虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

アニメ『スーパーカブ』モノへの愛情とその孤独

序文

 現代における趣味活動について考えてみると、コミュニケーションが重要なふうに思える。TwitterのようなSNSを使って同好の士とつながり、クラスタを形成し、情報や楽しみを共有するのはよくあることだ。そしてこのような趣味でつながる活動はSNSのようなツールの到来を待つまでもなく、学校や地域コミュニティの同好会・サークルのような形で古くから存在していた。

 しかし現代ではコミュニケーションがより重視される。いわゆる「コミュ力」が人物の評価として重視される今の社会では、頭がいいとか絵が上手いとかスポーツができるといった個人の能力よりも、空気が読める、ノリが良いといったコミュニケーションの技術だけで評価される。若者がよく使う「陰キャ/陽キャ」という属性区分はコミュニケーション重視の人物評価を端的に表しているだろう。

 こういった社会的な圧力が内面化した結果としてあらゆる趣味活動について人との関わりが求められるようになったのだろうか。あるいは、趣味を通して人とつながる形で自己実現を果たすことが理想化されるようなきらいがある。

このような趣味活動へのコミュニケーションの浸食は、自己啓発として健全なものである一方で、あらゆる趣味に固有の楽しさが、人と関わることの楽しさにすり替わる危険性を孕む。恋愛関係のこじれによって同好会の機能が不全するサークル・クラッシュはまさに趣味そのものではなくコミュニケーションへの傾倒による悲劇だろう。

 そんな趣味とコミュニケーションをめぐる問題について『スーパーカブ』は違ったあり方を提示する。結論を先取りすると、『スーパーカブ』では趣味への没頭と社会からの孤立を両立して描くことによって純粋な趣味への回帰を示している。そしてそれは、カブ=モノを愛することの孤独にほかならない。

 

モノとしてのカブ

 アニメ『スーパーカブ』はホンダのスーパーカブを手に入れた主人公・小熊がそれに没頭していく中で生活が豊かになり、2人の同級生との友情を育む過程をゆったりと描く作品である。日常系・空気系の雰囲気をまとったゆるやかな作品ではあるものの、小熊の環境は思いのほかヘヴィだ。幼少期に離婚によって父と離別し、高校入学と同時に母は蒸発。奨学金による経済支援のおかげで小さいアパートで一人暮らしをしながらかろうじて高校に通っている。"なんにもない"とされる小熊は、第一に物質的に困窮している。レトルト食品を家で炊いたご飯にかけて食べるような侘しい生活をおくっている。

 小熊にとって転機となるのはカブとの出会いだ。数々のおっさんたちの悲劇(?)を経て小熊の手に渡った1万円のスーパーカブは、趣味以前に彼女にとって物質的に大事なモノとなる。『スーパーカブ』が特徴的なのはバイクをめぐる楽しみを、文化的な面からではなく物質的な面からじわじわと導入していく部分にある。

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アニメ『スーパーカブ』1話より ©Tone Koken,hiro/ベアモータース

最初はただの交通手段でモノに過ぎなかったカブを運転したり、整備したりするにつれて徐々にその魅力に惹かれていく過程が丁寧に描かれるのだ。

小熊がスーパーカブがモノとして愛好している様子は,本編に何度も描かれる彼女の所作として理解できる。彼女は時折愛車のシートをそっとなでる。これはまさにモノとのふれあいであり、その手触りよって生起されるいとしさの現れにほかならない。

 ではこのようなモノを楽しむような趣味においては、コミュニケーションはどう可能になるのだろうか。つまり、モノの魅力は他者と共有できるのだろうか。

結論として、モノへの愛好を共有するのは難しいだろう。スーパーカブの魅力は彫刻的な美しさにあるのではない。実際にサドルにまたがってハンドルを握って、走って初めてわかる身体的・実践的な楽しさはカブを持たない人には共有しがたい趣味に思える。

実際、小熊が知り合った同級生の椎は小熊たちとの交友を深めるにつれて、カブを所有する彼女との間に障壁を感じ始める。別れ際にしつこく「また来てくれますか」と話しかける椎は、小熊たちと自分の間の差異に自覚的だったのではないだろうか。

だからこそ彼女は自転車の破損を契機としてリトルカブを購入し、そこではじめて本当の意味で小熊たちの仲間となったのだ。

結末としてメインキャラクターの三人がそれぞれカブを所有する。これはモノへの愛好を他者と共有するためには、各人がそれを所有していることが不可欠であることを物語っている。そしてこのような趣味によるコミュニケーション(の対象を絞ること)はどこか排他的でもある。同じゲームを持っていない子が、みんなの和に入れないような排他性だ。これはは疎外を招くが、けれどもゲームを持っていない子だけが疎外されるとは限らない。それがマイナーなゲームなら、孤立するのは持っている方だ。

 

小熊の孤立

 『スーパーカブ』の奇妙なところは、カブを手に入れた小熊がそれを通じて礼子や椎というかけがえのない友人と出会っていく一方で、よりマクロな社会からは離れていく点にある。趣味でコミュニケーションするということは社会と積極的に関係することだ。学校の同好会のような団体に入って自分と同じものが好きな人と関わるうちに人間関係を広げていくような進歩が期待される。確かに小熊はカブを通じて礼子と関わるようになったが、しかし一方で学校のクラスからは孤立していく。

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アニメ『スーパーカブ』3話より ©Tone Koken,hiro/ベアモータース

学校のクラス=社会からの孤立は昼食のシーンが象徴している。彼女たちはお昼の時間になると弁当を持って駐輪場に集まり、カブに座りながらご飯を食べるのだ。小熊がカブを手に入れて以来、冬場になっても徹底している。

文化祭の回でもクラスの出し物のためにコーヒーメーカーを運搬してあげたのものの、用事が済んだら校内をまわることなくカブでどこかへいこうとする。

小熊の使用する携帯電話が二つ折りのフューチャーフォンなのも印象的だ。

このような孤立*1を当人たちはまったく気にしていないように描くところがおもしろく、ここにこの作品の理念が隠されているように思えてくる。趣味というものを追求することによってメインキャラクターの3人のように人と関わることの素晴らしさを描きながら、けれどもクラスという社会からの疎外も描いている。

そしてこの疎外をトレード・オフな問題として扱わないところこそが重要で、趣味とは社会性を担保するものでは決してなく、(クラスから離脱しつつもそれに無関心な小熊のように)コミュニケーションと切り離すことができるということだ。

 このような独立的な趣味と人のありかたは、カブというものの特性に寄り添っている。オートバイは基本的に一人で乗るものだ。そして重心の移動やブレーキバーを握る力が直接運転に作用するような人とモノの融和した操作を必要とする。

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アニメ『スーパーカブ』10話より ©Tone Koken,hiro/ベアモータース

作中ではキャラクターがバイクに乗るすがたは3DCGを用いて描画される。ホンダの協力によってバイクは精緻に作りこまれており、線画ではなく3Dモデルによって正確に表現することに注力している。それにともなって乗車する人物も3Dモデルによって描かれることになり、ドライバーは線画の背景から描画手法の差異によって存在論的に独立している。人がバイクに乗ると異種相姦的にモノの側へ取り込まれ、人と人との関係(線画)から離脱することとなる。

このようなオートバイの特性とまさに融和することによって小熊の孤高さが立ち現われるのではないだろうか。

 

むすびに

 今回は趣味とコミュニケーションをテーマに『スーパーカブ』をみてきた。カブというモノを愛することによる孤独は他者と共有しがたいものであり、オートバイの特性との関連も思わせるものだった。

あえてこの作品から教訓めいたものを得ようとするならば、趣味というのは孤独だっていいということだ。昼食の時間も文化祭もクラスから孤立しても、黙々と趣味に没頭してごてごてに装備が盛られた小熊のカブみたいに自分の趣向を追求すればいい。

あなたにとってのカブに乗れたとき、一人でどこまでもいけるようになるだろう。春を捕まえることだって、きっとできるはずだ。

そんな勇気を与えてくれる作品だった。

 

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*1:といっても本人たちが積極的に離脱していくわけだが