虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

能登のイカモニュメントはデカいだけなのか

  能登町にあるイカの駅つくモールにはデカすぎるイカのモニュメントが存在する。

コロナウィルスにかかわる交付金の一部(交付金から2500万円、町費から500万円)を使って建てられたものが、ただデカいだけのイカのフィギュアというのが話題となり、国内だけでなくbbcニュースを通じて海外にも知られることとなった。

www.bbc.com

個人の意見としては、コロナ交付金は8億円ほど支給されたようであり、コロナ禍で落ち込む業界のために観光資源を用意するのは交付金の主旨の逸脱とも合致しており、行政の仕事の規模感としては数千万くらいで妥当なところではないかと思う。

 

 今回、祝日を利用してそのイカを見てきた。

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例のモニュメント(筆者撮影)

でかいイカがある。

 

写真の通り小さい子供ならすっぽり入ってしまうほどの口を開けて、体長13メートルほどの巨大なイカが触手を伸ばしている。サイズ感的にも大きめの公園の遊具のように見えるが、張り紙を見るところ甲などに登って遊んではいけないらしい。

動くわけでもなく、水を噴射するというわけでもなく、巨大なイカのフィギュアがずっしりと横たわっているだけなのだ。

ではつくモールに舞い降りたイカは木偶にすぎなかったのか。

確かにあの巨大なイカは木偶なんだけど、モニュメントだけでなく「イカの駅」としてつくモール全体を見てみると、あのイカが必要なように思えてくる。

というか、あのイカによってはじめてあの敷地全体が「イカの駅」として成立したような、あのイカのないあの場所が想像できないような、不思議な感覚がしたのだ。

 

 「イカの駅つくモール」は九十九湾沿いにある道の駅である。

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つくモールの外観。

画像引用元:https://www.ishikabakun.jp/2020/09/ikanoeki/

2020年4月にオープンされた新しい道の駅で、「ぽっと出」感のある場所だ。

施設はレストランやお土産屋、トイレ・自動販売機などの機能を完備していて便利だ。去年つくられただけあって洗練としていて、都市的な雰囲気すらある。

よく言えばお洒落で洗練されているのだが、都市的と評したようにシンプルで、システマティックすぎて印象に残らないというか、置いてあるお土産や、料理のメニューを他の地域にローカライズしても成立するような画一さを感じた。

実際、僕はイカのモニュメントは面白がってパシャパシャと写真を撮っていたが、つくモールの建物の外観や内部の写真は一枚もないし、他の観光客もイカのモニュメントの方に関心があったと思う。

 

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つくモールのレストランの様子。

画像は食べログより引用:https://tabelog.com/ishikawa/A1704/A170403/17012282/dtlphotolst/3/smp2/

もちろん、イカ漁船の模型やイカ釣りに使われる器具の展示だったり、レストラン内の水槽でイカを泳がせたりと、構内も独自性を出す工夫が施されていたが、それも穿った見方をすれば効率化された都市的な展示だった。

つくモールはオープンしてから一年ほど、あの不合理を固めたような巨大なイカがやってくるまで、きれいでおしゃれで現代的な道の駅だったんだけど、単純に外観のインパクトがしょぼいこともあって、それでは「イカの駅」としては足りないように思う。

 

 僕にとっては巨大なイカの不合理こそが、文明が発展した都市からの波をせき止める防波堤のような、土着の本質のように思えてくる。大仏や厳かな鳥居のような、それ自体は全く機能的ではない人工物がしかし、その無用さゆえに神聖をおびるような......。

 

 

つくモールでアルバイトをしている友人とカフェスペースで話していた。

彼いわく「あのでかいイカは最近急にできた」のだという。

それなりに洗練された「イカの駅」はイカが来るまえから十分に機能していただろうし、従業員や地元の人にとっては唐突にイカの像ができたように思えるのだろう。

けれども僕には、あの無意味なイカこそが地方であることの証*1のようであって、こざっぱりした現代的な道の駅が「イカの駅」となるために不可欠なシンボルのように見える。

イカの駅」の、「イカに関する駅」から「イカが主の駅」への転倒。

あの都市的な佇まいの建物こそが巨大なイカ神への"供物"としてあらかじめ用意されたのではないか、という倒錯。

呪術めいた想像力は、無意味なモノにこそ宿るのだろうか。

*1:「地方=不合理」みたいなことを言うのはどうかとおもう。けれど、文化においては不合理さ・非効率さこそ重要だろう。