虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

『きんいろモザイク Thank you‼︎』感想--難民のための鎮魂歌(行進曲)--

 先日、『きんいろモザイク』の劇場版にしてアニメ版の最終回となる映画『きんいろモザイク Thank you‼︎』を観に行きました。

 

www.kinmosa.com

 

 平日の午後四時過ぎ、石川県の国道沿いに位置するシネコンにて。がらんとした館内は僕と友人しかおらず、黙って観るような作品でもないのできんモザの思い出をぶつぶつ話しながら鑑賞しました。

雑感としては、劇場版というより最終回って感じ。TVアニメ版の延長というふうで、学園を舞台とした作品が通過すべきイベント--修学旅行、受験や卒業--をテンポよく消化していきつつ、綾と陽子、カレンとアリス、忍とアリス、久世橋先生とカレンなどの登場人物の関係を清算していく*1お話しでした。

 

 

 

 

なので、実質『劇場版 レビュースタァライト』などと茶化してたんですけど、オープニング中にアリスたちが新幹線に乗り、OP直後に修学旅行編が開幕する疾走感は"ワイルドスクリーンバロック"を感じさせるもの(どっちも「電車」モチーフだし)だったのでそんなに的外れでもないと思います(?)。

 82分の尺で修学旅行⇒受験⇒卒業と並行してキャラクターの関係の変化も描くため展開のテンポがはやく、逆に言うとひとつの映画作品としてのつながりはあまり感じませんでした。一応、冒頭に時系列的に最後となるイギリスのシーンを持ってきてるので、映画としてひとつの環構造にはなってるのですが。

ただこれに関しては『きんモザ』の日常を終わらせたるぞ~という気概を感じるモノであり、制作陣の責任を感じました。高校三年生のアリスたちの日常を時間軸に沿って回収していくような作劇には、物語の続きという余地を与えません。

もちろん物語のあともアリスたちの新しい日常は続いていくことが提示されるのですが、それは5人が同じ高校に通う『きんいろモザイク』の日常ではないという事実を、「卒業」という言葉がたたえる"終末"と"萌芽"の二面性に託しているのです。

 卒業をテーマにする以上、「日常系作品の終わり」問題について触れざるを得ないのですが、ここでは本質的な議論*2は省き、日常系アニメが終わると虚無感に襲われてしまう「難民」現象について取り上げます。というのも、この映画は「難民」に対する明示的なアンサーとなる描写があるためです。

 

dic.nicovideo.jp

 

 日常系作品は大きな物語がなく淡々とした作風だけど、それはまさに僕たちの日常に織り込まれていきます。これは虚構と現実が混在するのではなく、"日常系作品を見る僕たちの日常"が生まれるということです。

 現実を生きる僕たちの生活に、虚構を楽しむひとときが織り込まれるのは、必ずしも日常系作品にかぎったことではないのですが、けれども作中の物語が希薄なぶん、僕たちの日常とキャラクターたちの日常が並立するような感覚がつよいような気がします。

アリスたちのきらきらとした日常はそれを眺める僕たちの日常に織り込まれ、ひとつの状の模様をつくるのです(タイトル回収)。

 

他の例では『100日後に死ぬワニ』はまさに"日常系を楽しむ日常"を提供した作品で、一日ごとに更新される4コマは平坦なワニくんの日常を描くだけだが、読者は毎日更新するたびについチェックしちゃうような、読者の生活に『100ワニ』が重なって成立する作品だったわけです。

 

 

 

 そんな日常系作品の(放送)終了は、作中世界の日常の終わりではない*3けれど、"それを楽しんでいた僕たちの日常"は確かに終わってしまいます。さみしい。

 というふうに寂寞せきばくを抱えながら、修学旅行ではしゃぐアリスや受験に励む綾や陽子、なぞの踊りを披露する*4先生や忍を眺めていると、物語はふたつの回想を経て締め括られることになります。

 

ひとつは物語の終わりに、卒業式のシーンで各キャラクターの回想が流れます。アリスたちがそれぞれの思い出を回顧しながら校歌を歌う場面はカタルシスとして機能していて、部外者ながら感慨深い気持ちに浸ってしまいました。

そして大学生となった5人がイギリスで再会して物語は幕を閉じます。

けれどもエンドロール後の、"もうひとつの回想"は異質なものでした。

彼女たちが歌う『威風堂々』をバックに、4分割されたTVアニメ版『きんいろモザイク』のダイジェスト映像が流れたのです。

 

<記憶をもとに再現した画面>

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(C)原悠衣芳文社きんいろモザイク製作委員会

 

TVシリーズの映像は、この映画には存在しないシーンです。では、時間軸の異なるシーンを並列し、加速して眺める(ので回想っていうか走馬灯ぽい)ことができるのはだれか・・・

これも彼女たちの回想なのか。エンドロールのあと、物語の終わりにTVシリーズを思い出しているのだろうか。けれども、そこ(枠の外)に彼女たちの姿はなく、無機質な4つのフレームがいやにはっきりと浮かび上がる。

そう、これは僕たち(観客)のための回想だ。

TV版を知り、物語の外から彼女たちの日常を見ていた。"彼女たちの日常"は"僕たちの日常"をつくった。ときおり思い出す、1話=30分弱の"日常"を毎週の楽しみに、糧に、あるいは救い として生きた日々。彼女たちとのコミュニケーションはついに叶わなかった。けれど確かに並んで歩んだ"それぞれの日常"を--

 

環構造として閉じた物語--『きんいろモザイクThank you!!』--の外側に用意された回想シーンは、物語の外部の存在(=観客、そして「難民」)へと開かれていたのです。僕たちは『きんモザ』のさいごの刹那にて、もはや声だけの存在となったアリスたちを感じながら"僕たちのための回想"を眺めたのです。

その『威風堂々』は、難民に捧げる鎮魂歌として、スタッフからの感謝の贈り物--「The END」の代わりに現れる「Thank you」がそれを示す--として、"きたる日常"を歩むための行進曲として。

 

 

というわけで

・どちらもTVシリーズのフラッシュバックのようなメタい演出を絡めてファンの作品への呪縛を解き放つ映画なので

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*1:関係を切るというより、今の関係から新しい関係へ変化するニュアンス。

例:カレンのアリスとの別離。カレンはアリスを追って日本に留学しにきた過去を持つが、イギリスに帰国するアリスと離れて日本の大学に進学することを決断する。

*2:<日常系アニメの「日常」とは何か>みたいな?

*3:彼女たちの物語はまだまだ続く。というかアニメが終わっても原作は連載中だったりする。それでも「難民」は発生する。

*4:ここで作画が急にチープになって面白かった。

『キャビン』--洋ホラーの祭典とその批評として【続:ポルノ的映画の工学】

「ポルノ的映画」について書いた前回の記事を読むとわかりやすいです。

 

comkaeri.hatenablog.com

 

 

初見とそれ以降で鑑賞の楽しみ方が変わるタイプの作品なのでネタバレを踏みたくない人はここでブラウザバック(もはや死後)推奨です。

 

 

 

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邦版のポスターはダサいといわれますが、この映画に関しては コンセプトがわかりやすいので個人的に好きです。

 映画『キャビン』はある種のメタ・フィクションです。

 簡単にあらすじを追うと、夏休みに森の中の湖畔つきの洋館を訪れた5人の大学生が酔った勢いで呪われた封印を解いてしまい、目覚めた怪物によって一人ずつ殺されていく恐怖の夜が始まる・・・。

という洋ホラーにありがちな展開がメインなのですが、その裏ではバカでかい組織が動いていて、隠しカメラのようなハイテク機器で彼らの行動をモニタリングし、薬剤の散布や照明の操作など、テクノロジーを駆使することでお決まりの展開になるようにオペレートしているという仕掛けの物語となっています。

 

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組織の方々

 

 洋館を訪れる大学生にはそれぞれ「淫婦」「戦士」「学者」「愚者」「処女」の5つの役割があり(これも洋ホラーにありがちな役付け)、「処女」以外の4人を生贄に捧げることで「古き神々」を封印するのが組織の目的です。

 この映画をコントロールする組織は、まさしく「ポルノ的映画」の製作者であり、「古き神々」(=観客)を満足させるために筋書き通りのストーリーになるように学生たちを誘導し、時には電磁バリアのようなテクノロジーまで動員して、「呪われた洋館を訪れた若者たちの恐怖体験」という「映画」を作り上げようとします。

 ここでは「ポルノ的映画」の工学的な側面が描かれています。ホラーを見る観客が望むものは当然ながら恐怖なのですが、これをどう満足させるかというのがホラーの製作者が取り組む問題となるわけです。そして予算や撮影スケジュールや表現規制などのファクターを考慮しながら、恐怖という特定のパラメータを最大化するような物語の流れ・手続き(=アルゴリズム)を考えるという意味で、これは工学的な営み(エンジニアリング)にほかなりません。

 アート映画が監督の作家性を存分に表現することで、新しい価値観を提示するものだとしたら、「ポルノ的映画」の制作は既存の価値を最大化するように脚本や演出を工夫する工学的な作業としてとらえることができるのではないでしょうか。

 そしてホラー映画のパラメータ最適化の蓄積によって有効性が実証され、愛用され続けてきた枯れた・・・手法*1が、『キャビン』の組織がなぞろうとする「洋ホラーあるあるな展開」なのです。

 

 この映画では組織による「ありがちな展開」の死守と過剰なほど存在するホラー作品からの引用によって、ある種の祭典のような仕上がりになっており、ホラーというジャンルに対する途方もない愛好を感じさせます。

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これに関しては「『キャビン』の(ほとんど)すべての元ネタ(Referense)」という動画がとても参考になります。おすすめです。


www.youtube.com

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 ホラーを制作することの工学的な苦悩・楽しさを描き、過剰な引用によって彩られた祝祭的な雰囲気を感じる『キャビン』ですが、この映画はただのホラー賛美にとどまりません。

この映画では洋館にやってきた学生たちがバックナー一家に襲われるという、組織によって仕組まれた物語(物語内物語)のあと、よりメタ(高次)な恐怖がやってきます。

たまたま生き残ってしまった「愚者」によって地下で管理されていたホラー映画の怪物たちが放流される大惨事が起き、最終的には筋書きどおりの展開にならなかったことが「古き神々」(=観客)の怒りに触れて、この映画は打ち切られてしまいました(=作品世界の終焉)。

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生き残った「愚者」マーティ。大麻吸引用のパイプを武器に戦う

 「洋館でのホラー」をコントロールしていた組織が、その内部の「愚者」らの混乱によって怪物たちのコントロールを失ってしまうのことがメタ的に怖いということです。そして『キャビン』の本質的な恐怖はこのアンコントローラブルな恐怖にあって、そこが批評的に思えるのです。

 先ほども述べたように、『キャビン』では組織がコントロールするホラーあるあるな展開は、「お約束」というだけでそれ自体はギャグ的に描かれ*2陳腐化したものとして扱われました。けれども「古き神々」(=観客)はその様式こそを望んでいて、テンプレ通り「愚者」が死なないことに怒って世界を終わらせました。

 これは倒錯した状況です。

「愚者」の生存によって引き起こされた怪物たちの解放という惨事こそが最も恐ろしいのにもかかわらず、「愚者」の死亡という様式にこだわっている状況は手段と目的の逆転といえます。だからこの映画はホラーについてのホラーという点で自己言及的で、「愚者」の生存とそれによる混乱はクリティカル(批評的・危機的)なシーンなわけです。

 

 さて、この手の倒錯は陳腐にも見えます。けれどもこれは映画の可能性の拡張でもあります。

「ポルノ的映画」として恐怖というパラメータを最大化することを第一とするホラー映画について、「古き神々」のようにそこに至るまでのストーリーが様式に沿っているかどうかを気にして鑑賞する態度は、もともとの目的(怖がる)から、(やや制作者の立場の方に)逸れた楽しみ方です。

 けれども、ただ真正面に恐怖を楽しむ以外に、(ホラー特有の文脈を踏まえるという意味で)"通っぽく"楽しむことができる解釈の方法を追加することは、映画の楽しみ方が増えるという意味で、映画の意味や価値の可能性の拡大といえるのではないでしょうか。

そしてこの手の欲望の転倒による、観客の映画の見方の変性(=映画の楽しみ方、価値の追加)が、既存の価値を量産する産業製品としての「ポルノ的映画」に宿ることにこそ、逆説的な面白さがあると思うのです。

 

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*1:こういう枯れた手法の例として、アダルト・ビデオの冒頭のインタビュー・シーンなども形式化された手続きとしてあげられます。

*2:ガソリンスタンドで忠告を受けるシーンなどは特にそう。

ホラー映画には内容がない?【ポルノ的映画の工学】

 

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これは『全裸監督』に関する記事ではないです

はじめに

 先日、サークルの後輩が「僕はホラー映画は面白く感じない。内容がないというか・・・(意訳)」というようなことを言ってました*1。そういわれると確かにホラー映画やティーン向けの恋愛映画などには独特のうつろさのようなものを感じます。見終わった後に何も残るものがない...などと言うと教養のために映画を観るのか*2という話になってしまうのですが、実感としてこの手の映画は鑑賞中の快楽はつよいけれども、そのあとに訴えかけてくるものが少ないように思えます。しかし、このうつろさだけを取り上げて「ホラー映画は内容が(あるいはテーマが-問題提起が-新規性が-)ない」と切り捨ててしまうのもすこしもったいないんじゃないかなーとも思うのです。

 そこでこの記事ではホラーやティーン向けの恋愛映画のようなジャンルの映画を鑑賞者の欲望と消費様式に注視して「ポルノ的映画」として特徴づけ、エンタメ映画やアート映画などと比較しながらホラー映画、そして映画の可能性について考えてみます。

 

 

「ポルノ的映画」

 「ホラーや恋愛ジャンルの商業的な映画」などとふわっと扱っている概念について、ざっくりと定義してみます。

 さて、「人はなぜホラー映画を観るのか」という疑問に対するいちばん率直な答えは「怖がりたいから」ではないでしょうか。僕たちは怖くなりたいからホラーを観るし、きゅんきゅんしたいから恋愛映画を観るし、性的な欲望を満たすためにポルノを観る。そして、そういった映画(映像)はその感情を満たせるかどうかが重要で、他の部分はどうでもよかったりします。ホラー映画に求めるものは純粋に怖さであって、「役者の演技がいい」などというのは"効率よく"怖がるための条件のひとつにすぎません。

 このような、

(1)恐怖やときめき、感動のような特定の情動を(自覚的に)欲望する鑑賞者によって消費される映画で
(2)制作者もまた、鑑賞者の特定の欲望を満たすことを主な目的としてつくる映画

のことを「ポルノ的映画」とよぶことにします。

 

ポルノ(ポルノグラフィ)とは、狭義では性的興奮を起こさせることを目的としたエロチックな行為を映像などで表現したものをさします*3が、性的な興奮以外の感情(恐怖、きゅんきゅん、感動)について拡大してみても、鑑賞者の消費様式は共通してるんじゃないでしょうか。「感動ポルノ」という言葉もありますよね。

 

 ただ、ここで留意したときたいのは「ポルノ-」という言葉を使っているけれども、そのような映画やそれを楽しむ人々を否定する意図は全くないことです(肯定もしませんが)。性的搾取をめぐる問題から、ポルノという言葉は批判的な文脈で用いられることが多いです*4が、ここではそれについては議論しません。

ただ、「ポルノ-」という言葉がもつ近寄りがたいイメージは「ポルノ的映画」のある側面を反映しています。それは「ポルノ的映画」の排他性で、鑑賞者を選ぶということです。

定義(1)の通り、「ポルノ的映画」は恐怖や感動のような特定の感情を満たすために鑑賞されます。だから、その感情に飢えていない人にとってはつまらないものだし、それはまだいい方で、ホラー映画なんかは鑑賞者の意志に関係なく、強制的に怖がらせてしまいます。無理やり泣かせるような映画が苦手という人だっていますし、恋愛に興味のない人が見るラブ・ロマンスは苦痛でしょう*5

話がズレますが、僕はスカッとジャパンのような愚かな行動をした人間を吊るし上げるような作品が苦手で、その手の漫画の広告を見るとちょっと嫌な気分になります。これは過剰に性的な広告(ポルノ)が目に入ってきてしまうことに関する嫌悪感と似たようなことではないでしょうか。

 

このように苦手なジャンルの「ポルノ的映画」は見てから批判するというより、そもそも見るまえから嫌われる傾向にあります。 

また、普段は感動モノが好きだけど今日は気分じゃないから見たくないというパターンもありそうです。

このように時や人を選ぶ点について「ポルノ的映画」はポルノの負の側面を一部引き継いでいるのです。

ここでの「人を選ぶ」とは、鑑賞に先行して判断されるという意味です。見る人によって評価が分かれるといった意味合いではなく、鑑賞の前段階ですでに見る/見ないがジャッジされるということです。

 

 この点についてエンタメ映画と「ポルノ的映画」は異なっていて、エンターテイメント映画は「笑いあり涙あり」というお馴染みのキャッチ・フレーズが示すように、様々な感情がわくようにわかりやすい脚本で鑑賞者にアプローチして、鑑賞者を総合的に楽しませるので「ポルノ的映画」よりも射程が広いのです。

 「ポルノ的映画」が「怖がらせるなら-感動させるなら‐きゅんきゅんさせるなら-笑えるなら-なんでもあり」だとしたら、

エンタメ映画は「楽しませるなら、恐怖でも-感動でも-きゅんきゅんでも-コメディでも-なんでもあり」という感じです。

だからエンタメ映画は多種多様な成分を含んでてホラー映画のように極端に人を選ばないのではないでしょうか。そしてエンタメ映画は観客を楽しませるためのアプローチが豊富なので、「ポルノ的映画」に比べて多様です。というか、範囲が広すぎてひとくちにエンタメ映画と言っても何を示すのかよくわかりません。だからそういった作品はSFや時代劇、ファンタジーのように作品の世界観で区分されたり、監督名や制作スタジオなどで分類されるのでしょう。

 

 エンタメ映画は鑑賞者を楽しませてくれますが、「ポルノ的映画」のように鑑賞者の求める特定の情動を満足させるまでは寄り添ってはくれません。ではさらに鑑賞者から離れてみて、監督がその作家性をぞんぶんに表現する映画ーーアート映画についてはどうでしょうか。

まず「アート映画って、なに?(アヤナミレイ(仮称))」って感じなんですが、ウィキペディアでは*6

 「本格的かつ芸術的な作品で、しばしば実験的な要素が入ることを意図していて、幅広い人気を集めることは念頭に置いておらず」、「主に商業的な利益のためではなく美的感覚を追究するという理由で作られ」、そして「 型にはまらない、あるいは非常に象徴的な内容」を含んでいる *7

 とされています。なんとなく同人っぽくて*8ニッチな感じ、ともすれば高尚?なイメージをうけます。

 具体的な作品は、新しいやつだと『ミッドサマー』、『ザ・ライトハウス』、『パラサイト 半地下の家族』(いずれも2019公開)などで、ホラーの要素を含むものが近年のアート映画の潮流らしいです。

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そんなアート映画についてここでは構成的に、「商業的なニーズを無視して自由に作られた、制作者の(とくに監督の)作家性が色濃くでた映画」という風に理解してみます。

これは定義(2)と対応していて、「ポルノ的映画」では制作者が鑑賞者の欲望に寄り添っていた点と対照的です。

 作家が商業的な要請からある程度解放された状態で、観客の視線を気にせずに作られたアート映画は必ずしも明快なストーリーや快楽を誘うようなカタルシスは必要ありません。また、作家性がつよいためにジャンル分け(言語化)が困難でこの手の映画は同じ監督の作品か、または別の映画によって説明されます。例えば『ミッド・サマー』について語るとき、似たような排他的な異文化との接触を描く『ウィッカーマン』を参照するように。

 これまでの説明からアート映画はしがらみのない自由な(作られ方をした)映画で、「ポルノ的映画」は観客の欲望を満たす点で商業的な制限がある、有限な(作られ方をした)映画(アート映画=芸術品と対置するなら、産業製品プロダクトといった位置づけ)として捉えることができそうです。

 

とりあえずここらへんで「ポルノ的映画」に関する考察は切り上げますが、またまた留意したいのは、この分類は映画そのものの本質ではなく人間とその映画との関わりを根拠としていることです。(定義(1)は鑑賞者の消費様式を、(2)は制作者の商業的な姿勢をベースにしています。)

 だから、一つの「ポルノ的映画」に対して鑑賞者がアート映画的にとらえることもあり得ますし、そもそもこれらの分類はスペクトル的で完全に互いを排他しません。

そして『ミッドサマー』がアート映画かどうか、などというのは僕たちが主観的に解釈しているにすぎず、映画は「多数のフレームの画像と配置された音の連なり、字幕というテキストから構成される動画データ」以上でもそれ以下でもないのです。映画とは動画データでしかなく、「映画の意味」などというのは僕たちの解釈によって発生するものにすぎません*9。これを踏まえれば「アート映画のほうがエンタメ映画よりも映画の本質的に高尚だ」といった錯覚に陥らずに済みます。先の例は「アート映画のほうが商業性を考慮しないぶん実験的な表現が多くて楽しいし、応援したい」というのが実情ではないしょうか。

 

 

 さて、ここまで「ポルノ的映画」について考えてきましたが、このままだとつまらないので『キャビン』*10という映画について取り上げてみます。この映画は「SCP」や「クトゥルフ」の要素に注目されがちなのですが、プロダクトとしてのホラー映画の制作の工学的な側面をユーモアたっぷりに描きながら、そこにとどまらない批評性も感じる素晴らしい作品です。

 

comkaeri.hatenablog.com

 

 

 

*1:なんとなくこんな風なこといってたな、と僕が解釈しただけで当人の真意と異なるかもしれません。ただそれについてはここではどうでもよくって、そういう一般的な言説があるよね、ということです。

*2:心の中のホリエモン「バカ。映画は!面白いから観るの!」「ちゃんと映画観てりゃえらいって、お前らが
映画が嫌いだったからそうなってんだよ」「映画は楽しいコンテンツなんだよ。なのに、お前らが映画ちゃんと観ろって言うからバカなんだよ」

*3:参考:

ポルノグラフィ - Wikipedia

*4:先ほど挙げた「感動ポルノ」も障がい者を利用して健常者を感動させることに対する批判的な文脈をもちます。参考:

感動ポルノ - Wikipedia

*5:ここらへんはポルノ雑誌のゾーニングの話とも関連しそうです。

*6:参考文献wikiばかりなのはご容赦ください。この文章は学術的な厳密さに欠いておりますどうぞよろしくお願いします。

*7:参考:

アート映画 - Wikipedia

*8:wikiに"1980年代から1990年代までに、「アート映画」の意味はアメリカにおいて「自主映画」と融合するようになった"ともありますね

*9:ここらへんの議論、文芸批評の理論にあったと思うんですけど忘れちゃいました。すみません。

*10:2013年公開,米国の映画,監督はドリュー・ゴダード(『オデッセイ』など)

母子の呪いとしての『竜とそばかすの姫』

※記事内容はネタバレを含みます。

 

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はじめに

 

 2021年の夏に公開されたスタジオ地図の『竜とそばかすの姫』は上映後瞬く間にヒットし、やや時間をおいてからネット上で否定的な議論が交わされるなど大反響でした。

現実世界では人前で歌うことができない鈴が、ヴァーチャル空間「U」ではBellという仮想の歌姫として人気を博するうちに、嫌われ者の「竜」と呼ばれるアバタと関わりながら現実の彼を救おうとする物語です。

 鈴の声とBellの歌唱はシンガーソングライターの中村佳穂さんが担当し、作中にて「魅力的で不思議な楽曲」と評されるBellの歌唱力をそのまま再現しており音楽のクォリティはかなり高いと感じました。こういう映像作品で音楽の才能があるキャラクタを出すと演者の能力の問題でギャップというかガッカリ感が出てしまうものですが、Bellに関しては音楽の能力からキャスティングをしていてその点は成功していると思いました。*1

僕としては実写版『BECK』で佐藤健演じる主人公の歌唱シーンをあえて無音にすることで俳優の能力をカバーしつつキャラクターの才能を担保する手法なんかも結構好きなんですが。

 

 さて、さっきから音楽がいいと書きましたがそれは他が微妙ということです。ねとらぼの「夏の終わり」さんの記事が端的にまとめる通り、脚本の粗さがところどころ出ちゃってて脳内で補完しながら鑑賞する必要のある作品でした。

 

nlab.itmedia.co.jp

 

ただ、警察機能や児童相談所などの社会システムへの不信については、作中のテーマを踏まえると仕方がないんじゃないかと擁護したい立場です。

むしろ僕が気に入らない*2のは脚本の粗さではなく、そこまで脚本を歪めてまで表現したかったテーマの方なのです。

 

 

 自己犠牲の反復として

 

 ここでは『竜とそばかすの姫』を亡くなった母と取り残された娘の反復、

・見ず知らずの女の子を自己犠牲によって助けた母

・を娘がトレースすることで母を理解する(母になる)

 ことを物語の根幹として考えます。

 

本筋としてはこんな感じでしょうか。

【過去】

 鈴に音楽(つまり彼女のすべて)を授けた母はある日、中州に取り残された見ず知らずの女の子を助けに川の中へ飛び込んで命を落とす。母親を引き留めることができなかった鈴は深く落ち込み、(そんな鈴をしのぶ君は見守るのですが)父親との関係も停止してしまう。成長するとともに感情を音楽にぶつけるようになる鈴だが、母親がなぜ自分を置いて他人を助けたのか理解できないことに苛立ちを覚えます。

【ヴァーチャル空間】

 そこから「U」の世界に飛び込んだ鈴は、現実とは異なる姿で目いっぱい歌うことができるようになる。親友のヒロちゃんのサポートのおかげでめきめきと頭角を現すうちに、たまたまライブに乱入した「竜」と出会い、逢瀬を重ねるうちに彼の痣の正体=虐待を知って助けたいと感じるようになります。

※「U」で竜と出会うことで彼の匿名性が担保され、母が助けた「見ず知らずの女の子」と「竜」が重なるということだと思います。

美女と野獣』のオマージュは、ここではミスリードとなります。母が助けた少女のように「竜」もまた他人である必要があるのだから、Bellと竜は恋愛関係にないべきです。

【現実世界】

 話は現実に戻り、アカウント50億の中からたった一人の*3現実世界の「竜」を探すことになります。ふたりきりのときにBellが歌った曲をヒントとして「竜」の顔出しYoutubeライブを発見し、さっそく凸しますが鈴も顔出しで通話してしまい自分がBellであることを証明できず居場所を聞き出すことができませんでした。

※ここで「竜」=恵の「助ける助ける助ける!うんざりなんだよ!」というセリフがある通り、外部の大人はあてにならないという彼の失望があります。それゆえに彼は共に虐待をうける義弟(?)のために自分がヒーローとして活躍する姿を見せたかったわけです。

 先述の記事にもある通りこの部分は社会システムへの不信とされていますが、本筋に立ち返ってみると、ここでの傍観者(社会システム)は鈴の母が川へ救助しにいったときになにもしなかった他の大人と重ねるための描写で、社会批判としての意図は薄いように思います。

 【ふたたびヴァーチャル空間⇒現実へ】

 鈴は「竜」から信頼を得るために「U」で顔出し生ライブを決行することにします。正義マンからの謎ビームを浴びて「暗号化された生体情報をさらけ出した」--ヴァーチャルな世界で現実世界の身体が描画された「鈴」は、アバタの殻を捨てて震えながら歌います。

ネット上でガワをかぶった人が素顔をさらすのは致命的なのです*4が、彼女の勇気と歌声に感化されたネット民は謎の光源を発生させて彼女を応援します(劇場版プリキュア)。

 

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しっかり鈴=Bellのライブを観ていた恵は心を開き、住所を教えようとしますがDV父によって阻止されます。

夕方のチャイムなどの断片的な情報を居合わせた友達たちと照合して住所を特定することに成功しますが,警察に通報してもすぐには動けない模様。

なので鈴が単身で現場に直行(夜行バス)します。雨の東京、鈴がやってきてDV父を覇気で圧倒し、恵は勇気づけられたとお礼をして、二人はそれぞれの人生を歩んでいきます。

※ここらへん粗さがすごいんですけど、まず普通に夜行で東京行くんだってのがあります。せっかくヴァーチャルな技術が発展してる世界観を用意してるのだから、ワープ的なギミックとか、遠征で近くにいるカミシン君を電脳ハッキングして遠隔操作とかしてほしかった。

あと、所詮は子供の鈴が現場に行ってなんとなるんだという問題もあるんですけどそこについては後述します。

 

 さて、このような観点から物語をみると「竜」は匿名という点で、鈴の母が助けた赤の他人の女の子*5と一緒なわけです。そんな名も知らぬ誰かを危険をいとわず助ける行為はやはり美しく、なるほど母性を感じます。

そのような母の自己犠牲を、鈴は「U」での顔出し生配信と危険な現場へ向かうことで反復します。恵の自宅へ向かうところで雨が降るのは母が死んだ川=水のイメージの連想ということでしょうか。

 美しい自己犠牲の連鎖は滔々と流る川のように、母から娘へと継承*6されたわけですが、この反復=連鎖こそがグロテスクなものに見えてしまうのです。

鈴の母がしたことが間違っているとは思わないけれど、自己犠牲という部分に関しては失敗の結果であって最善手ではないと、まさに作中に登場する「心無いコメント」をしたい。

 

 

呪われた保守

 物語の結末として、母の死なぞることで母を理解した鈴はわだかまりが解けて人前で歌えるようになります。忍君との関係が回復するシーンは彼女の成熟を感じさせるものであり、鈴自身が「母」になることを暗示させます。

 亡くなった母親の足跡をたどることはじっくりと死を飲み込むことであり、喪が必要なんだと同意できるものです。

そして娘が母親を反復することも、生物的な保守--半自己増殖(生殖)として理解できますし、なによりもこの継承によって社会というのは維持できているのでしょう。

例えば大学のサークルなんかは、自分が後輩として活動に参加するうちにやがて先輩として運営に携わるようになり、かつての自分の立場である後輩へと文化や技術を継承します。昨今ではコロナウイルスの流行によって活動が2年ほど停滞し、このようなサイクルの危機が訪れているのを当事者として実感します。

 けれども保守のサイクルによって完全な維持は不可能なように、悪しき伝統というものは淘汰されていきます。生物的な可変性--進化です。

 鈴の母が彼女に残したものは、父が語るように「他人を思いやれる心」だけではありません。自らを破綻させてまで他者を助けてしまう呪いをかけてしまったのです。

鈴の母の行動は勇敢ではありましたが、他の手段もあったはずです。他の大人と協力していれば、例えば縄や手をつなぎあって何人かで陸と彼女をつなげれば誰も死ななかったかもしれません。これはまぎれもなく防げた悲劇の結果です。

 

 だからこそ鈴にはそこから脱してほしかった。(悪い言い方ですが)脚本的には「U」での顔出しライブで彼女は十分に傷ついた・・・・・・・・

 自分を傷つけてまで他人を助けることは本当に正しいのだろうか、自分のように母を亡くして傷つく人が、ヒロちゃんのように心配する人がいる。けれども「竜」を助けたい。ならば誰かと一緒に助けようと、忍君と「竜」の元へ行ってもいいんじゃないだろうか。

 高校生が一人増えたって現実的に虐待の問題はどうにもならない。けれども、ここで重要なのは鈴が傷つかないことなんです。忍君は背も高いし運動神経もいいふうだからDV 父と対面しても物理的に守ってくれそうじゃないですか。

鈴が恵と知を抱きしめる様子を一歩引いて見守る忍君。そこにDV父がやってくるとすかさず間に入って制止してほしい。その方がカッコ良くない?なんかカミシンと比べて虚ろなんだよな、忍君。

 

 まぁこれは僕の妄想なんですけど、これが本作が肌に合わない理由です。

匿名の誰かを助けるために亡くなることは良い話だけど、それを反復するのは永遠につづく呪いにほかならない。だから母をたどる過程でその呪いを断ち切るような打破が必要なんじゃないかと。

脚本を歪めて(社会システムへの不信と絵空事のようなご都合展開)まで表現したかったテーマ、それ自体が歪んでみえてしまったからうまく入り込めなかったのではないでしょうか。

しかし一方で、このような歪みを発生させ、人々を引き付けるこの作品にはそれだけで価値や魅力が十分に詰まっているのだとも思うのです。

 ◇

 

*1:演技ではなくパフォーマンスを優先してプロを起用するのは『BanG Dream!(バンドリ)』っぽいですね

*2:きわめて個人的な立場として、単純に気に入らない。

*3:このヒロちゃんのセリフ「アカウント50億の中からたった一人を探すなんて無理だよ!」、説明口調すぎませんかね。予告編のために突っ込まれたセリフっぽくて、なんかなぁ。

*4:例:のらきゃっと さんなど

*5:彼女は現実世界での名前も、「U」でのアカウントも登場しないという点で真に匿名な存在です

*6:これは『へレディタリー/継承』な「継承」です。

アニメ『スーパーカブ』モノへの愛情とその孤独

序文

 現代における趣味活動について考えてみると、コミュニケーションが重要なふうに思える。TwitterのようなSNSを使って同好の士とつながり、クラスタを形成し、情報や楽しみを共有するのはよくあることだ。そしてこのような趣味でつながる活動はSNSのようなツールの到来を待つまでもなく、学校や地域コミュニティの同好会・サークルのような形で古くから存在していた。

 しかし現代ではコミュニケーションがより重視される。いわゆる「コミュ力」が人物の評価として重視される今の社会では、頭がいいとか絵が上手いとかスポーツができるといった個人の能力よりも、空気が読める、ノリが良いといったコミュニケーションの技術だけで評価される。若者がよく使う「陰キャ/陽キャ」という属性区分はコミュニケーション重視の人物評価を端的に表しているだろう。

 こういった社会的な圧力が内面化した結果としてあらゆる趣味活動について人との関わりが求められるようになったのだろうか。あるいは、趣味を通して人とつながる形で自己実現を果たすことが理想化されるようなきらいがある。

このような趣味活動へのコミュニケーションの浸食は、自己啓発として健全なものである一方で、あらゆる趣味に固有の楽しさが、人と関わることの楽しさにすり替わる危険性を孕む。恋愛関係のこじれによって同好会の機能が不全するサークル・クラッシュはまさに趣味そのものではなくコミュニケーションへの傾倒による悲劇だろう。

 そんな趣味とコミュニケーションをめぐる問題について『スーパーカブ』は違ったあり方を提示する。結論を先取りすると、『スーパーカブ』では趣味への没頭と社会からの孤立を両立して描くことによって純粋な趣味への回帰を示している。そしてそれは、カブ=モノを愛することの孤独にほかならない。

 

モノとしてのカブ

 アニメ『スーパーカブ』はホンダのスーパーカブを手に入れた主人公・小熊がそれに没頭していく中で生活が豊かになり、2人の同級生との友情を育む過程をゆったりと描く作品である。日常系・空気系の雰囲気をまとったゆるやかな作品ではあるものの、小熊の環境は思いのほかヘヴィだ。幼少期に離婚によって父と離別し、高校入学と同時に母は蒸発。奨学金による経済支援のおかげで小さいアパートで一人暮らしをしながらかろうじて高校に通っている。"なんにもない"とされる小熊は、第一に物質的に困窮している。レトルト食品を家で炊いたご飯にかけて食べるような侘しい生活をおくっている。

 小熊にとって転機となるのはカブとの出会いだ。数々のおっさんたちの悲劇(?)を経て小熊の手に渡った1万円のスーパーカブは、趣味以前に彼女にとって物質的に大事なモノとなる。『スーパーカブ』が特徴的なのはバイクをめぐる楽しみを、文化的な面からではなく物質的な面からじわじわと導入していく部分にある。

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アニメ『スーパーカブ』1話より ©Tone Koken,hiro/ベアモータース

最初はただの交通手段でモノに過ぎなかったカブを運転したり、整備したりするにつれて徐々にその魅力に惹かれていく過程が丁寧に描かれるのだ。

小熊がスーパーカブがモノとして愛好している様子は,本編に何度も描かれる彼女の所作として理解できる。彼女は時折愛車のシートをそっとなでる。これはまさにモノとのふれあいであり、その手触りよって生起されるいとしさの現れにほかならない。

 ではこのようなモノを楽しむような趣味においては、コミュニケーションはどう可能になるのだろうか。つまり、モノの魅力は他者と共有できるのだろうか。

結論として、モノへの愛好を共有するのは難しいだろう。スーパーカブの魅力は彫刻的な美しさにあるのではない。実際にサドルにまたがってハンドルを握って、走って初めてわかる身体的・実践的な楽しさはカブを持たない人には共有しがたい趣味に思える。

実際、小熊が知り合った同級生の椎は小熊たちとの交友を深めるにつれて、カブを所有する彼女との間に障壁を感じ始める。別れ際にしつこく「また来てくれますか」と話しかける椎は、小熊たちと自分の間の差異に自覚的だったのではないだろうか。

だからこそ彼女は自転車の破損を契機としてリトルカブを購入し、そこではじめて本当の意味で小熊たちの仲間となったのだ。

結末としてメインキャラクターの三人がそれぞれカブを所有する。これはモノへの愛好を他者と共有するためには、各人がそれを所有していることが不可欠であることを物語っている。そしてこのような趣味によるコミュニケーション(の対象を絞ること)はどこか排他的でもある。同じゲームを持っていない子が、みんなの和に入れないような排他性だ。これはは疎外を招くが、けれどもゲームを持っていない子だけが疎外されるとは限らない。それがマイナーなゲームなら、孤立するのは持っている方だ。

 

小熊の孤立

 『スーパーカブ』の奇妙なところは、カブを手に入れた小熊がそれを通じて礼子や椎というかけがえのない友人と出会っていく一方で、よりマクロな社会からは離れていく点にある。趣味でコミュニケーションするということは社会と積極的に関係することだ。学校の同好会のような団体に入って自分と同じものが好きな人と関わるうちに人間関係を広げていくような進歩が期待される。確かに小熊はカブを通じて礼子と関わるようになったが、しかし一方で学校のクラスからは孤立していく。

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アニメ『スーパーカブ』3話より ©Tone Koken,hiro/ベアモータース

学校のクラス=社会からの孤立は昼食のシーンが象徴している。彼女たちはお昼の時間になると弁当を持って駐輪場に集まり、カブに座りながらご飯を食べるのだ。小熊がカブを手に入れて以来、冬場になっても徹底している。

文化祭の回でもクラスの出し物のためにコーヒーメーカーを運搬してあげたのものの、用事が済んだら校内をまわることなくカブでどこかへいこうとする。

小熊の使用する携帯電話が二つ折りのフューチャーフォンなのも印象的だ。

このような孤立*1を当人たちはまったく気にしていないように描くところがおもしろく、ここにこの作品の理念が隠されているように思えてくる。趣味というものを追求することによってメインキャラクターの3人のように人と関わることの素晴らしさを描きながら、けれどもクラスという社会からの疎外も描いている。

そしてこの疎外をトレード・オフな問題として扱わないところこそが重要で、趣味とは社会性を担保するものでは決してなく、(クラスから離脱しつつもそれに無関心な小熊のように)コミュニケーションと切り離すことができるということだ。

 このような独立的な趣味と人のありかたは、カブというものの特性に寄り添っている。オートバイは基本的に一人で乗るものだ。そして重心の移動やブレーキバーを握る力が直接運転に作用するような人とモノの融和した操作を必要とする。

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アニメ『スーパーカブ』10話より ©Tone Koken,hiro/ベアモータース

作中ではキャラクターがバイクに乗るすがたは3DCGを用いて描画される。ホンダの協力によってバイクは精緻に作りこまれており、線画ではなく3Dモデルによって正確に表現することに注力している。それにともなって乗車する人物も3Dモデルによって描かれることになり、ドライバーは線画の背景から描画手法の差異によって存在論的に独立している。人がバイクに乗ると異種相姦的にモノの側へ取り込まれ、人と人との関係(線画)から離脱することとなる。

このようなオートバイの特性とまさに融和することによって小熊の孤高さが立ち現われるのではないだろうか。

 

むすびに

 今回は趣味とコミュニケーションをテーマに『スーパーカブ』をみてきた。カブというモノを愛することによる孤独は他者と共有しがたいものであり、オートバイの特性との関連も思わせるものだった。

あえてこの作品から教訓めいたものを得ようとするならば、趣味というのは孤独だっていいということだ。昼食の時間も文化祭もクラスから孤立しても、黙々と趣味に没頭してごてごてに装備が盛られた小熊のカブみたいに自分の趣向を追求すればいい。

あなたにとってのカブに乗れたとき、一人でどこまでもいけるようになるだろう。春を捕まえることだって、きっとできるはずだ。

そんな勇気を与えてくれる作品だった。

 

youtu.be

 

*1:といっても本人たちが積極的に離脱していくわけだが

能登のイカモニュメントはデカいだけなのか

  能登町にあるイカの駅つくモールにはデカすぎるイカのモニュメントが存在する。

コロナウィルスにかかわる交付金の一部(交付金から2500万円、町費から500万円)を使って建てられたものが、ただデカいだけのイカのフィギュアというのが話題となり、国内だけでなくbbcニュースを通じて海外にも知られることとなった。

www.bbc.com

個人の意見としては、コロナ交付金は8億円ほど支給されたようであり、コロナ禍で落ち込む業界のために観光資源を用意するのは交付金の主旨の逸脱とも合致しており、行政の仕事の規模感としては数千万くらいで妥当なところではないかと思う。

 

 今回、祝日を利用してそのイカを見てきた。

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例のモニュメント(筆者撮影)

でかいイカがある。

 

写真の通り小さい子供ならすっぽり入ってしまうほどの口を開けて、体長13メートルほどの巨大なイカが触手を伸ばしている。サイズ感的にも大きめの公園の遊具のように見えるが、張り紙を見るところ甲などに登って遊んではいけないらしい。

動くわけでもなく、水を噴射するというわけでもなく、巨大なイカのフィギュアがずっしりと横たわっているだけなのだ。

ではつくモールに舞い降りたイカは木偶にすぎなかったのか。

確かにあの巨大なイカは木偶なんだけど、モニュメントだけでなく「イカの駅」としてつくモール全体を見てみると、あのイカが必要なように思えてくる。

というか、あのイカによってはじめてあの敷地全体が「イカの駅」として成立したような、あのイカのないあの場所が想像できないような、不思議な感覚がしたのだ。

 

 「イカの駅つくモール」は九十九湾沿いにある道の駅である。

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つくモールの外観。

画像引用元:https://www.ishikabakun.jp/2020/09/ikanoeki/

2020年4月にオープンされた新しい道の駅で、「ぽっと出」感のある場所だ。

施設はレストランやお土産屋、トイレ・自動販売機などの機能を完備していて便利だ。去年つくられただけあって洗練としていて、都市的な雰囲気すらある。

よく言えばお洒落で洗練されているのだが、都市的と評したようにシンプルで、システマティックすぎて印象に残らないというか、置いてあるお土産や、料理のメニューを他の地域にローカライズしても成立するような画一さを感じた。

実際、僕はイカのモニュメントは面白がってパシャパシャと写真を撮っていたが、つくモールの建物の外観や内部の写真は一枚もないし、他の観光客もイカのモニュメントの方に関心があったと思う。

 

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つくモールのレストランの様子。

画像は食べログより引用:https://tabelog.com/ishikawa/A1704/A170403/17012282/dtlphotolst/3/smp2/

もちろん、イカ漁船の模型やイカ釣りに使われる器具の展示だったり、レストラン内の水槽でイカを泳がせたりと、構内も独自性を出す工夫が施されていたが、それも穿った見方をすれば効率化された都市的な展示だった。

つくモールはオープンしてから一年ほど、あの不合理を固めたような巨大なイカがやってくるまで、きれいでおしゃれで現代的な道の駅だったんだけど、単純に外観のインパクトがしょぼいこともあって、それでは「イカの駅」としては足りないように思う。

 

 僕にとっては巨大なイカの不合理こそが、文明が発展した都市からの波をせき止める防波堤のような、土着の本質のように思えてくる。大仏や厳かな鳥居のような、それ自体は全く機能的ではない人工物がしかし、その無用さゆえに神聖をおびるような......。

 

 

つくモールでアルバイトをしている友人とカフェスペースで話していた。

彼いわく「あのでかいイカは最近急にできた」のだという。

それなりに洗練された「イカの駅」はイカが来るまえから十分に機能していただろうし、従業員や地元の人にとっては唐突にイカの像ができたように思えるのだろう。

けれども僕には、あの無意味なイカこそが地方であることの証*1のようであって、こざっぱりした現代的な道の駅が「イカの駅」となるために不可欠なシンボルのように見える。

イカの駅」の、「イカに関する駅」から「イカが主の駅」への転倒。

あの都市的な佇まいの建物こそが巨大なイカ神への"供物"としてあらかじめ用意されたのではないか、という倒錯。

呪術めいた想像力は、無意味なモノにこそ宿るのだろうか。

*1:「地方=不合理」みたいなことを言うのはどうかとおもう。けれど、文化においては不合理さ・非効率さこそ重要だろう。

2021年春アニメで一番可愛い子が決定したので報告します

 『スーパーカブ』の小熊ちゃん、ですかね……

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TVアニメ『スーパーカブ』 ©Tone Koken,hiro/ベアモータース

 

 僕は「かわいいとは何か」「かわいいの定義とはなにか」、

 

などと議論するつもりはない。「かわいさ」とは主観的な指標に過ぎず、その指標も時代や環境によって変化する。統計的に「かわいさ」の傾向を求め、客観的に把握することもできるだろうが、「かわいい」という経験、言語化しがたい手触りを十分に捉えることは難しい。

「かわいい」に明確な基準は存在せず、むしろ本当の「かわいさ」には既存の価値基準の更新を迫るような逸脱が宿るのではないだろうか。

普遍的な価値基準によって眼が大きいだとか睫毛が長いだとかいうパラメータを照らし合わせても、「かわいい」という経験的な価値*1には触れることができないのだ。

そうならば、「一番可愛い子」などは存在しない。「かわいい」とは個人的な体験なのであって容易に比較できるものではないし、他の人の基準とは異なってしかるからだ......などというのはどうでもいい。僕は「かわいい」について書きたいのではなく「かわいい子」について書きたいのだった。

 

 

 まず、小熊は可愛くないし、彼女は美少女というわけではない。

どういうことか。小熊ちゃんが一番可愛いんじゃなかったのか。

いや、確かに小熊は"僕らから見て可愛い"。深夜帯の日常系アニメの主役を張るキャラクターだ、かわいくなくては困る。

けれども、その可愛さはいわゆる二次元キャラがもつ「存在論的な優位性」による錯覚だ。

絵というものは描かれるべきものだけが情報として与えられる、理想化された表現だ。

漫画やアニメに登場する人物は理由がない限り整った見た目をしている。理由もなく整っている。

現実の美醜の正規分布を考慮すれば、もっと不細工なキャラが多くて妥当だと思う。

漫画やアニメのキャラクターたちは基本的に美しく、二次元というだけで「存在論的に優位」なのであって、作中世界ではパッとしない子でも容易くかわいく感じる(「萌え」てしまう)。それを踏まえて、小熊はあの世界の中では可愛くないということだ。

じっさい、原作小説では小熊は不細工というほどでもないが平凡で地味な容姿として書かれている。

同じ作品に登場する椎が、淡い髪色をしていて背景に居ても目を惹くような魅力的な外見をしている(教室移動のときについ見てしまう他クラスの女子のような、まさに美少女!)のと比較するとよくわかる。

 

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6話。名前も出てこないときの椎のすばらしい映り込み。

髪色や眼の形状などに注目すると、美少女として書き込まれていることがわかるだろう。

椎こそが作中世界からかわいいと認定された美少女であって、それと比べてしまうと小熊は素朴で平凡な少女だ。

 

ではなぜ小熊なのか。それは彼女の「かわいさ」は、キャラクターデザインなどの性質ではなく、彼女の仕草や動作、アニメーションによって発生するということだ。

 

冒頭の通り「かわいい」とは経験的な価値であり、主体が「かわいさ」にふれる体験だ。

「かわいい」は外見のような静的な性質にとどまらない。それは髪を整える仕草であったり、不意に漏れる言葉遣いだったり、思考の偏りかもしれない。

「かわいさ」は外見や年齢のような固定的な事実の断片に宿るのではなくて、むしろ動作に宿るといえるのではないだろうか。(「かわいいは作れる」という言説は、化粧などの努力によって外見のような一見静的な「かわいさ」すら変性するということなのだ。)

 

では例を見ていきたいのだが、ひとまず好対照として『VIVY』の静的な「美しさ」を見てみる。

 

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『VIVY』の絵画のような静止画シーン。

『VIVY』は全編通して高品質な作画を誇るが、特に重要なシーンでは絵画のようなタッチを用いて静止画で魅せる。この手法も動から静へのダイナミズムはアニメ的な技法なのだが、やはり僕は動きに力を入れた表現の方がすきだ。

しかし、この作品がアンドロイドをテーマにしているところがおもしろく、静止画シーンでは動作の停止と共に命が消えるような、無機質さを感じる。

 

では以下の例を見て、平凡な少女小熊が圧倒的に"かわいくなる"のを体験されたい。

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参考1:カブをみてほころぶ小熊。

ニヤけるような微笑がたまらない。

笑顔とは「破顔」の字の通り「崩れる」ことなのだ。

 

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 参考2:カブのミラー越しに身だしなみを確認する小熊。

ヨシ!

 

 

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 参考3:レインコートが思いのほか高くて落胆する小熊。

曇った表情もいい......

※載せたいシーンはまだあるが、このへんにしとく。続きは君の目で確かめていただきたい。*2

 

このように彼女は動きによって「かわいい」を生成している。

あるいは彼女の「かわいい」本質が、その些細な仕草によってそのたびに(現象として)僕らの前に立ち現れることによって、僕らは「かわいい」に触れることができるのではないだろうか。

 

そしてこの、「かわいい」動きは物理法則を無視しているわけではなく、現実にも起こりうる動作であることに注意すれば、

これは「二次元であるが故の存在論的優位性」などと結論付けることができない、僕ら(現実)と彼女たち(虚構)の世界を貫く普遍的な「かわいさ」なのだとわかる。

 

彼女の身体はイラストだ。理想的に描かれた身体は僕らには盲目に美しく見える。

けれども彼女の身体の動きは現実における筋肉の連携運動のトレースだ。

そこで動いては生起する「かわいさ」とは、身体の運動であり、その身体を構成するのがイラストなのか/僕らの持つ生々しい身体なのかは問わないのだ。

 

そしてこのイラスト=無生物に動作によって命(anima)を吹き込む営みこそが、アニメーション(animation)なのだった。

平凡な小熊がふとした仕草によって「(存在論的に普遍に)かわいく」なるところにはアニメーションの魔法がかけられている。

彼女が今季アニメで一番可愛いかは分からないけど、一番アニメーションに祝福されたキャラクターは小熊ちゃんではなかろうか。

 

 

 

おまけ:昔の記事

comkaeri.hatenablog.com

 このときはキャラデザだけで判断してたので変化を感じる。

 

*1:ここでは「かわいい」という価値は個人の主観的な体験によって生じるものであるという意味で、いつの時代も・みんなそう思うような普遍的な価値基準と対比して「経験的な価値」という言葉を使ってみた。

*2:gifは

http://alpha2book.hatenablog.com/ 様から転載しました。