虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

アニメ・映画批評を書きはじめるための補助輪

 

はじめに――作品批評を書くことの難しさ

 私は大学のサークルや同人活動などで、映画やアニメの批評を書いています。自分が観た作品について考えたり書くことは面白いし、人の批評を読むのも好きなのですが、批評というジャンルは不人気がなばかりか、「批判」と字面が似ているせいで、なんだか偉そうな印象で忌避されていることも確かでしょう。
 それでも大学のサークルで作品批評を募集すると、自分も書いてみたいという声もそれなりに聞くので、潜在的な書き手は案外いるのかもしれません。けれど勿体ないことに、私は彼らに対して親切なアドバイスができませんでした。2、3年ほど徒手空拳で書きながらそれなりに読める文章が書けるようになってきたものの、自分自身がどのように書いているか理解できていなかったからです。そこで批評の書き方をシステマチックに整理して、はじめての批評を後押しするためのテクニックを記載したいと思いました。
 たとえば友人や恋人、家族と映画を観にいったあとのランチやカフェで、帰りの車内で30分ばかり作品について語りあうことは難しくないでしょう。それを文章の形式に変換してやれば批評はできあがります。つまり、そこそこの文字数(3000~10000字程度)の作品批評を書けないことは、書き手の感性や学識のまえに、たんに作文技術の問題にすぎないと断言したい。

 はじめて批評を書こうとする潜在的な書き手にたいして、批評書や批評理論の本をどさどさ積んでただ「読め」というのは、自らの知識量を誇示するばかりで不親切です。批評という行為をいたずらに複雑な知的営為と見せかけるより、身近に感じてもらうほうがジャンルの裾野が広がり、最終的に批評のためになると私は確信しています。批評のコモディティ化を目指したい。

 まだ幼くて自転車に乗れなかったころ、年上の人たちがなぜ乗れるのか不思議でしかたありませんでした。けれど、一度乗れるようになってさえしまえば、いままでなぜ乗れなかったのが不思議なほど、あっさり乗れてしまうものです。批評も自転車と同じように、一度コツを掴めばとりあえず書くこと(=自転車に乗ること)はできます。どのように書けば面白くて評価される批評が書けるか(=速く漕げる)かは私にもわからないし、むしろ教えてほしいくらいですが、競輪選手でなくとも自転車の乗り方を伝えることはできるでしょう。

二項対立を定める

 批評の定義は人によってさまざまですが、ここでは作品批評について「作品と一対一で結びつく、固有な長文」と既定します。「作品と一対一で対応する」としたのは、作品に星をつける、いわゆるレビューと区別するためです。「演出がよかった」「演技が下手だった」「脚本がすき」などの評価は、特定の映画ではなくても成立します。ここでは、Amazonレビューの★や「いいね」のように数値化されざる、あるいは点数を付けたあとにきたるオリジナルの文章を「批評」と想定します。「長文」としたのは自分の思考を最も表現しやすい形式がテキストであり、そういった文章は自然と140字のツイートには収まらない長さになるからです。
 さて、そのような文章を書くうえで最初につまづきやすいポイントは、「何を書いたらいいか分からない」ことです。何を書いたらいいか分からない状態とは、「何も書けない」のとは違います。作品を観て「何も書けない」ときは、とくだん書きたいような鑑賞体験ではなかったということなので、何も書かなくてよいです。「何を書くべきか迷う」ときは、いろいろと思うことはあるけれど「どれを書いたらいいか分からない」のが実情でしょう。つまり、書きたいことが多すぎるのが問題なので、とっ散らからないように取捨選択すればいいわけで、文章の方向性を決めてしまいましょう。
 例えば「〇〇(作品名)について書く」ことから、「〇〇の時代設定について書く」「キャラAとキャラBの関係について書く」と定めれば、記述の幅を絞ることができます。その文章で論じたいコアの部分を設定できれば、書きやすいだけでなく、テーマがカッチリした読みやすい文章になります。新書のタイトルやPVを集めるブログが「○○とはなにか」といった疑問形をとるように、自ら問いをたて、それに応答すると文章もまとまるし、同じ問題意識をもつ人の目をひきやすいかもしれません。

 もう一歩踏み込んで、二項対立の提示ができるとさらによいです。これは批評の書き方を紹介している他の記事でも主張されていることです。

hazuma.hatenablog.com

 著名な批評家である東浩紀は自身の批評の書き方について、特定の作家を前期/後期に分ける手法を紹介しています。

批評の対象となるのがXという作家あるいは思想家だとしましょう。すると、そのフォーマットに則ると、つぎのような批評が書かれます。「Xには前期と後期がある。前期XはAをテーマにしている。そして後期Xは一般にはダメだと言われる。しかしじつは、後期XはAを突き詰めたがゆえに、むしろ困難Bに立ち向かっているのだ。ではそのBはなにか。ぼくたちもまたそこでXと同じ困難に直面せざるをえない」云々。ここでのポイントは、作家のなかに「困難」を見つけ、それと書き手が共振すること。そしてその「困難」を見つけるために、作家のなかに前期と後期という(名指しはなんでもいいのですが)、一種の切断線を導入することです。このふたつができれば、批評の90%は完成したと言っていい。

 引用記事を読んでいただくとわかるように、東のいう「作家」とは”ウィトゲンシュタイン、カント、マルクスフロイト”などの哲学者・思想家を想定していますが、アニメ作品に関してはどうでしょう。「アニメ批評 書き方」で検索すると上位に表示される*12つの記事でも、二項対立は鍵となります。

 

teramat.hatenablog.com

てらまっと*2「誰でも書ける! アニメ批評っぽい文章の書き方」では、「仮想敵」*3を設定してそれに応答する形で文章の目的を設定する手法を紹介しています。

(2) 仮想敵を設定しよう
 何を批評するのか決めたら、次に「仮想敵」を設定します。なんじゃそりゃと思われるかもしれませんが、これは非常に重要なポイントです。この段階で批評(っぽい文章)のクオリティの大半が決まると言っても過言ではありません。
 仮想敵というのは、要するに「自分とは異なる見解」のことです。有名な批評家や評論家の発言はもちろん、ネットで広まっている通説や、誰かのブログ記事、Twitterで見かけた投稿でもかまいません。あなたが批評しようとする対象について、すでにどういうことが語られているのかを確認し、「一般的にはこう言われている」「◯◯はこう言っている」といったかたちで参照します。論文でいうところの「先行研究」ですね。

 また、他作品との比較を通じてその作品の特徴を前景化する手法もあります。

note.com すぱんくtheはにー*4「お手軽に批評と自称する文章を量産する方法(すぱんくtheはにー編)」では、論じたい作品と同じ要素をもつ作品を取り上げる手法を紹介しています。

(2)同類項でくくれる他の作品を考える。
 次に先ほど挙げた箇条書きの要素、これと同じ要素を持つ作品を探します……探します、とは言ったけど本当は「自分が知ってる作品からその要素を捻りだす」というのが正しい。これは慣れが大きくて、何本か批評を書いた経験を積むと「あ、これはアレで括れるな」というのが考えなくてもできるように(というか勝手にやってしまうように)なります。
(略)
この「同類項の設定」と「作品選択」で批評としては5割ぐらいのウェイトを占めます。つまり「なるほどそういう切り口があるのか!」と思わせて「同じ枠にそんな作品があるんだ!」と感心させれば、その時点で勝ちです。いや勝ち負けではないんですが、そういった視点を提供できた時点で批評としての役割はある程度達成できたと言って良いでしょう

  あるいは、

そして、一番大事なこと。それが①(概念の二項対立を意識すること)です。主なストーリーは二項対立で組み立てられています。枝葉末節をあまり気にしないで、著者は対立するAの側とBの側にどういう言葉を割り振り、その両側の関係をどう説明しているのか捉えるのです。


千葉雅也『現代思想入門』P211 「付録 現代思想の読みかた」より

 これは現代思想の読書法からの引用ですが、反転させれば執筆法としても読めます。現代思想という、きわめて精緻に言葉をあつかう学問分野のテクストも、二項対立を意識して読み解ける=書き手は二項対立を意識して書いているのです。

そして、一番大事なこと。それが(言説、作品、年代などの)二項対立を意識することです。主なストーリーは二項対立で組み立てます。枝葉末節をあまり気にしないで、対立するAの側とBの側にどういう言葉を割り振り、その両側の関係を説明するか意識しましょう。

 

東浩紀: 作家の前期/後期

・てらまっと: 先行言説/自説 

・すぱんくtheはにー:作品A/作品B

 このように三者ともに作家の時間軸、言説、作品のレベルでA/Bの二項対立を用意して、そこから文章を組み立てることを推奨しています。かっこよく言えば「切断線を導入する」、くだけて言うと「何かと何かをバトらせる」のです。ただ「二項対立」と聞くと対決的なニュアンスを感じるかもしれませんが、必ずしも論争的な書き方をする必要はありません。引用した三者の二項対立は①ある作家の変化、②先行言説との差異、③作品間の共通点にフォーカスしています。対立というようりは比較くらいの意味で捉えても問題ないでしょう。

 興味深いことに、引用した三者とも二項対立をおく次元は違えど、この段階を重要視しており、私もこれに同意します。設定した二項対立で批評の質はだいたい決まる*5し、二項対立を設定できた時点でその批評は半分完成したといっても過言ではありません。0→1でアイデアを生み出すには時間がかかるし、長い時間をかけて考えても何も生み出せないこともあります。しかしコアの部分が決まってしまえば、あとは行間を埋める「作業」をこなせばいいだけです。思考から作業への移行は実際に文章を完成させるうえで肝要です。

 さて、『Do It Yourself!!』について書いた拙稿では、先行言説と違いをみせつつ、

せるふ/ぷりん → せるふ家/ぷりん家 → 潟々女子高校/湯々女子高等専門学校 

と比較対象を空間的にスケールアップし、DIY/シンギュラリティという大きな二項対立を論じました。

よって本稿の目的は以下である。

(略)

 ②「DIY」が普遍性を獲得するに至る過程を追跡する。
 時代設定を端緒とし、DIY/シンギュラリティの対立構造を分析することで、”『Do It Yourself!!』は単なる「趣味系」である”という先行言説とは異なる解釈に到達する。

 

なぜ『Do It Yourself!!』は近未来設定なのか?―シンギュラリティによる意味付けをめぐって - 虚無らがえり 序文より

 このように二項対立を設定すれば、作品について書きたいことが溢れかえってしまう状態から、「作品A/作品B」について、作中における「A/B」について書くというシンプルな骨組みができあがります。「この作品は~~だ」「これは面白い」とただ述べるよりは、「一般にこの作品は~~と言われるが私は~~と思う」、「この作品Aは作品Bと比較して~~で面白い」と書くと対立項との緊張関係が生まれ、引き締まった文章に仕上がります。(この記事も「批評には難しいイメージがあるが/実は形式的に書ける」という二項対立をふまえて書いています。)

 とはいえ、「私はこのシーンが良かった!と言いたいだけで、何かとの二項対立を論じたいわけじゃない!」ということもあるでしょう。というか、それがほとんどなのでは。私自身も二項対立ではなく印象に残ったキャラクターやシーンについて書きたいことが多々あります。そういうときは、そのキャラクターやシーンが輝く二項対立をあとで設定しています。自分が肩入れしているキャラクターやシーンのために、二項対立という紙面の舞台をお膳立てしてあげるのです。

 『映画大好きポンポさん』について論じた拙稿では、私はアランというキャラクターについて書きたいと思いたちました。アランはポンポさんやジーンなどの映画に直接関わるメインキャラとは違い、ただの銀行員で、映画をつくるための出資をサポートする役どころです。ちょろっと調べてみると、映画の「制作」と「製作」は区別されていて、撮影など映画を直接つくるのが「制作」、プロモーションや資金管理などの仕事は「製作」と呼び分けているらしい。「制作/製作」という二項対立が使えそうです。さらにアランは原作には登場しないオリキャラだから、「原作/劇場版」、さらには「アニメ映画/実写映画」の違いを示すといいかもしれない。
 という具合に連想をはたらかせて、「ポンポさんの映画化とは言うけれど、この作品はアニメーションだから素直に<映画化>とみなしてよいのか?」という問題提起からはじめて、アランを描いたことで映画「制作」だけじゃなくて、映画「製作」も描けており、「製作」はアニメも実写も共通するため、<映画化>をはたしたといえる、アランありがとう!と締めることができました。

けれどここで重要なのは、そのリアリティではなく、映画制作のその先の、映画製作のプロセスをもうひとつのピークに据えたことにある。映画というメディアそのものではなく、その製作過程の特異性とは、作品をつくるまでに多くの人が関わる点にあり、ジーンのようなクリエイター気質な人間だけでなく、アランのようなサラリーマンの協力があってはじめて映画は完成するのだ。制作から製作へ視点を広げることによって、むしろ映画の実体を描くことに成功しているのではないだろうか。つまり、劇場版でアランというオリジナルキャラクターを動員して映画製作の過程を描くことによって、この映画化は果たされたのだ。

 

「ポンポさんの映画化――アランの役割」(『映画大好きポンポさんトリビュート』収録*6)より

 特定の一部分から遡行して文章全体の方向性を決めるという変則的な手法ですが、書きたいことを書きつつ体裁を整える「いいとこ取り」ができるので紹介しました。

 実際的なTipsを付け加えておくと、二項対立の骨組みができたらすぐに本文を書くのではなく、スマホのメモ帳やNotion、ツイッタ―など、好きなエディタを使ってアイデアをメモしておくことをおすすめします。私は問題提起と、メインの二項対立が決まったら見出しだけつくり、アイデアが浮かんだらどの見出しに入れるか分類しつつ箇条書きでメモをとっています。全ての見出しに3~5行程度のアイデアが埋まったら、文章のメモを膨らませながら書けばいいだけです。キーボードの前で何時間も頭をひねるより、日常のなかで暇なときに少しずつ断片を集めて、あとで一気に書き上げるほうが簡単です。

イデアは相対的には練り上げられた形でメモしておく。ある程度は文章になっている思考の流れのようなものだ。ある時点までは自分に言い聞かせる。「私は書いているわけじゃない アイデアをメモしているだけだ」

そしてある時点に達すると自分にこう言い聞かせる「もう素材はそろっている あとは編集するだけだ」、と。

www.youtube.com

「椅子に座り続けることが無理な人のための執筆論を語るジジェク(日本語字幕)」より

 さて、引用に頼ったこともあり、ここまででもうかなりの文字数になりましたが、要所は抑えることができたと思います。当初は二項対立については「小技」にて取り上げるつもりでしたが、よくよく考えると「大技」というか、批評ないし作文のクリティカルな部分はこれだと気づかされたので、冒頭に持ってきました。ここまでの記述で批評を書きはじめる「補助輪」としては十分だと自負します。残りの節は私自身の理解のためにまとめたものですが、気になった部分があれば読んでいただけると幸いです。


批評の要素ーー感想・分析・敷衍

批評の要素はいくつか分解できますが、佐々木敦『批評とはなにか――批評家養成ギブス』では、感想、分析、敷衍という分類が紹介されています。

感想:主観的判断

 批評はフォーマルな文体になりがちなので、分析に力点が置かれがちです。感想は分析に劣るように思われるかもしれませんが、批評の歴史は印象批評からはじまっていて、実に由緒正しい批評の作法でもあります。ただ、主観的な判断に依拠してしまうがゆえに、説得力を持たせるには文章の(修辞の)巧さが問われます。印象批評が主流だった当時は教養のある知的エリートが書いていたようですし、分析より感想のほうがかえって難しい側面もあるでしょう。ともあれ、作品の物語と自身の体験を照らしあわせれば(二項対立)、あなたにしか書けない印象批評となります。「いいね」と「★」という統計的に処理できるように数値化された「評価」が溢れかえる現代において、自分自身の言葉で語ることの価値はますます重要になるでしょう。エッセイを書き慣れている人は向いてるかもしれません。

 

分析:客観的判断

 批評にかっちりとした印象を与えるのが客観的な判断で、批評のメインはここにあります。分析には客観性が求められるがゆえに、アカデミックな研究の対象となっています。より尤もらしい分析がしたくなったら「批評理論」を学びましょう。
 ただ注意しておきたいのは、分析の客観性とは「客観的な事実を述べること」ではなく「客観的に妥当な推論によって作品を読み解くこと」である点です。そもそも作品の解釈には幅があり、同じ作品について多様な読解が、正反対の見方が両立でき、それが許されています。分析の誤謬とは、分析結果を誤ることではなく、その分析自体の枠組みのなかで矛盾や誤りをしてしまうことであり、たとえ作者が否定したとしても、その導出過程の価値はまったく毀損されない、と私は考えます。分析については「分析の対象」「分析の枠組み」「批評理論」の節でも深堀りします。

敷衍:(社会的な)価値への接続

 「感想」と「分析」が独立しているのに対し、「敷衍」は「分析→敷衍」などの形で、文章の最後に接続して書かれます。デジタル大辞苑によると「敷衍」とは

意味・趣旨をおし広げて説明すること。例などをあげて、くわしく説明すること。

敷衍(フエン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

とありますが、批評においては作品について論じるだけで終わらず、一般化して社会に向けて言葉を放つことが多いです。ようは「作品を観て得られた教訓」です。小学校の読書感想文や道徳の授業で、「登場人物Aは~~ですごいと思った。わたしも今度から~~していきたいです。」といった作文をしたことがあるでしょうか。これです。
 作品の価値を面白いだけで済まさずに社会的な価値付けを担う要素でもあります。
が、社会→作品方向の社会反映論はまだしも、作品→社会方向の影響力はそこまで大きくないだろうし、作品は社会的価値規範を増強するプロパガンダじゃないし、社会をよりよくするのは政治が頑張れと思うし、そもそも作品には興味があるが社会には興味ないし……もうお気づきかもしれませんが、私はこの「敷衍」が大の苦手です。
 けれど、この部分が欠けた文章は尻切れトンボのような印象になってしまうので、文章の体裁を整えるつもりで捻出します。困ったら、「~~ということを考えさせられたよい作品でした」とか「~~という見方をするとさらに面白いのでは」みたいに作品を肯定すればよいと思います(よいということにしてください)。
 もともと自分のなかで問題意識を持っている人は分析を足がかりに、広く社会に問うことができるので敷衍をメインに据えると書きやすいかもしれません。作品から社会へ、スケールの大きい議論ができるのも魅力です。
 私は共著という形で批評に参加させていただいたことがありますが、分析に終止していた僕の原稿を、共著者*7の敷衍部分とつなげて、『明日ちゃんのセーラー服』という個別作品のから「萌え」をめぐる問題へと発展させることができました。

この章ではアニメ『明日ちゃんのセーラー服』の作画について記述する。アニメ批評の切り口は脚本・演出・演技・音楽などさまざまだが、本稿ではこの作品において特殊な表現である作画に着目する。そしてこの作品の作画に関する記述が、その視覚性を介して「萌え」をめぐる議論へ展開されることを期待する。ビジュアル偏重の「萌え」が視ることの所有性によって成り立つ一方で、そのまなざしが到達できない階層がある、という議論だ。しかし注意したいのは、個別的・具体的な作品の読解が「萌え」という一般的な概念についての単なる説明の道具として従属しないか、という点である。そのような普遍的・抽象的な概念を前提とした結論ありきの演繹的適合ではなく、あくまでも一つの作品から「萌え」概念を導出する手続きをここでは志向したい。

 

「『明日ちゃんのセーラー服』論 超作画、そして萌えについて」(『蠟梅学園中等部一年 夏休みの宿題』に収録)筆者担当パートの冒頭より

 もちろんこれは特殊な事例で、困ったら共著で書けといいたいのではなく、人によって敷衍に重心を置くかどうかはそれぞれということです。私の関心から本稿は「分析」に偏っていますが、「敷衍」を重視する書き方もあるし、商業的な批評では敷衍が重要という印象をうけます。

分析の対象ーー物語・画面・受容

 作品を分析するとはいっても、どこを見ればよいのでしょうか。
 ここではアニメあるいは映画=映像作品についてメインとなる視点を取り上げます。

物語

 意識せずに作品分析を書くと、物語について論じることになるでしょう。「この作品って要するに○○だよね」と要約することは分析の基本であり、あらすじを記述すること自体が物語の分析です(あらすじを書くことについては「小技」の項にて後述します)。物語を読み解くうえで留意したいは、作品全体の流れを追うのではなく(それはファスト映画の仕事です)、ある特定の人物に着目したり、提示した二項対立に沿って、物語を再構築することです。

 作品を鑑賞してまず思い浮かぶ問いは「これは何の話か」ではないでしょうか。そもそも文章=テキストデータじたい、脚本=物語と相性がよいので、意識せずとも物語についての書くことになります。むしろ注意したいのは、物語以外にも目を向けることです。

画面と音

 物語の分析は小説でもできますが、映像作品のメディアとしての特異性は画面(視覚)と音(聴覚)にあります。批評は文字だけで完結する決まりはありません。紙面ならば画像を、WEB媒体なら動画や音声を使ってもよいのです。私たちは言葉(ロゴス)によって作品を語りがちだけど、言葉に全て還元してしまわないで、テキストエディタから目を離して、表層のレベルにとどまって、「作品を観る」という基本に立ちかえることも必要ではないでしょうか。

 

図1 TVアニメ『明日ちゃんのセーラー服』ノンクレジットOPアニメーションより抜粋 ©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会 

このシーンの構図はとても奇妙だ(図1)。画面外から伸びるブレザー服の腕。それを掴む彼女も含め、二人の配置は画面の右側に偏っている。カメラレンズの加工は人物に焦点があてられ、背景はピンボケしている。焦点はキャラクターに絞られるが、二人は中央に配置されず、もう一人の生徒が不自然に見切れている。この作為的な構図が写せなかったもの。それはブレザー服の顔であり、キャラクターの特定要素である。その”隠蔽によって描かれる”のは固有名なき「彼女たち」、ブレザー服の一般的な他者性である。


「『明日ちゃんの非-ブレザー服』―復権する「彼女たち」の固有名」(『蠟梅学園中等部一年 夏休みの宿題』収録)より

 

映像の構成:「ショット」「カット」「シーン」「シークエンス」
カメラの動き:「パン」「チルト」「ズーム」
被写体の撮り方:「バストショット」「ロングショット」「アオリ」「メダカ」「俯瞰」
編集:「フェードイン」「フェードアウト」「カットイン」
などの撮影用語を知っておくと画面について書く上で助けになります。詳しくは「ショット分析」などで調べましょう。

 

 また、映像作品における<音>も重要な情報です。ぱっと思いついた作品では『竜とそばかすの姫』『ONE PIECE FILM RED』『ぼっちざろっく』など、音楽がテーマの作品では音について論じる必然性があります。音楽を論じるうえでも 「BPM」「曲調」「歌詞」などの用語がありますが、筆者は音楽批評には疎いので詳しくは紹介できません。

 ともあれ、物語以前の情報も積極的に分析することで、分析に奥行きが生まれることでしょう。

山田リョウ「音を聴け 音を」
©はまじあき, 芳文社, CloverWorks
下記動画のサムネイルから引用
音を聴け音を - ニコニコ動画
受容

 物語・画面・音は映像作品を構成の要素でしたが、作品がどのように受容されているか、という外在的な分析もあります。興行収入やレビューの平均点などの定量データ、口コミの傾向などの定性データを参照して作品がどのように広まっているか調べることができます。

 また、『けいおん!』~『ゆるキャン△』~『ぼっちざろっく』のように、アニメの影響で新しい趣味をはじめるなど、視聴者は作品を観るだけにとどまらず、さらなる趣味活動につながるような作品も多くなっています。あるいはロケ地を観光する「聖地巡礼」も分析の対象となるでしょう。つきつめると社会学的な、文化批評の範疇になってきますが、作品批評を書く上でも、一般的な受容(口コミ)を調べておくと自説との比較対象にできるので、Twitterやブログの感想や商業記事に目を通すと役立ちます。

(前略)
 そういった肯定的な作品受容の一方で、以下のような反応も見受けられる。

――本作は美少女キャラに(中年男性的な)趣味をやらせるタイプのいわゆる「趣味系」作品であり、『ゆるキャン△』『スローループ』『やくならマグカップも』などの先行作品と同様に、キャンプ、釣り、陶芸、そしてDIYなどの趣味を可愛らしいキャラクターで包装(パッケージ)したコンテンツにすぎない。

なぜ『Do It Yourself!!』は近未来設定なのか?―シンギュラリティによる意味付けをめぐって - 虚無らがえり 冒頭より

分析の枠組みーー作家論・テクスト論・社会反映論

 ここでは批評理論のうち、作家論・テクスト論・社会反映論を取り上げます。作品の分析にはいくつかの枠組み(私は流派や主義イズムと捉えています)がいくつかあります。批評理論は現象学マルクス主義精神分析構造主義ポスト構造主義、新歴史主義、カルチュラル、スタディーズ、ジェンダーフェミニズムクィア理論、ポストコロニアリズムなど、人文諸科学と共に展開されていますが、ここでは理論史ではなく、実践に活用しやすい批評の範囲を規定する3つの枠組みを紹介します。

作家論

 作家の性質が作品に反映されていることを前提とし、作家の伝記的エピソードなどを補助としてテクスト(作品)を論じる、あるいは複数のテクストを比較しながら作家の特性=作家性を分析します。上述した東浩紀の「前期/後期モデル」がまさにそうですが、伝統的な手法です。国語の授業やテストで出題される「作者の考えを書きなさい」も作家論的発想であり、一般に浸透している考え方ではないでしょうか。
 アニメ監督なら宮崎駿庵野秀明細田守新海誠などのヒットメーカーだと書きやすいでしょう。作品が好きというよりは監督が好き、という人は作家論を軸に据えてみては。

テクスト論

 「テクスト」とは文章を意味するが、小説なら文章を、映画なら映像を、作品そのものを意味します。ようは「作品」と同じ意味なのですが、「作品論」とだけ書くと作品=テクストの外部の作家まで内包されるようにも読めるため、訳さずに「テクスト」としています。
 ロランバルトが「作者の死」を宣言したように、一度書かれたテクストは「作者の意図」の支配からのがれて自律的に振る舞う以上、多様な解釈が許されており、むしろ「作者の意図」に押しとどめるべきではなく……云々。簡単にいうと、「作者の人そんなこと考えないと思うよ」という指摘に対して「それになんの問題があるのか?」と返す流派です。

©椿いづみ, スクエアエニックス
千代ちゃんは作家論者。このコマだけ切り抜かれて独り歩きしていますが、
脚本の人(野崎くん)は”そこまで考えていた”というオチが続きます。


 私自身はテクスト論の立場をとりますが、それは小説や漫画と違って大規模な集団作業で作られる映画やアニメというテクストが、監督によって完全に管理されているとは思いにくい(作家性がフルに反映されていることを前提としがたい)という妥当性の観点だけでなく、誤謬を回避しやすいという単に実用的なメリットがあるためです。
 作中のあるシーンを位置づけるとき、逡巡なく「作者の意図」と主張することにはリスクが伴います。私たちはその作品に携わったわけではないし、監督にインタビューできたわけでもありません。裏取りのできない「作者の意図」を「代弁」することは、虚偽の吹聴となってしまうかもしれません。(逆に、作家論ではインタビューなどに収録された作家の証言は強力な論拠になります)
 「~~として描かれる」「~~のように映る」といった言い回しでこの手の問題は回避できますし、作者に支配されない「深読み」によって作者の意図を飛び越える批評に価値があるのではないでしょうか。「作者の死」「公式が勝手に言ってるだけ」などと聞くとラディカルに思えるかもしれませんが、誤謬を避けて多様な解釈を認める(自分の分析が絶対としない)という謙虚な側面もあるのです。*8

社会反映論

 作品にはその時代の社会が反映されており、作品をひも解くことで社会を論じることができる、という流派です。歌は世につれ世は歌につれ。当時流行した作品を介して「時代の気分」の分析を試みます。セカイ系→日常系→異世界系といった主流ジャンルの推移を分析したり、とても広い視点で作品を位置づけることもあります。歴史的にもっとも大きな切断線は「第二次世界大戦(とその敗戦)」となるでしょう。現代では「震災」や「コロナ禍」など、社会的にインパクトのある出来事の前後に切断線を引くと、社会の変化をうまく捉えられるかもしれません。東日本大震災と『まどまぎ』、震災と『シンゴジラ』など盛んに論じられてきた印象です。

 社会反映論は前提条件(社会の潮流が作品に影響する)に隙があります。作品は自身を内包する社会の影響を受けざるをえないが、はたしてどの程度つよく影響されるのか。反骨的な作家が社会の逆を向いたり、社会よりも個人的なこだわりが強く反映されているのではないか。

slides.com

 松永伸司の講義スライド「社会反映論の落とし穴」(京都大学での講義資料?)では、社会反映論の脆弱性がきつめに指摘されています。ただ、これは厳密な論証を重んじるアカデミックな現場であることを留意されたい。

 テクスト論は誤謬が起きにくいが、テクストについてしか論じないのでスケールは小さくなってしまう。社会反映論は正当性は低いが、社会という広大なスケールを論じることができる。つまり「尤もらしさ」と「話のスケール」のトレードオフだと私は諒解しています。
 そりゃ作品をもってして日本社会とかデカいことを語るなら、無理が生じるにきまってますよね。しかし批評とは感想と研究の汽水域に位置しており、厳密さだけを求めるのではありません。論理の飛躍は批評の華。この懐の広さが批評の魅力(であると同時に厄介なところ)だと私は思うのです。

 

 電子回路の仕組みが分からなくてもスマホを使えるように、批評理論を知らずとも批評は書けますが、自身の批評の方法論的反省は最低限必要ですし、他の批評を読むときに「これは社会反映論か」「この書き方はクィア理論っぽいな」と理論の枠組みがわかると読みやすく、自身の執筆に活かしやすいです。本稿の説明は理論をどう実践するか、という視点で書かれたものであり、テクスト論はポストモダンと繋がっていたりとそれぞれ理論的な背景があります。批評理論史をまとめた本や、紹介できなかったも理論も含めて、どれも大抵は日本語で書かれた入門書や教科書がそろっているので図書館などで借りてみてはいかがでしょうか。

小技

 ここでは批評を書きはじめた方から質問されたこと、独力で書くときに知りたかったテクニックをまとめます。

あらすじは自分で書く

 未見の読者を想定して、作品のあらすじを書くことが多いと思うが、公式ホームページや「Wikipedia」や「映画.com」の内容をコピペしないほうがいいです。なにもコピペが悪徳なのだと言いたいわけではなく、その方が書きやすいからです。「分析の対象」の節で物語の分析について述べたように、「作品がどんな話だったか」というのは大事な分析成果です。公のあらすじは、だいたいの大筋をさらった要約であり、自分の見立てと一致することは少ない。むしろ、公式のあらすじ/自分から見たあらすじの違いこそが論じるべきポイントです。

 あらすじを引いてから物語を分析するのは二度手間なので、あらすじを書くと同時に、物語の分析に入ってしまいましょう。大胆に物語を再構成して、全く別作品のように紹介してもかまいません。物語のほかに画面・音など分析したいことがあれば、常識的なあらすじにしておき、物語の分析がメインなら公式の物語のオルタナティブを再構成して独自性をアピールするなど、使い分けるとよいでしょう。

 文体の選択

 文体、とくに「です・ます(敬体)」と「だ・である(常体)」のどちらで書くか、という質問もよく聞かれます。これはマジでどっちでもいいのですが、感想よりの柔らかい文章は「です・ます」、分析よりの固い文章は「だ・である」とすると丸い。私は書きはじめたときは「です・ます」でしたが、今は「だ・である」を愛用しています。ふてぶてしくなったのもあるかもしれませんが、脳内言語は常体なので、それを敬体に変換するプロセスで生じるラグをきらってのことです。ではなぜこの文章を敬体で書いているかというと、「教える」という構造からして偉そうになってしまうので、文体でバランスをとろうと画策しているからです。ちなみに全文を常体で書いたうえで、いちから敬体に書き直しています。
 また、書きはじめのころの文章には「私は~~と思いました。」という表現が多くなりがちです。謙虚な姿勢は大切ですが、あまりにも多いと自身がなさげに見えるし、文体が単調になってしまうので、断言の表現も取り入れるべきでしょう。そもそも筆者がそう書いている時点で「筆者は~~と思っている」ことは自明なので、これは冗長な表現です。感想の記述なら自分が特に強く思っている部分の強調に、分析の記述なら事実や論証と意見の部分の区別に使うと、その表現の妥当性が生じます。

 序文の書き方

 私も序文は苦手なのですが、だいたい3パターンの書き方があるようです。

・作品の概要からはじめる

 掲載媒体によりますが、未見の読者を想定して公開日や製作会社、監督などの書誌的な情報から記すとやりやすいでしょう。

 2022秋期放送のオリジナル・TVアニメーション『Do It Yourself!!』は、その独特な作風から(一部の層に)人気を博した。インナーカラーのような攻めた色彩設計に、どこかあたたかい筆致。マイペースな結愛せるふと、彼女をよく理解してくれる周囲の人々の織り成す物語は、現代の生活で摩耗する私たちに癒しをもたらした。あるいは、せるふと幼馴染”ぷりん”の関係が回復するまでの物語として楽しむこともできるだろう。

なぜ『Do It Yourself!!』は近未来設定なのか?―シンギュラリティによる意味付けをめぐって - 虚無らがえり 書き出しより

 

・作品外の情報からはじめる

 共有しておきたい前提知識があれば序文に入れてしまうという手もあります。なんとなくこなれた印象を与えられますが、本文に挿入する必然性があるか精査しましょう。エピグラフからはじめるのもお洒落。

 チリ共和国の首都サンティアゴから南に三四〇キロメートル。鬱蒼とした森の中には、ドイツ系移民たちの暮らす広大な異民族コミュニティがあった。「コロニア・ディグニダ( Colonia Dignidad)」とよばれるその地には、いかにもドイツらしい勤勉さで開墾された東京ドーム約二八〇〇個分もの敷地が広がり、農地に学校と病院や教会、そして武器の地下工場が建てられた。

「コロニアの再生産として観る『オオカミの家』」(『カカリマカ・スマリカ』収録*9)書き出しより

 

・モノローグからはじめる

 私は書いたことがない、というか書けませんが、関西圏の学生批評では個人的なエピソードから始まる文章をみかけます。エッセイ寄りの文体だったら作品との出会いや、映画館までの道のりなんかを書くとエモいのでは。

 

 文章の締め方

 「批評の要素」で先述のとおり、そこまでの記述を敷衍させて、それっぽいことを書けばよいでしょう。文章が長い(感覚的には5000字以上)場合は、ここまでの論点を要約しておくと親切です。私はカッチリとした作品分析を書いてきたあとで、ここらで羽を広げて情緒的な文体で書きます。序文のモノローグが書けないと記した理由がこれで、エモは最後にとっておきたいのです。

 私たちの場所、キャラクターも奇跡も存在しない水槽の外の方へ作品は近づく。くくるたちと同様に、ここ(現実)もまた肯定し得る場所と、私たちに気づかせるようだ。「与えられる場所で励むこと」それは素朴な教訓にすぎないかもしれないが、作品が見せる「鬱展開」とその回復の体験によって、それは単なる言説以上の強度を持った。あるいはそれが、アニメーションにおける奇跡の作法なのかもしれない。ついにそれは果たされる。水槽を海水で満たし、死体に生命を、言説に物語を注ぐことによって。

「鬱と希――『白い砂のアクアトープ』における「鬱展開」について」(『鬱と僕と…』収録) 結言より

 どうしても書けない場合は主題歌の歌詞を引用して強引に終らすという裏技もあります(小声)

 

書くつもりで観る

 人と一緒に映画をみて意見を交わすときに「よくそんなにしゃべれるね(書けるね)」と言われることがありますが、特別なセンスが備わっているわけではないと思います。私は書く(話す)つもりで映画を見ているから、アウトプットの瞬発力が高い(ように見える)だけです。アウトプットを意識せず映画を見ている人と比べて、いわばフライングをしているのだから当たり前ですよね。新作映画などは経済的な事情からリピートするのが難しいので、この一回で書けるようにと真剣に見ます。
 しかし、見てからすぐ書くのではなく間隔をあけて案外忘れてしまったほうがいいのかもしれません。時がたっても印象に残っている断片こそ、自分にとって重要な問題となるでしょうから。

 

引用のしかた

 適切な引用は文章に客観性を持たせることができ、連続する言説にのっかることができます。人文系の、とくに文学部の大学教育を受けた書き手は豊富な文献を巧みに引用していて流石だなと思う反面、文章を書くために本を何冊を読むのはしんどいな、とも思ってしまいます。ただ、(どこで読んだのか失念してしまいましたが)引用を「召喚」と表現する文章を読んで膝を打ちました。引用とは面倒な作業ではなく、先人の知恵を借りる、困難を簡単にするためのお助けアイテムなのです。

二つの家は、時代性とともにその温度も異なるようだ。ハイテクなロボットが管理する無機質でクールなスマートハウスと、動物たちと暮らすあたたい日本家屋。今日ではもはや珍しいせるふ家はノスタルジーすら呼び起こす。新しい技術の登場によって、古いものが相対化され「あたたかく」見える現象は、メディアの変遷でも見受けられる。YoutubeなどのインターネットメディアとTV、TVとラジオ、ラジオと新聞・書籍......これらのニューメディアの登場と、オールドメディアの再-評価の反復である(これは根源としての文字エクリチュール話し言葉パロールの対立まで遡及できるだろう)。技術の進歩(インターネットと個人用端末の普及、映像の撮影・放映、無線通信、活版印刷)によって新しいメディアが登場すると、それを歓迎するテクノオプティミズムと、懐疑的なオールドメディアノスタルジアの対立が発生する。(参考:石岡良治『視覚文化「超」講義』(2014)フィルムアート社 P218~)革新派/保守派の政治的対立にも見えるこの図式は、実際には技術の進歩という線形的な時間に伴って展開される、必然的な時代性の衝突、時代的変化への葛藤なのだ。

 

なぜ『Do It Yourself!!』は近未来設定なのか?―シンギュラリティによる意味付けをめぐって - 虚無らがえり 本文より


 ここではメディア論からニューメディア/オールドメディアの図式を引用していますが、たしか執筆時点よりだいぶ前に読んだ本の内容をなんとなく覚えていて、図書館で借り直して確認しつつ引きました。本文を書くにあたって文献にあたるのが理想なのでしょうが、そうはいっても義務的な読書はつらいので、自分の興味に沿って本を読んでおいて、知識のストックから取り出すと楽です。それに引用元は本だけでなくネットの記事でもいいし、インタビューなども使えます。別の作品を引き合いに出すのもある種の引用技術でしょう。本稿では、三人の書き手の方法論を呼び出して類似点をまとめたうえで、しれっと自分の手法も並置していますが、これが引用の力です。
 ただし見かけばかりに気を寄せて自分でも理解していない格式高い書籍を引用しないように注意したいところです。それは単に誠実さにかけるし、強力すぎるテクストを引用すると本文が食われて・・・・しまいます。自分がしっかり咀嚼した、慣れ親しんだ文章を大事に呼び出しましょう。なるほど「召喚」とは言い得て妙です。

公開手段

 さて、こうして書いた文章をどこで公開すればいいのでしょうか。
――「やっぱり気恥ずかしいし、やめとく」だと?

©芥見下々, 集英社

 私は批評の最良の読者とは自分自身であると思っています。批評は何らかの対象について書かれた文章ではあるけれど、その文章には当時の自分の視点が確かに焼き付いている。1年くらい経って自分の文章を読み返してみると、我ながら一生懸命考えてるな、感心することがあります。別に誰かに公開しなくたってよいのです。それでもせっかく書いたんだから、誰かに読んでもらいたい!と思ったら、以下の公開手段があります。

 

・知り合いに読んでもらう
 ネットに公開するのはちょっと...って人向け。お互いに作品評を交換して読み合っても楽しいですね。大学や出版サークルに入るのも手でしょう。

 

・ブログに書く
 これが一番手っ取り早いです。最近だと「note」に書く人が多い印象。私はこの「はてなブログ」を愛用していますが、脚注機能がありHTML編集ができる点、「いいね」が可視化されにくいところが気に入っています。(「note」のSNSチックな運用が肌に合わないのもあります。)

 

・同人誌に寄稿する

 紙媒体で書かれた文章はPV数でみればブログよりも(かなり)少ないです。だから劣るといいたいのではなく、にもかかわらず・・・・・・・、物理的な冊子を作ってしまう以上、そこには固有の魅力があるはずです。自分の書いた文章を(お金を払ってまで)読んでくれる人がいるという実感は、なかなか味わえるものではありません。

 「文学フリマ」(コミケの文学版みたいな同人誌即売会)では「評論・研究」ジャンルで同人誌を頒布しているサークルがたくさんあります。中には掲載原稿を募集しているサークルもあるので、Twitterなどでコンタクトをとると載せてもらえるかもしれません。私は自身の所属サークルのほか、『明日ちゃんのセーラー服』『映画大好きポンポさん』の同人誌に寄稿させていただきました(ただ、これらの雑誌は批評誌というよりは「コミケ」的な、同好会の側面がつよいです)。自分の好きな作品を扱った同人誌が希望募集していればラッキーです。私は寄稿しませんでしたが、文学フリマ東京37では評論誌『ブラインド』*10が『まちかど魔族』『リコリス・リコイル』の批評を募集していました。シャフト専門にはなりますが、批評誌『もにも~ど』もときどき寄稿募集していたと思います。

moni-mode.hatenablog.com

また、WEB媒体では「週末批評」もクオリティが高く、校正が丁寧なのでチャレンジしてみてもいいかもしれません。

worldend-critic.com

 

 この記事を書くうちに思ったのですが「試作派」などと称して、批評を書きはじめた人向けの掲載媒体があってもいいかもしれません。完成されたテクストを掲載するのではなく、批評の書き手を増やし、批評の書き方を探求していくような、敷居の低い発表の場を確保することは長い目で見て重要でしょうから。(余力があれば)来春の文学フリマ東京にむけて何らかの活動をしますので、よろしくお願いします。

 

(2023-12-15更新)

 ということで、同人をつくりました。

note.com


参考資料

 そもそも本稿のターゲットは批評に興味あるけど、書き方がわからない、本を読むのはちょっとハードルが高い、という想定をしているし、だからなるべく簡潔に、「二項対立の設定」だけ読めばとりあえずなんとかなるように書いたつもりです。
ただ、自分一人の考えは行き詰ることが多い。麻雀の点計算と同じで、もっと面白く、より正しく、より自在に書きたいと思ったら文献にあたりましょう。筋トレと同じで地道な積み重ねのうちに気づかぬうちに成長していることがあります。一緒に勉強していきましょう。

 商業同人問わず批評そのものも読んだ方がいいのでしょうが、私たちは漫画をたくさん読んでるけど描けるわけではないですよね。まずは「批評の書き方」などで調べることをおすすめします。

※書影があった方がわかりやすいと思いAmazonのリンクを貼っていますが、筆者には一銭も入りませんのでご安心(?)を。

批評の書き方

・千葉 雅也, 山内 朋樹, 読書猿, 瀬下 翔太 『ライティングの哲学』(2021)星海社

 批評を書く以前に、長文を書くことへの戸惑いと苦悩があります。この本では書くことの理念的な話から愛用しているテキストエディタまで「書くこと」について記されています。本文も座談会形式で書かれているので読みやすいです。

 

佐々木敦『批評とは何か?ーー批評家養成ギブス』(2008)メディア総合研究所

 

 感想--分析--敷衍の三分類はこちらを参考にしました。著者は映画と音楽批評を専門にしているので、音楽批評についても書いてます。ただ講義録の書き起こしということもあり、雑談的な文章で紙の本として読むにはどうかな、と思いました。

 

・広野由美子『批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 』(2005)中央公論新社

 


 一般むけの批評理論の本ならまずこれ、という印象です。本文で紹介した理論に即して『フランケンシュタイン』を批評してみせるという画期的なつくりです。

 

批評理論

筒井康隆文学部唯野教授』(2001)岩波書店

 こちらは小説ですが、印象批評からポスト構造主義までの流れを追うことができます。筒井の軽妙な文体で描かれる文学部教授たちの日常も面白く、読み物としておすすめです。
 
・森本奈理『文学批評理論「入門」 : 精神分析理論からポストコロニアリズムまで』(2015)文教大学文学部紀要28, 39-54

cir.nii.ac.jp

 文教大の英文科では『文学部唯野教授』をテキストに使っており、ポスト構造主義以降の文学批評理論についてまとめた研究ノートが公開されています。

 

・土田知則,神郡悦子,伊藤直哉『現代文学理論―テクスト・読み・世界(ワードマップ)』(1999)新曜社 

 

 文学理論の網羅的な解説書。キーワード単位でまとまってるので、ちょこちょこ読みやすいです。

 

・石原陽一郎『映画批評のリテラシー―必読本の読み方/批評の書き方』(2001)フィルムアート社

 

 人物単位で批評理論を紹介した本。ブックガイドの記述が豊富で独学が捗ります。”ジジェクの『ヒッチコックによるラカン』は断じて『ラカンによるヒッチコック』ではないのだ”という一節が好きです。


アニメ研究

小山昌宏,須川亜紀子『アニメ研究入門―アニメを究める9つのツボ』(2014)現代書館

 

 こちらはアニメ研究の論文集で、新海誠作品の背景論~情報システムとしてのアニメ論まで幅広い分析手法があることが分かります。『化物語』のショット分析はたいへん参考になりました。

 

加藤幹郎(編)『アニメーションの映画学』(2007)臨川書房

 これもアニメ研究の論文集。アニメ研究の古典であるエイゼンシュテインの「原形質」論の解説が載っています。アニメーションの動きを定量解析する計量アニメーション学なる手法なんかも紹介されてます。

 

 むすびに――批評を書きおえるために

 本稿では作品批評を書く一助となるような情報をまとめてみましたが、それを書きおえる・・・・・ために最も大切なことは、自らが生成するテクストを信じ切れるかどうかにかかっているのではないでしょうか。多くのプロフェッショナルが関わり、多額の予算を注いで作られた作品について、たったひとりで切り込んでいくことは心細いでしょう。それを乗り越えるためには、自身の主張を精査しながら積み上げる内在的な正当性や、書き手である自分自身についての総合的な自信が不可欠です。

 しかし、それでも、批評という素朴で孤独な営みは、圧倒的な無力さの前に投げ出されるという不安を消せないだろう。そうした不安と表裏一体のものとして、たった一人で、徒手空拳で、素手で、対象に向き合っていく、という面白さがあり続けるだろう。既存の価値判断に頼れない場所で、自分の判断に賭けて固有の批評的な価値を提示する、むしろそれを創造する、という孤独な喜びは変わらずあるだろう。

 

book.asahi.com

 あるいは、いま書いている文章そのものの価値に不安があるかもしれません。けれどあえてメタに考えないことは、批評のみならず創作全般についても大切でしょう。メタ視点に立って「そもそもこんな文章を書く意味は」「原稿のクオリティが」と構えてみても、賢そうに装えるだけで終わりも始まりもやっては来ない。オブジェクトのレベルにとどまって、孤独な没入と葛藤の果てに、私たちは作品と決着をつける・・・・・・ことができるのです。こうして書かれた、あなたのたったひとつの批評が、だれかの心に止まるかもしれない。そして、作品たちはみな、あなたの言葉を待ち望んでいる。◇

*1:2023年11月1日現在のgoogle検索の結果では、

誰でも書ける! アニメ批評っぽい文章の書き方 - てらまっとのアニメ批評ブログ

【プロ直伝】“アニメレビュー”ってどう書けばいいの? 藤津亮太が伝授する、たった1つの心得と3つの技 | アニメ!アニメ!

お手軽に批評と自称する文章を量産する方法(すぱんくtheはにー編)|すぱんくtheはにー

の順に表示されています。

*2:大学院生時代に『ツインテールの天使』という革新的な『けいおん!』評を書かれた方で、現在もTwitter上のスペースで新作アニメについて語る「低志会」、丁寧な校正のもとハイクオリティな批評をジャンルを問わず公開する「週末批評」というWEBサイトを運営されています。Twitter: @teramat

てらまっと𝕏 (@teramat) / X

*3:この言い回しは物騒だったとご本人が後にふりかえっていましたが、好戦的なニュアンスはなく「先行言説」くらいの意味です。

*4:同人誌などで批評を書く活動を長く続けている方で、毎週新作映画を観て作品批評を一本書く、という鉄人的な批評活動をされています。すぱんくtheはにー|note

*5:この二項対立が離れるほど(意外な年代で区切るほど、一般的な作品受容と異なるほど、無縁な作品と比較するほど)興味深い批評となります。ならば批評の巧拙とは、この二項対立の設定と、それを成立させる文章技術なのかもしれません。

*6:こちら11/11の文学フリマ東京37にて頒布されますので、よろしくお願いします。ブース:た-17

*7:舞風つむじさんという方で、早稲田大学負けヒロイン研究会・明日ちゃん活動の会の主宰をされています。Twitter: @maikaze_tumuzi 

舞風つむじ (@maikaze_tumuzi) / X


*8:私はテクスト論と受容理論の違いが曖昧(テクスト論は受容理論に内包される?)ですが、受容理論=読者の立場に着目する考え方は、昨今の苛烈な「創作者信仰」を相対化する上で重要だと思います。批評に関する拒否感の一部は、「つくってもないのに偉そうに話してる」イメージからくるものですが、ここには国語教育で染みついた作家論的発想が見られます。「作者の意図」を絶対的な正解として崇拝すると、作品の「正しい解釈」を一意に決め、その解釈が正しいか/正しくないかの白黒評価に陥ってしまいます。いやむしろ、正しいかどうかという「採点」がないと不安なのでしょう。作品内部の謎を解き、作者によって正解/不正解を判別可能な「考察」が批評と比べて人気なのはそういった背景があるのかもしれません。ともあれ、読者の積極的な立場を擁護するテクスト論が浸透し、正しい/正しくないの二分法ではなく、解釈やその手続きの面白さという価値基準が広まることで批評への拒否感はいくぶん緩和するのではないでしょうか。

*9:こちらも文学フリマ東京37にて頒布します。よろしくお願いします。ブース: つ-36

*10:すぱんくtheはにーさんの「アニメ批評の書き方紹介」的な記事も掲載されるらしいです。Twitter: @blin_d_s 

アニメ批評誌『ブラインド』@文フリ東京37そ-58 (@blin_d_s) / X