虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

作品について書くことに対する個人的な書き置き

あまり自己言及的な文章(お気持ち表明てきなアレ)を書きたくないんだけど、いろいろと考えたことを整理するために恥ずかしげもなく書く。個人的な話だけれど、だれかのなにかの参考になるかもしれない。

 

 

だらっとした振り返り

ここのところ、「作品ついての批評とかを真面目に書こう」というがムクムクと湧いてきている。


最近では『のんのんびより』『ゆるキャン△』に関する文章を書いた。

comkaeri.hatenablog.com

 田舎を舞台としたふたつの作品を比較して、前者が抽象化された「いなか」を舞台としているのに対し、後者は具体的な地域(山梨・静岡・長野など)を舞台としている点に着目していろいろと書いた。

投稿したときは面白い記事が書けた!と興奮していたが、冷静に見返すとけっこう、あやふや*1なことを書いている。

まぁ僕自身は作品を批評する能力がまだ足りないなぁ......としみじみと実感しているのです。

ここでいう「作品を批評する能力」とは「鋭い感性で作品に秘められたメッセージをすくいあげる」という類のものではなく、むしろそのあと、「こう解釈したら面白いんじゃない!?」という感動や喜びといった(もちろん、ネガティブなものも含む)情動を、他者に伝えられるような文章を構成する、ある種のプレゼンテーション能力のようなものをさします。

たとえば一か月ほど前に投稿した『安達としまむら』の論考では「いらない子」について、宇宙人ちゃんそれ自体が作品の異物として扱われているという旨の記事を書きました。

宇宙人ちゃんは、キャラクターデザインやストーリーの構成から疎外されている特殊な存在であり、それは彼女の「異物」という役割に基づいて要請されたという意味で不可避な疎外を受けている。

という解釈は、いまでも熱っぽく語れるほど、気に入っているというか、入れ込んでいる論考なのですが、それを文章でうまく伝えられたかというと微妙なところです。

こういう悔しい思いをしたくないから、難しい本を読んだり、小説を読んで読者の気持ちを引き付ける文章を真似てみたり、他の人の批評を読んだりして勉強しています。(だいたい読むのに夢中になっちゃって「技を盗む」なんてこと、できてないけれど)

 

comkaeri.hatenablog.com

 

なぜ僕はネット上に文章を投稿しているのか

さて、こういう論考*2を書いてネットにアップするのは、自分以外のだれかに読まれるためなのですが、

PVを稼ぐために書いているか と言われると微妙なところです。

作品を見て考えたことが頭の中でなんとなくうごめいていて、それをうまく取り出すために文章を書いているのですが、その文章が 自分向け だと、論理を整理したりちょうどよい言葉を拾ってくるのが雑になってしまうんですよね。

基本的に作品について書くこと、語ることは失うことだと思うのです。アニメ・映画・漫画でも小説でもなんでもいい、何かにふれて泣いたり・笑ったり・緊迫したり・感心したりっていうすごく豊かな鑑賞体験を、テキストだけで再現できるかって、そりゃ無理でしょう。書けることしかは書けないんだから。レビューだったり感想を書くってことはその経験を失わせることなので、なんというか乱暴な面がある。

それでも僕は、作品から感じたことを何らかの形で残しておきたい。

そして豊かな鑑賞の原体験を文章に変換する以上、できれば丁寧にそれを書きたいという、個人的なこだわりがあるから

PVの多寡はともかく、書いた文章を誰かが読める状態にしてやることで、自分の考えをまとめる、論理を整理する、丁寧に言葉を選び取る姿勢を促してやりたいのです。

できればいろんな人に読んでもらって、わかりにくいところを改善したいですね。

文章が上手になってから投稿しようなどと思っていても、「上手になった」ときなんて、たぶん一生ないでしょうし。

とはいえ多くのひとに読まれたいと思いますし、アップした日はちょこちょこPVをチェックしたりもしますw。ブログでコメントいただいたり、twitterで感想もらったときは嬉しかったなぁ。

 

脱線してしまった。

 

ネット上に文章をあげる理由は、「誰かが読む」という圧を受けたいから、あとはやっぱり自分の意見を外に発表したいから かな。

 

 

なぜ僕は作品について書いているのか--陰謀論的な想像力の健全な発散

コロナウイルスの流行による社会的な不安からか、さまざまな陰謀論が蔓延しています。

とくに、「Qアノン」、アメリカ大統領選をめぐる陰謀論は、トランプ支持者たちの大規模なデモ活動、もとい暴動まで発展し、日本でも(!)デモが行われました。

s-mizuki.hatenablog.com

 

なかば与太話のような(少なくとも僕はそう感じる)陰謀論が、現実の社会に影響を及ぼしてしまっています。

このような陰謀論は「他の人が知らない世界の裏側を知りたい」という想像力が根源にあるという意味では、

作品(という世界)を解釈するのと似ています。

 僕がかつて書いた『球詠』の記事では、

この作品には女性しか存在しない=登場するキャラクターには性別がない

と仮定したうえで、

性とは差異のことである。この作品では野球のポジションという明確な差異=性の発生装置があるんだ!彼女たちの筋肉はペニス的なシンボルなんだ!

みたいなことを書きました。

comkaeri.hatenablog.com

 こんなの陰謀論にもほどがあるんですけど、でもこの主張が悪いかといったら、そんなことないと思うのです。

現実の社会には(たとえば、米国大統領選挙に不正はなかった といった)ただひとつの事実がありますが、作品をどう解釈するか、評価するかっていうのには正解は存在しない。作者の考えが絶対 というわけでもない。

だから作品の批評は、(その主張が論理的に破綻してたり、十分な考証がなされないといった明らかな欠陥がない限り)陰謀論めいたアクロバティックな論も許されている。

すくなくとも僕はそういうものだと思っている。それを望んでいる。

この現実の社会・世界に対して陰謀論めいた想像を働かせることは、ふつうの生活を営むうえでは支障をきたすけれど、この現実でない、作品だったり作品世界に想像力を働かせ、陰謀論をでっちあげることは許されている。

 

そして「作品」について考えることも決して無駄じゃない。それは確かに虚構かもしれないけれど、

人によってつくられたものである

という点では この現実の社会 と地続きなのだから。

 

しかしまぁ、ここまで書いて思うことは、自分の内部にうずまく(暴力性をおびかねない)想像力、好奇心を安全に発散する というのは、

(自己満足のための というよりは、性欲の暴走による加害を予防するための処置 という意味で)

自慰行為による射精そのものですね。

作品はまさしくポルノのように、想像力を喚起する。

そして、それについてうまく書けた(と思う)ときはじっさい、ありえないくらい気持ちいいのは、確かだ。

 

 

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「プリパラは好きぷり?」

「うん!」

「じゃあ大丈夫!できるぷり!」 

「みんなはアイドルの歌を待っているぷり!」

「世界中に向かって届くように、思いっきり歌うぷり!」

「ここではすべての女の子に、それが許されているぷり!」

TVアニメ『プリパラ』©T-ARTS/ syn Sophia/テレビ東京/プリパラ製作委員会

 

 

さて、スッキリしたことだし、寝よう。

*1:前提となっている「都市化によって失われる田舎」についての定義があやふやだ。田舎を定義づけるパラグラフを用意しておきながら、辞書的な意味で、「自然が少なく・人が多い」とだけ述べるのはナシだろう。乱立するチェーン店・情報通信や交通技術による情報・ヒト・モノのやりとりの高速化は、自然が多いみたいな、物理的な要件ではなくて、文化的な面に影響するだろうから、風習とか営み みたいなカルチャーについて着目し、文化面で田舎/都市のギャップが減っているとするべきだろう。説明が面倒になってもせめてカッコつきの「田舎」を用いるべきだ。実際、記事中で述べられる「田舎」の不明瞭さにはコメントをくださった方も当惑している......。

*2:僕は「批評」「感想」「考察」という言葉を伏せて、「それぞれがないまぜになった文章」を「あるテーマについて考えた文章」、すなわち「論考」とよんでます。使い勝手がいい言葉だけど、考えてます!って感じがしてハードルが高いのが難点。