虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

2021年春アニメで一番可愛い子が決定したので報告します

 『スーパーカブ』の小熊ちゃん、ですかね……

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TVアニメ『スーパーカブ』 ©Tone Koken,hiro/ベアモータース

 

 僕は「かわいいとは何か」「かわいいの定義とはなにか」、

 

などと議論するつもりはない。「かわいさ」とは主観的な指標に過ぎず、その指標も時代や環境によって変化する。統計的に「かわいさ」の傾向を求め、客観的に把握することもできるだろうが、「かわいい」という経験、言語化しがたい手触りを十分に捉えることは難しい。

「かわいい」に明確な基準は存在せず、むしろ本当の「かわいさ」には既存の価値基準の更新を迫るような逸脱が宿るのではないだろうか。

普遍的な価値基準によって眼が大きいだとか睫毛が長いだとかいうパラメータを照らし合わせても、「かわいい」という経験的な価値*1には触れることができないのだ。

そうならば、「一番可愛い子」などは存在しない。「かわいい」とは個人的な体験なのであって容易に比較できるものではないし、他の人の基準とは異なってしかるからだ......などというのはどうでもいい。僕は「かわいい」について書きたいのではなく「かわいい子」について書きたいのだった。

 

 

 まず、小熊は可愛くないし、彼女は美少女というわけではない。

どういうことか。小熊ちゃんが一番可愛いんじゃなかったのか。

いや、確かに小熊は"僕らから見て可愛い"。深夜帯の日常系アニメの主役を張るキャラクターだ、かわいくなくては困る。

けれども、その可愛さはいわゆる二次元キャラがもつ「存在論的な優位性」による錯覚だ。

絵というものは描かれるべきものだけが情報として与えられる、理想化された表現だ。

漫画やアニメに登場する人物は理由がない限り整った見た目をしている。理由もなく整っている。

現実の美醜の正規分布を考慮すれば、もっと不細工なキャラが多くて妥当だと思う。

漫画やアニメのキャラクターたちは基本的に美しく、二次元というだけで「存在論的に優位」なのであって、作中世界ではパッとしない子でも容易くかわいく感じる(「萌え」てしまう)。それを踏まえて、小熊はあの世界の中では可愛くないということだ。

じっさい、原作小説では小熊は不細工というほどでもないが平凡で地味な容姿として書かれている。

同じ作品に登場する椎が、淡い髪色をしていて背景に居ても目を惹くような魅力的な外見をしている(教室移動のときについ見てしまう他クラスの女子のような、まさに美少女!)のと比較するとよくわかる。

 

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6話。名前も出てこないときの椎のすばらしい映り込み。

髪色や眼の形状などに注目すると、美少女として書き込まれていることがわかるだろう。

椎こそが作中世界からかわいいと認定された美少女であって、それと比べてしまうと小熊は素朴で平凡な少女だ。

 

ではなぜ小熊なのか。それは彼女の「かわいさ」は、キャラクターデザインなどの性質ではなく、彼女の仕草や動作、アニメーションによって発生するということだ。

 

冒頭の通り「かわいい」とは経験的な価値であり、主体が「かわいさ」にふれる体験だ。

「かわいい」は外見のような静的な性質にとどまらない。それは髪を整える仕草であったり、不意に漏れる言葉遣いだったり、思考の偏りかもしれない。

「かわいさ」は外見や年齢のような固定的な事実の断片に宿るのではなくて、むしろ動作に宿るといえるのではないだろうか。(「かわいいは作れる」という言説は、化粧などの努力によって外見のような一見静的な「かわいさ」すら変性するということなのだ。)

 

では例を見ていきたいのだが、ひとまず好対照として『VIVY』の静的な「美しさ」を見てみる。

 

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『VIVY』の絵画のような静止画シーン。

『VIVY』は全編通して高品質な作画を誇るが、特に重要なシーンでは絵画のようなタッチを用いて静止画で魅せる。この手法も動から静へのダイナミズムはアニメ的な技法なのだが、やはり僕は動きに力を入れた表現の方がすきだ。

しかし、この作品がアンドロイドをテーマにしているところがおもしろく、静止画シーンでは動作の停止と共に命が消えるような、無機質さを感じる。

 

では以下の例を見て、平凡な少女小熊が圧倒的に"かわいくなる"のを体験されたい。

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参考1:カブをみてほころぶ小熊。

ニヤけるような微笑がたまらない。

笑顔とは「破顔」の字の通り「崩れる」ことなのだ。

 

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 参考2:カブのミラー越しに身だしなみを確認する小熊。

ヨシ!

 

 

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 参考3:レインコートが思いのほか高くて落胆する小熊。

曇った表情もいい......

※載せたいシーンはまだあるが、このへんにしとく。続きは君の目で確かめていただきたい。*2

 

このように彼女は動きによって「かわいい」を生成している。

あるいは彼女の「かわいい」本質が、その些細な仕草によってそのたびに(現象として)僕らの前に立ち現れることによって、僕らは「かわいい」に触れることができるのではないだろうか。

 

そしてこの、「かわいい」動きは物理法則を無視しているわけではなく、現実にも起こりうる動作であることに注意すれば、

これは「二次元であるが故の存在論的優位性」などと結論付けることができない、僕ら(現実)と彼女たち(虚構)の世界を貫く普遍的な「かわいさ」なのだとわかる。

 

彼女の身体はイラストだ。理想的に描かれた身体は僕らには盲目に美しく見える。

けれども彼女の身体の動きは現実における筋肉の連携運動のトレースだ。

そこで動いては生起する「かわいさ」とは、身体の運動であり、その身体を構成するのがイラストなのか/僕らの持つ生々しい身体なのかは問わないのだ。

 

そしてこのイラスト=無生物に動作によって命(anima)を吹き込む営みこそが、アニメーション(animation)なのだった。

平凡な小熊がふとした仕草によって「(存在論的に普遍に)かわいく」なるところにはアニメーションの魔法がかけられている。

彼女が今季アニメで一番可愛いかは分からないけど、一番アニメーションに祝福されたキャラクターは小熊ちゃんではなかろうか。

 

 

 

おまけ:昔の記事

comkaeri.hatenablog.com

 このときはキャラデザだけで判断してたので変化を感じる。

 

*1:ここでは「かわいい」という価値は個人の主観的な体験によって生じるものであるという意味で、いつの時代も・みんなそう思うような普遍的な価値基準と対比して「経験的な価値」という言葉を使ってみた。

*2:gifは

http://alpha2book.hatenablog.com/ 様から転載しました。