虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

大阪大学萌研究会発行『もえけん!』を読む

※この記事は日本萌学会アドベントカレンダー企画に参加しています。

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角川つばさ文庫」のグーグル画像検索結果



 カリスマホストが『ロウきゅーぶ!』でマネジメントを学び、ボカロP発のアーティストがオリコンを席巻し、角川つばさ文庫の表紙が萌え絵で埋め尽くされる現代日本。かつて嘲笑と軽蔑の対象であったオタク文化は、メインカルチャーと言って差し支えないほどに一般層まで浸透した。「推し」「尊い」「エモ」......SNSでは夥しいライト・オタクが屈託なく二次元コンテンツを楽しみ、同好の志と交流する充実した生活を送っている。そんなすばらしき新時代の訪れとともに、ひっそりと息を引き取りつつある言葉があった。

――「萌」。30年ほど前、東京の電気街=アキバを中心に発生した"それ"は今や失われた技術ロストテクノロジーならぬ 失われた情緒ロストエモーションに追いやられているのだろうか?

 

 大阪大学萌研究会の会誌『もえけん!』には、「萌」の熱狂が過ぎ去ったあとの20年代を生きる学生の視点から「萌」に関する文章が綴られている。

 

表紙にはメガネっ子(萌)と「今、萌えを再構築する同人誌」との力強いコピー

 

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激論!萌え座談会2023 

「萌えとは何か?今、萌えはどこにあるか?」をテーマに5名が語る座談会記事。
    冒頭に萌研設立の経緯が語られている。
    ・オタクカルチャーを全体を内包するポテンシャルがありながら、語られることの減った「萌え」を復興したい(海綿なすか)
    ・思想的な関心というよりはかわいい系の深夜アニメや漫画について喋れる場がほしい(カピバラ
    両名が設立した萌研では、評論系のソリッドな文章だけでなく、エッセイやキャラ紹介なども含めた裾野の広い場(会誌)を目指しているようだ。

 大まかな設立経緯を掴んだところで座談会の内容について触れよう。まず座談会全体の雰囲気がいい。 座談会を収録していた部室にやってきたSF研の部員がしれっと乱入してくる。アカデミックな「萌え」の定義(東浩紀斎藤環)を引用したかと思えば、おにまいEDを流し、声出してエロゲするかどうかみたいな話で盛り上がる。 このアンバランスさというか、本当に話したいことを話してることが伝わってきて、ごちゃついた部室で語り合うオタクの情景が思い起こされる。

    具体的な作品では『らき☆すた』『ハルヒ』『ぼざろ』『DIY』『おにまい』などが取り上げられており、古の「萌え」(キャラ)→「関係性の『萌え』」(≒百合?)、「推し」(アイドル、Vtuber)、「エモ」(シチュエーション)への変遷をたどる。
    時代性を主題としながらも一般論だけでなく、自分にとっての萌えを語るところがよかった。

三峰結華とメガネー内面、殻、アイデンティティ (松浦信)

”三峰にとってメガネとは、「内面」を隠し、アイドルという役割を支える「殻」でありながらも、そのことに彼女はアイデンティティを見出している、というように結論付けることができよう” P32

 三峰結華は異様な数のメガネ(著者調べで44種類)を着用する――この設定を端緒にコミュをひも解き、彼女の内面へ思いを馳せる文章。立ち絵と一枚絵を網羅的にチェックして着用したメガネの種類をカウントする地道な作業がすごい。メガネ=印象の取り替えにより内面を隠す「殻」という解釈を踏まえたうえで、そうして取り繕った自分もまた本当の自分でありメガネが「アイデンティティ」となる、内面変化まで扱うことで三峰結華というキャラクターの深みが伝わった気がする。
    他のキャラ紹介もそうだけど、メガネキャラという類型ではなく、三峰結華の固有性を論じるところにキャラクターへの愛を感じた。

 

近付くが故に強調される溝としてのメガネ (くるみ瑠璃)   

   "夜ふかしをした。何があったわけでもない、いつものように夕方ごろに起き出したからだ。(略)ただ読むだけのノベルゲームではない、自分で選んでいくノベルゲームを遊んだのは初めてだった。”(P34)

 日記のような書き出しからはじまる。Leaf天使のいない12月』に登場する栗原透子に関する……評論、エッセイ、プレイログ?不思議な文体。メガネ属性一般に対する分析や自虐的な精神についての普遍的な論考と、個人的な心情が混在する。

"このような自虐的なあり方は今ではよく見るものだ。インターネットにいるオタクたちにもしょっちゅう見られる態度だろう。自虐できる自分に固執するようなあり方を斎藤環は「自傷的自己愛」と名づけている。"(P36)

    "「知ってるよ……かわいくないもん、あたし……」彼女は自虐する。そんなことはない。透子はかわいい。しかしこの声は届かないだろう"(P35)
    "手元が狂い、透子以外のヒロインに入ったとしたら、そしたら透子が時紀を求めてやってくる。ごめん、ただごめん。行けなかったことが、虚しい"(P38)

 『天使のいない12月』をプレイし、栗原透子について一般的な知見も個人的な感情も含めて考え抜くこと、このプロセスを素描する。生活~ゲームのプレイ~思考が一体となり、ロジックとエモーションが混在しながらも、紡がれた言葉たちが栗原透子に収束することで、一貫した文章として成立している。

 

かわいそうでかわいいハンバーガーちゃん (海綿なすか)

 特にフォローしてないけどTwitter(現:X)でよく流れてくる漫画筆頭のハンバーガーちゃんの紹介記事。作者本人の役として登場するけど、作者自身とは切り離されたキャラって日記漫画と相性がいい表現だと思う。川尻こだま、カエルDX、にゃるら、福田ナオ絵など。『てーきゅう』原作者のルーツが2014年に自分を美少女化した日記漫画を描いており、いまの原型を作ったのではと妄想している("ルーツ"だけに)。

seiga.nicovideo.jp

 

執事メガネ紹介&眼鏡レビュー (カピバラ・海綿なすか)

 執事メガネといえばキャラクターコラボの印象が強く、オタグッズ専門店みたいな認識だったが、かなり本格派の眼鏡屋さんらしい。前半は執事メガネの紹介で、後半はハンバーガーちゃんモデル眼鏡のレビューとなっている。ハンバーガーちゃんが掛けている赤縁眼鏡を完全再現したうえに、「Whtat should I do?(私ってどうしたらいいですか?)」と「LUK-10(不運デバフ)」の封刻が入っており、そういう遊び心もあるらしい。

ハンバーガーちゃん × 眼鏡】販売開始! | 執事眼鏡 eyemirror

そしてメガネを机に飾ると、ハンバーガーちゃんが外した眼鏡を置いているように感じられて、これもまた楽しい。お気に入りのキャラのメガネを置いて、同棲してる妄想をするのも(あるいは、メガネはあるけど彼女はここにはいないんだ…とちょっと感傷的な気分になるのも)良いかもしれない。 (P48)

 原作再現グッズを買うとキャラとの距離が近づくので実質聖地巡礼

いま、萌えを考える (海綿なすか)

 グーグルトレンドと象徴的な作品を参照するに、2005年の『電車男』をきっかけにオタク文化は一般層にも知れ渡ることになり、「大衆化」すると主に、オタクの間だけで通じる魔法の言葉であった「萌え」の意味が固定化され役割を失ってしまったと考察している。また、萌えの分類も試みている。

①ビジュアルの萌え(外見)

②キャラ性(ツンデレ、妹などの属性。妹(キャラ)-兄(観測者)のように、関係が生じる)

③キャラ性の表明としての見た目の萌え(①-②が結び付いたタイプ。メガネ=真面目・根暗など、外見と性格は強く相関する。外見とキャラ性が不一致だとギャップ萌えになる)

④関係性の「萌え」(キャラ同士の関係に対する萌え。BL、百合など)

 近年の(男性)オタクの傾向としては百合が増えていて、キャラクターそのものに対する①-③型の萌えよりは、キャラクター同士の関係に対する④型の「萌え」にシフトしていると指摘しており、確かに「俺の嫁」などと言うオタクは消えてみんな壁になりたがってる気がする。

 複数化する 鑑賞者 と「嫁」概念 ──萌えの歴史と構造を“シチュエーション消費”の観点から (ペシミ)

 対話編の形で、萌えの歴史と構造を整理した記事。

 下手な要約より文中で示される表を見た方がわかりやすい。

  嫁たち
A B
俺たち C D

80~90年代 ロリコンブーム

90~00年代 萌え=「俺の嫁

10~20年代 ハーレム=「俺の嫁たち」

20年代~   状況消費=「俺たちの嫁たち」 (P67)

 メディアの変遷に着目したとき、一対一でヒロインと対峙する美少女ゲームが、アニメ・漫画化によって、複数のルートを描くためにハーレム系に変化するという指摘が面白いと思った。

 

変態さんへのご提案 幻視される「物語」をめぐって (舞風つむじ)

  「萌え」についての論じる文章というよりは、むしろ「物語」との向き合い方について力点が置かれていると思った。この論考では「萌え」と入れ替わるように勃興した「推し」、両者の違いを物語の有無で区別する。「萌える」対象と「私」の間には物語は必要ないが、「推す」対象と「私」の間には同じ物語が共有される*1

 とはいえ、物語を必要としない「萌え」であっても、「小さな物語」を「大きな物語」に拡大しようとする「推し」、あるいは個々の「小さな物語」の背景にある「大きな物語」を探る陰謀論、のような物語による囲い込みのゲームから逃れることはできない。物語から降りようとも、倫理的な「小さな物語」を得ようにも、それを包含・基礎づけるメタ的な物語が生じるからだ。この空間で「萌え」るために提案される物語こそ、誰も囲い込まない物語であり、具体例として(私的な)歴史を挙げている。

「萌え」には同一性(=キャラクター)を保証しながら個別の物語(=萌えた記憶)を生み出す可能性が存在している。(P92)

 自分史とは他者を取り込み得ない物語であるが、自分以外の誰とも共有できない孤立した物語でもあると思う。「萌えた」記憶を語ることにより、没入したキャラクターをハブとして個々人がつながることができる。「物語」との向き合い方を捉えなおすことで、「萌え」の希望が、というよりは希望としての「萌え」が見いだせるのか。

 

 萌えをいかに語るか (松浦信)

 「萌え」に関する既存の評論・研究の概観を整理してくれる第二節<「萌え」とは何か?>がありがたかった。本書の論考パートでは東浩紀動物化するポストモダン』、斎藤環戦闘美少女の精神分析』、本田透萌える男』が三種の神器ばりに引用されるが、論考パートが重いと思ったらこの記事から読むと理解しやすいかもしれない。

 『「萌え」をいかに語るか』という題にかえると、「萌え」と性的欲求の混同から語ることが憚れる、あるいは「萌える」ことが個人内で完結しているので語る必要がないことが「萌え」の語りにくさにつながっていると指摘する。「萌え」について語る場はインターネットや既に親密なオタクとの会話に限られるが、語りの場を新たに用意することは難しい。語りの場を増やすのではなく、「今語ることができる場で、どのように語るか」に注目すると、閉ざされた語りが問題となる。「萌える」対象に没入しすぎずに、「萌える」自己に自覚的な距離感を保つこと、閉鎖的な定型表現を検討することで、魅力的な語りが増えるのではないかと提案する。

 「萌え」作品の減少に気をとられがちだが、「萌え」が死語となっていること=語られないことが衰退の原因なのではないかと思った。しかし単に語られないのではなく、「萌え」という概念自体が語りにくさを内包しており、なかなか難しい問題だと思った。

 

 萌えの将来は明るいのです! (森野鏡)

 全体的に「萌えは衰退した」という論調が強い冊子で、「萌えの将来は明るいのです!」というポジティブなタイトルが目を惹く。とはいえ本文では萌えの衰退を認めており、アニメトレンドの変化に注目している。萌え(データベース消費)の代名詞である日常系アニメは2016年をピークに減少傾向にあり、2020年以降では入れ替わるように『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『チェンソーマン』『進撃の巨人』などのストーリー漫画を原作とした作品(物語消費)の人気が高まっている。一方で、ゼロ年代萌えアニメを彷彿とさせる『おにまい』が人気を博していることから、逆に物語性の弱い日常系アニメ・萌えアニメに期待したい、といった論旨。ファッションの流行などを見るに、文化が”一周回る”ことはよくあるので、萌えの揺り返しがあるかもしれない。

 

失われた萌えを求めて~聖地巡礼から2.5次元まで~ (三条しぐれ)

 キャラクターとの接近を期待して聖地巡礼をしても、かえってその不在を感じてしまう。しかし、2.5次元ライブでは、3次元の声優が舞台の上で2次元キャラクターとして演じ、ファンがそれを応援し声優とキャラクターが限りなく近づく。聖地巡礼の限界は街並みなどが再現されても肝心のキャラクターが現れないことだと思うが、キャラクターの再現に重心を置いた2.5次元イベントのほうがむしろ”会える”経験としては強力なのかなと思った。

 

まとめ

 前半のキャラ紹介ではキャラクターへの愛と熱量が伝わるような萌え語りが展開されたが、論考パートでは皆「萌え」の衰退から議論をスタートしており、なかなかの温度差があって味わい深い。無邪気に「萌える」こと、冷静に「萌え」の現状を見つめることは相補的な関係にあり、このかけがえのない「萌え」をいかに維持するかという問題意識は、「萌え」に対するポジティブな経験がなければ始まらない。

 また、現在の「萌え」を考えるには、「推し」がキーワードとなることがわかった。「推し」との違いから「萌え」を考える、「萌え」から「推し」の変遷をたどる、あるいは「萌え」と「推し」は比較できな別概念とみなす、など現在浸透している「推し」を使って衰退しつつある「萌え」を考える方針は悪くない気がする。

 

ここで紹介した同人誌は、BOOTHでの通販*2、夏コミC102でも頒布*3するらしいので気になった方は読んでみては。

 

 最後に、記事を書き本の形にまとめた参加者の方々に敬意を表したい。僕自身も同人誌に寄稿・編集したりブログに記事を書いていますが、学校の課題でも仕事でもない文章を書くことは本当に骨が折れることです。もちろん書く楽しさはありますが、自分の語彙・文章力のなさに歯がゆい思いをしながら、学業・労働などの”やらなきゃいけない”ことをこなしながら時間をつくり、まとまった文章を書きあげることは尋常なことではありません。拙いレビューでしたが、本記事が「萌え」に関心のある誰かと『もえけん!』をつなぐことになれば、あるいは執筆者のモチベーションになれば幸いです。*4

 

 

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kanimisoknuckle.com

*1:例えば、武道館を目指すアイドルと、それを応援するファンは同じ成長物語を作り上げている

*2:もえけん! - 大阪大学萌研究会 - BOOTH

*3:日曜日東ヘ40a

*4:要約部分に誤りがあれば修正指摘していただけると助かります。はてなブログのコメントかTwitter:@Kuram_HailyのDMまで