着目したために取り上げなかったためここに補足しました。
パン屋でカチカチしている人がいてもトングの具合を確かめているか、気持ちが高鳴っているだけだろうから、どうか気にしないでほしい。
くれぐれも自分に対する威嚇行動などと思わず、おいしいパンをじっくり吟味しましょう。
*1:参考:ニコニコ大百科「トング」https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%B0
*2:該当の商品はキャラクター・ボーカル・シリーズ・初音ミクの二次創作作品ではあるが、トングカチカチに主眼が置かれているため、ここで取り上げた。
*3:参考:Wikipedia「威嚇」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A8%81%E5%9A%87
*4:環境が動物に与える「意味」のこと。ここではデザインの文脈におけるアフォーダンスの概念をさす。詳細:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9
*5:ソース:産経新聞https://www.sankei.com/west/news/180926/wst1809260007-n1.html
*6:Twitterなどで「トング カチカチ」で検索すると、パンへの威嚇行為という認識が多く見受けられる:https://twitter.com/search?q=%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%80%80%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%81&src=recent_search_click