ヴァーチャルに/リアリスティックに描かれる田舎--『のんのんびより』『ゆるキャン△』にふれて
はじめに
アニメーション作品には、田舎を舞台にしたものが多い気がする。『アルプスの少女ハイジ』や『フランダースの犬』、『となりのトトロ』に代表されるスタジオジブリの作品など、いくつかの古典的なアニメは田舎を舞台としている。
緑豊かな大地を舞台に素朴なキャラクターたちが牧歌的な生活を送るさまを、ノスタルジックに描く。自然という静物画を背景に少数のキャラクターをアニメートするのは、作品を制作するうえで都合がよいという合理的な選択であることはもちろんだが、そこには1つのオフィスに集約されたアニメーターが流れ作業で作品を作る-マニュファクチュア-を生業とする都市的生活からの憧憬があり、視聴者もそれを望んでいたのだろう。
現代では電気通信技術の発展と新幹線・飛行機のような交通機関の敷設によって、もはや田舎と都市の情報伝達・時間的距離は縮まった。全国チェーンのコンビニエンスストア・ファストフード店が点在し、どこにいても似たような味・似たようなサーヴィスを享受できる。Amazonで商品を注文すれば田舎にいても都市部の店舗にしかない商品を、都市にいても地方の特産物を簡単に買い求めることができる。インターネット通信でどこの誰かもわからない人と気軽にコネクトし、一緒の話題で盛り上がったり作品を公開・視聴できる。新幹線に乗れば都市部から実家まで数時間足らずで移動できる。
情報・ヒト・モノの高速な移動、伝搬は(とくに地方において)地域的な格差を是正してくれるものであり、人々にとってかけがえのないインフラストラクチャ―となっている。
このように田舎が都市化されること-文化・環境の均一化-によって、もはや田舎/都市の境界は曖昧になりつつある。それでも情報化・都市化されない物理的な距離やモノによって、あるいは住民の精神性によって未だに横たわる田舎について、今回は2021年に続編が公開された『のんのんびより』『ゆるキャン△』を取り上げ、アニメと田舎について論考していきたい。
詳細な論考に入る前に、本稿における田舎を定義する。辞書を引くと田舎には以下のような意味がある。
○都会から離れた地方。「田舎から町に出てくる」
○田畑が多く、のどかな所。人家が少なく、静かでへんぴな所。「便利になったとはいっても、まだまだ田舎だ」・生まれ故郷。郷里。父母や祖父母のふるさとについてもいう。「うちの田舎は四国の港町です」
・(名詞に付き、接頭語的に用いて)素朴・粗暴・やぼなどの意を表す。「田舎料理」「田舎風(ふう)」「田舎侍」【田舎とは - コトバンクより引用】
後半の項については慣用句的な意味なので省くと、田舎の定義とは
都会から物理的に離れていて、人が少なく自然が多い地域
といったところだろう。「地方」が東京や大阪といった都市部以外の地域全般を意味するのに対し、「田舎」はその中でもとくに人が少ない・自然が多い地域という定義で問題なさそうだ。
物理的な距離として都会=人の集約地域から離れていることは、人は少なくそれゆえに開発されていない自然が残っているのと地続きだ。
国道沿いにはショッピングモールやアミューズメント施設が立ち並ぶが、周りは田畑で囲まれ、自然のなかに人工物が混在する地域なども田舎といってよいだろう。
『アルプスの少女ハイジ』や『フランダースの犬』などは時代的な背景もあり、地方の都市化が進んでいない純粋な「田舎」が描かれていた。高畑勲監督の『平成たぬき合戦ぽんぽこ』は多摩ニュータウンのような都市開発によって失われる田舎、そんな転換期に描かれた作品として位置づけられるだろう。
さて、田舎=都市から離れ、人が少なく自然が多い地域 は依然存在するが、インターネット・交通機関によって情報的には都市と均一化しつつある昨今では、田舎はヴァーチャル(仮想的)な空間として、あるいは過剰にリアリスティック(現実的)な空間として描かれる。
ヴァーチャルな田舎--「こまぐるみ」として描かれる「いなか」
『のんのんびより』では田舎/都市の描かれ方が明確に提示されている。都会から越してきた転校生、一条蛍(ほたるん)と「いなか」で生まれ育った越谷小鞠(こまちゃん)の関係からこの作品がどのように田舎を扱うかがわかる。
ほたるんは、都市(あるいは都市の住人)のメタファーとしてスレンダーな女性として描かれる。小学五年生とは思えないほど大人びた印象を受け、素性をしらないものからは高校生・大人に間違えられるほどだ。
単行本第5巻の巻末設定資料によると、彼女の身長は164cmだ。文科省による調査*1では、2014年(アニメ一期放映時期)の11歳女子の平均身長は146.8cmであり、標準偏差(6.62cm)から算出すると偏差値75の高身長だ。
背が高いだけでなく、高校3年生のこのみとファッションの話ができるほど、垢抜けた少女として描かれる。
ほたるんと対照的なこまりは、中学2年生であるが妹の夏美よりも背が低く子供っぽい容姿を気にしている。年長のお姉さんとしてふるまう一方で、大人びたほたるんに憧れている。
先述の統計データによると都市部(東京都)と地方では児童の生育状況に大きなギャップはない。それでも都市の少女=ほたるんが、田舎の少女=こまちゃんよりも、(年齢的には幼いにもかかわらず)大人びて描かれているのは、文化の発展の中心地である都市と、歴史は深いが発展に取り残された(生育の遅い)田舎のコントラストをはっきりとさせるために思える。
さらに示唆的なのが、ほたるんのこまちゃんに対する偏愛だ。礼儀正しく理性的な振るまうことの多い彼女だが、(自分より年上だが小さな)こまちゃんに対して性倒錯的な愛情を抱いており、こまちゃんを模した人形「こまぐるみ」を自作し愛でている。
発達した都市の少女が、未発達な田舎の少女を愛でる。ある種の暴力的なまなざしによって消費される田舎(こまちゃん)は、矮小な実態をさらにデフォルメされた状態(こまぐるみ)で可愛がられてしまう。
もちろん、ほたるんにも年相応に幼いところがあり、こまちゃんが年上の女性らしく活躍する場面もあるが、このような都市からみた田舎を描くのが、この作品の基本的な姿勢である。
「こまぐるみ」としてデフォルメされた「いなか」は自然が豊かで、ほのぼのとした空間だ。全校生徒が数名しかない学校では生徒がのびのびと勉強し、遊んでいる。世間が狭くプライバシーの欠片もない、権力を握っている地主や村八分にされた住人のような現実の田舎の嫌さは漂白され、まっさらな「のんのんびより」のテロップの世界に再構築されたようだ。
写実的な自然の背景が描写されるが、具体的なランドマークは描写されない。田舎のいやさ以外にも具体的な地域性が完全に排除されているのだ。
「この作品、舞台が田舎ということで自然物がけっこー出てきます。どこかの町を舞台にしたというわけではなく、自分の家周辺や、ばーちゃんじーちゃんしの記憶からひっちゃかめっちゃかとりだしただけだったり」
(単行本1巻作者コメントより)
制作陣の断片的なイメージによって再構築された田舎は、現実の地域の転写ではなく人間関係のネガティブなイメージも排除された。
現実に存在しない、パッチワークのように現実と虚構からつぎはぎされた「いなか」のなかで、日常系作品の聖域としての学校だけが聖地*2として現実につながっている。
『のんのんびより』の田舎の描き方は、田舎/都市の境界が薄れているいまでは、もはや田舎が仮想的な想像上の空間でしかないことへの応答のように思える。
さまざまな地域の断片的な風景、過去にあった田舎の情景、想像のイメージを組み合わせて構築された「いなか」は、空間・時間・存在論的に複雑に絡み合い、独特なテクスチャを作り上げている。
仮想的な田舎で繰り広げられるキャラクターの掛け合いは独特のテンポで沈黙し、視聴者に笑いを誘うと同時に、静止したキャラクターは背景と同化する。
写実的な背景-「いなか」-もまた、れんちょんたちと同様にどこかから引用され、想像されたフィクションにすぎないのだと語りかける。
具体的な田舎を失いつつある僕たちがそれを楽しむには、さまざまな断片の集合-ヴァーチャル-な田舎に触れてどこかに・かつて存在する風景に思いを馳せるしかないのかもしれない。
ヴァーチャルな田舎をたのしみ、それにつけて田舎を想像しそれがまたヴァーチャル空間に還元される構造は、再帰的にぐるぐると田舎の仮想性を強化していくと共に失われたノスタルジーをそこに残してくれるのだろうか。
リアリスティックな田舎--聖地=地域の固有性
田舎を舞台とした作品である点では『ゆるキャン△』も『のんのんびより』と同様だが、この作品では作中世界の具体的な地域性が色濃くでている。
静岡から山梨に越してきた各務原*3なでしこ(なでしこ)が志摩リン(しまりん)ら現地の同級生とともにキャンピングを介して友情をはぐくむ作品となっている。
富士山をランドマークとする山梨近郊をメインに美しい風景や特産品も紹介しており、
県とのコラボレーションキャンペーンも盛んにおこなっている。
『らき☆すた』や『ガルパン』以降、作品内でモデルとされた名所や地域を実際に訪れて楽しむ、「聖地巡礼」がファンたちの間で流行した。
現実の世界にはキャラクターたちは登場しない。けれども、彼らが歩いていた風景が目の前に広がっている。彼らが使っていた飲食店や学校、ショッピングモール、そういった「聖地」を訪れてキャラクター・物語の痕跡をたどる楽しみは、テレビや映画館で作品を鑑賞するのとは違った刺激をもたらしてくれるのだ。
『ゆるキャン△』もまたそんな「聖地巡礼推奨アニメ」のひとつであり、地域性を前面に押し出した作品だが、これをただの商業主義的な戦略として片付けてしまうのは早計だ。富士山が見下ろす山梨という田舎の描き方について、この作品は一つの可能性を示唆する。
この作品では田舎がリアリスティックに描かれる。ただし、これは田舎に息づく人間関係や不便さを克明に描くという意味ではない。
普遍的な空間である田舎を、具体的な現実の地域として描いている。ヴァーチャルな存在に現実感を与えるようなアニメートというよりはむしろ、現実の空間をアニメの世界に落とし込むほうに力点が置かれている。
具体的な地域性により描写される田舎は、確かに田舎ではあるがそれはもはや田舎/都市という二項構造から脱した存在へと昇華する。
これはどういうことか。作中の舞台となった山梨県は現実としてある、だけでなく現実にただひとつの地域として存在する のだ。
現実に紐づけられた固有性は、そこに想像や虚構の入り込む隙間がなく、それゆえに曖昧な心理的情景、人々が思い描くぼやけた空間としての田舎と、作中世界をはっきりと独立させる。
『のんのんびより』の作中世界「いなか」が様々な田舎のステレオタイプ的イメージのキメラだとすると、確固たる固有性をもった「山梨」はそのようなステレオタイプ化を拒む。
田舎/都市の境界が曖昧になりつつある今では、リアリスティックに最大公約数的な田舎を描くことは不可能である。(なぜなら、田舎そのものが失われつつあり、ヴァーチャルな想像上の地域にすぎないからだ)
それでもいまだに田舎-的な-地域は残っていて、それらはお互いに全く違う固有性をもっているのだ。そしてそれらの差異は田舎/都市の対立よりもずっと多様で、もっと描くべき魅力にあふれている!
だからこそ、田舎が都市へ均一化されるなかでは、田舎/都市というステレオタイプ的な構造によって、「田舎-とされる諸地域-は田舎として均一化される」ことを自覚し、そこから脱しなければならない。
この作品で描かれる山梨及び諸地域には、「田舎」として埋もれてしまうにはもったいない固有の魅力がいきいきと、(現実に根差したという意味で)リアリスティックに描かれているのだ。
れんちょんたちは「ここっていなかなのん?」と作中世界が田舎であることに言及するが、なでしこたちは田舎として自分たちが住む地域をラベリングしない。「梨っ子」として生きる彼女たちは、地域に住む人々の息遣いを僕たちに訴えかけている。
このように、田舎として均一化されることを拒み、具体的な地域の固有性を主軸に据えることで都市だけでなく他の田舎とも切り離された、独自の世界観を描くことは
逆説的に田舎/都市の違いをありありと描くことを可能とする。
『ゆるキャン△』が提示する聖地-現実の地域-をのびのびと描く試みは、都市に・田舎に均一化されつつある実際の地域から、そこ独自の魅力=そこにしかないものをアニメートする大きな可能性のひとつだ。そのアイロニカルな転換に、静かな高揚を覚えてならない。
キャンピング--田舎から自然へ、自由と都市的な営み
さきほど『ゆるキャン△』の聖地、地域の固有性について触れたが、この作品のテーマであるキャンピングから田舎*4の中の自然について考えてみよう。
キャンピングは開けた山林などに、小型の移動式住居-テント-を張り、炊事・野営を営むレジャーである。焚火や部外者が宿泊する関係上、キャンプ場は都市からはなれた自然のなかにあることが多い。
しまりんのようなヘビーキャンパーでも住宅街のような生活圏ではなく、そこからさらに人が少なく・自然が多いキャンプ場まで移動し、キャンピングを楽しんでいる。
ここには田舎の中でもさらに自然の濃度がグラデーションのように分布していることがわかる。
高校があったり、自分たちの住居があるエリアは田舎の中でも人がいて自然は減っている。富士山を望む地域といえど、アスファルトは塗装され通電線が張り巡らされている。そんな生活圏から、ミニマムな住居(テント、キャンプグッズ)を持ち出してさらなる自然へ回帰するレジャーは、都市化された田舎では贅沢な遊びであり、それは都市生活者が田舎を楽しむ志向と一致する。
キャンプグッズは丈夫なつくりになっているため、高校生が入手するには高価だ。しまりんは祖父からキャンプグッズを貰ったのがキャンピングにハマったきっかけだが、野クルのメンバーは安い商品でもキャンプができるように工夫したり、アルバイトに励んでいる。
キャンプ場という残された(それも「人の手を加えないように」管理された)自然に還り、野営を楽しむためには経済活動は必要不可欠である。
そしてその経済活動は、(人が集まって経済を動かすという意味で)都市的な営みに他ならない。
自然へ回帰すること自体が「不自然」となってしまった現代で、人を避けて自然を享受するには、都市的な労働が対価として必要だ。
これは現代における自由のありかたと似ていて、正月もバイトに励むなでしこたちの姿はリアルに見える。
また、キャンピング・旅行中もSNSによってメッセージを送りあう彼女たちの、都市化された生活を営みながら自然を求める反面、人とのつながりを維持しながらそれぞれがレジャーに・経済活動に励むすがたは、現代的な人々の暮らしに近しい。
だからこそ、しまりんたちのように自分もキャンピングがしたいという欲求をかきたてさせ、多くの視聴者をキャンプ場へ誘うのではないだろうか。
おわりに
ここまで『のんのんびより』『ゆるキャン△』を題材に、アニメーションと田舎について考えてきた。簡単にまとめると
・現代において田舎/都市の境界は曖昧になっている。
・この状況に対し、『のんのんびより』はヴァーチャルな田舎を舞台とし、田舎の断片的なイメージを集めて再構築することで失われた田舎を描くことを可能にしている。
ヴァーチャルな田舎は、もはや田舎がなくなりつつある僕たちに、田舎のイメージを与え、その想像力がヴァーチャルな空間に還元される。
・『ゆるキャン△』では山梨という現実に固有な地域を舞台にすることで、田舎/都市という均一化された二項対立から脱し、その地域の固有性をリアリスティックに描くことで田舎として埋没しない田舎-とされる地域-のアニメートに大きな可能性を示した。
・キャンピング=生活圏からさらに自然にあふれた場への回帰は、田舎を求める都市生活者のそれと一致し、労働によって得た富によって自然を得る行為は現代における自由と合致し、これもまた作品にリアリティを与えている。
ここまで書いた感想だがとくに、『ゆるキャン△』で、田舎が都市に均一化されるまえに、田舎というイメージそのものが様々な地域を均一化させる考えであることに気づいたのは大きな発見だった。
『のんのんびより』については、ほたるんとこまりちゃんの関係に注視し、作品背後の田舎観に接近することができたと思う。
作品を深堀りすることで新しい発見や視点を得られることは、考察・批評の醍醐味だろう。
最近は日々に埋もれてレビューを書く気力がわかなかったが、やはり楽しいものですね。■