虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

『球詠』に女性は存在するか-差異の発生装置としての野球

 

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studio A-CAT制作のアニメ『球詠』キービジュアルより

 

はじめに

『球詠』はマウンテンプクイチ*1による野球を題材としたスポーツ漫画である。『まんがタイムきららフォワード』(芳文社)で2016年6月号より連載されている。

きらら系作品特有のかわいらしい女性キャラクターが登場し、彼女たちの関係性が深く描かれる一方、他校のライバル選手との対決や試合シーンの細やかな采配などの描写も多く、野球漫画としても楽しめる作品である。

原作の人気からかアニメ化も果たし、2020年3月より1クール(全12話)放映された。

しかし漫画版とのキャラクターデザインのギャップや不安定な作画によりアニメ版の評価は芳しくなかった。*2

 『球詠』は、野球を題材としている以外の特徴として(少なくとも描写される範囲において)女性しか登場しない(男性が排除されている)。

詠深たちの通う「新越谷高校」は「女子-」の接頭語がないにもかかわらず、女子生徒しかいない。ならば家政系の女子生徒の割合が多い高校かと思えば、中間テストの科目を見るに普通科のようである。

そういった状況に何の説明も与えず、男性がいない世界で「女子-」なしの「野球部」の物語が繰り広げられる。

『球詠』ではメインキャラクターに男性がいないだけでなく、モブキャラクターやセリフすら与えられていない背景キャラでさえも徹底して男性が登場しない。これは明らかに作者の意図による排除(あるいは隠ぺい)であり、それはアニメ版だけでなく原作漫画の方も今のところ一貫していて、おそらくこれからも作中に男性が登場することはないだろう。 作品世界に男性がいないのではなく、描写されないだけ と考えることもできるが、ここでは前者の立場で考える。創作された世界において、ここまで意図的に作者によって隠蔽される男性は、本当はいたとしても"いるべきでない"存在だからだ。

こういった男性の不在は他のきらら系作品でも見られることだが、『球詠』のそれは異常なほどの徹底ぶりを感じる。この作品が女性間の関係に注視する百合作品であり、作者の作風も相まって男性を排除したのだろう。

しかし、性の本質が差異であるならば、男性の無い世界で女性は存在するのだろうか。この疑問への回答として『球詠』のテーマである「野球」に着目し、その「ポジション」という仕組みが差異を作り上げ、彼ら(they)に差異があり、異なるものを欲望する意味で性を成立させていることについて解き明かしていきたい。

 

男性なき世界で女性は成立するのか

 『球詠』では徹底して男性が排除されていた。しかしこれはきらら系作品にはよくあることである。『きんいろモザイク』ではメインキャラクターやかかわりのあるキャラクターは全て女性で、男性は登場するが背景に徹し言葉を発しない。『ご注文はうさぎですか?』では男性のメインキャラクターが登場するが、主人公たちの保護者として存在している。

このように(女性キャラクターを欲望する)男性キャラは排除される傾向にあるが、これは読者への"配慮"だったり画が可愛くなったりとまちまちの理由があって、実際、その方が売れるからそうしているのだろう。

 

 男性の不在はそれ自体が読者にとってメリットであるが、作品世界そのものに男性がいないような描写をする『球詠』のそれは、いささか極端に思える。

他のきらら系作品、百合作品ではメインとしては登場しないが「男性」は存在し、踏み込んだ百合作品では自身が男性ではなく女性を好きなことについて苦悩する描写があったりする。そういった(現実の同性愛の問題を扱うという意味で)シリアスな百合作品では、男性は具体的な登場人物としてではなく概念として必要だったりする。ここでは「男性」が存在することによってメインキャラクターたち「女性」が存在し、異性愛(男性×女性)を前提として同性愛(女性×女性)が相対化されることで葛藤が生まれる。

では、「男性」のいない『球詠』の世界で「女性」は存在するのか。

 

男性とはなにか、女性とはなにかを積極的に定義するならば、生物学的特徴をあげるのが簡単だろう。

・男性は筋肉質な身体、喉ぼとけ、男性器をもつ など

・女性は脂肪質な身体、乳房、女性器をもつ など

こういった特徴を踏まえれば、女性器が確認できなくとも詠深たちは女性だとわかる。

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アニメ『球詠』公式サイト、「選手情報」より主人公 武田 詠深のキャラクターデザイン

アニメ版は登場人物のガタイがよい印象を受けるが、これも賛否をわけた。 リンク:https://tamayomi.com/character/

しかしながら、生物学的定義における「性」は異性と交わって子孫を残すためのシステムである。異性をもたない彼らは生物学的な「性」の役割をもたず、それはシステムとして破綻しているように思える。

「性」は異なるもの同士が接近して自己複製(半分は自分、半分は他方のコピー)するシステムであり、ここでは"差異があること"が特別に重要な前提となっている。差異がなければ、無性生殖で増えればよいだけだ。*3

だから、生物学的特徴から詠深たちを女性と認識したとしても、それらの特徴は異性の不在によって無意味なものとなってしまう。だから、男性の存在する我々の世界からみた彼らは女性らしいが、彼らの世界だけでは女性ではなく無性的な存在だ

 

生物学的な性差-セックスだけでなく社会的な性差-ジェンダーとして考えても同様である。

ジェンダーに関する詳しい議論は省くが、昨今のジェンダー論争ではやはり「男女の差異」が注目される。「男性が~~であるのに対し女性は~~」あるいはその逆の形で男女の社会的性差は記述される。ここでは男女共通の性質はあげられず、むしろ男女の差異(とくに対照的な差異)が「ジェンダー」とされる。

だから、やはり性=差異であり、差異のない世界の詠深たちは女性ではない。

しかし、この作品は百合作品として、隠喩的に性愛関係が描かれている。

「性」なき彼らが性愛関係-自身と異なるものを欲望する-にあるためには、なにか「差異」が必要である。性の根源が差異ならば、差異があればそれは性となり、たとえ生殖に結びつかなくとも性愛は成立する。

野球のはたらき①ペニス的象徴としての「筋肉」

 前述のように男性という性=差異なき世界に存在する詠深たちの性愛関係を隠喩するための、新たな差異について作品の題材である「野球」をとって考えてみる。

まず、この作品の感想として登場人物たちの「筋肉」への執心を感じざるを得ない。

野球は他のスポーツと同様に筋力が重要な競技である。ボールを速く・遠く投げるのにも、バットを振って球を飛ばすのにも、素早く塁に出るために走るのにも、筋力が必要である。テクニックや体のしなやかさでカバーできる分もあると思うが、やはり筋肉があるにこしたことはない。作中では「筋肉至上主義」のように扱われ、登場人物たちが体つきで対戦相手の実力を推し測る描写も少なくない。

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単行本6巻、第22球より

 

また、希はチームメイトの白菊の長打力に嫉妬しており、プロテインを飲まれそうになった際に「今よりパワーついたら困るし」と一度断っている。

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単行本1巻、第四球より。結局飲ませてあげたが「そんなにのんだらムキムキに・・・」と焦っている。(かわいい)

このように、筋肉は戦闘力のようなパラメーターとして理解されている。

 

それとは別に、芳乃の筋肉に対する偏愛を通じてフェティッシュフェティシズムの対象物)のような、欲望される存在としても描かれる。

ここでは、珠姫のような、それを所有したいという欲望の対象としてだけでなく、それと触れ合いたいという性的なニュアンスを帯びた欲望の対象として「筋肉」が描かれる。

彼女は新越谷高校野球部のマネージャー(兼、実質的な監督)であり、本人はプレーすることはないが、野球の大ファンで他校の選手にも詳しく、とくに野球選手の筋肉を直接触ることを好む。この、他者の身体的部位に触れたいという欲望はかなり性的な欲望にみえる。彼女が筋肉を触るシーンはどことなく痴漢(痴女)じみているというか、こんなの女(のように見える)の子同士だから許されてるけど男女入れ替えたらとんでもない行為だろ......と思ってしまう。この、自分と異なるものと触れ合いたいという欲望は、差異が前提にあり、「筋肉」はそれによってフェティッシュとして成り立っている。

そしてここでの「筋肉」は我々の世界における男性らしさ・男性としての有能さの象徴としての「ペニス」にそっくりである。

とはいえ、「筋肉」をフェティッシュとして追い求める姿勢は芳乃にのみ見られ(それでも作品内の「筋肉」の象徴性としては十分だが)、「基礎トレによる体づくりであの選手強くなったな」みないな描写もあって「筋肉はみんなが追い求める存在」的な雰囲気も感じる。みんなが追い求めることができる「筋肉」は、頑張ればみんなが手に入る画一的なものであって絶対的な差異というよりは、ペニス的なシンボルのようだ。

 

 

野球のはたらき②差異としての「ポジション」

 『球詠』において「性」のような差異として機能するシステムとして「ポジション」について考えてみる。

野球の「ポジション」は主に9つ。ピッチャー・キャッチャー・ファースト・セカンド・サード・ショート・ライト・センター・レフトとある。選手以外にも監督、マネージャーのような補助をおこなう存在も野球に欠かせないポジションといってもよいだろう。

これらの「ポジション」は一人一人に割り振られた役割であって、同じポジションの人間が複数いてもよいが、試合が行われるにはそれぞれのポジションが埋まらねばならない。

この役割を性=差異として考える前に、同性愛における性的な役割について触れる。

生物学的「性」のシステムでは異性の存在が前提となると述べたが、そこでは同性愛について触れていなかった。ここで、生殖ができないからと同性愛を「性」でないと否定したいわけではない。人間の性愛は生殖という本来の使命を逸脱していると思うし、それを否定したいわけではない。

同性愛においても生物学的性差の代替となるような差異、別の「性」があるからだ。

レズビアンであってもゲイであっても、性交渉の際に、「タチ」・「ネコ」と呼ばれる役割があり、それは「リバ」とか呼ばれる一部の人を除いて固定されている。

性に能動的な方を「タチ」、受動的な方を「ネコ」とよび異性愛者の性交渉と対応させれば「タチ」は男性、「ネコ」は女性の役割になるが、これは妙なことではないか。 

同性愛者は同性が好きな人たちであって、同性愛者同士の性交渉は異性愛者のそれともっと違ってもよいはずだ。同性同士の行為ならば、どちらかが男・女役にならず同一的にアプローチする、そんな手法があってもよい、というかそうであってしかるべきに思う。だけれど、実際の性交渉で、同性であっても男性役・女性役がある。これを同性の性交渉が"正当な異性愛"の模倣にすぎないからだと思ってはいけない。むしろ、同性愛にも異性愛にも共通する(タチ→ネコ)、(男→女)という"非対称な関係"こそが差異であり、「性」の本質であるのではないか。だから、同性愛者であっても、生物学的性差とは異なる差異(タチ、ネコという役割)があって、それによって「性」が成り立っている。

 

さて、同性愛での役割(タチ,ネコ)のような関係を野球のポジションでも見出すことができるだろうか。

9つの選手のポジションのうち、特権的な組み合わせがバッテリー(ピッチャー,キャッチャー)である。ボールを投げ込む投手と、それを受け取る捕手。投手と捕手はお互いに試合中最も球のやりとりをするポジションであるが、投手が打者という敵に対峙してボールを投げるのに対して、捕手の返球はただ投手に届けるためのものである。このやりとりは試合中にもっとも多くなされる綿密なものであるが、ここには非対称な関係がある。捕手が「女房役」と言われることからも、このポジションには性的な関係が連想されることがわかるだろう。

この関係を『球詠』では「性」のメタファーとして扱っている。タイトルの元になっている珠姫と詠深は幼馴染みであると同時にバッテリーであり、二人の信頼関係は作中でもたびたび描写される。

そして中学時代の珠姫のバッテリーが登場した際は詠深は嫉妬・対抗心を燃やし、かつてのバッテリーは「元カノ」のように描写されている。

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単行本3巻、第15球より

こういったシーンから、作中ではバッテリーに特別な意味を持たせていることがわかる。

 

もうひとつのポジション関係について、希と芳乃の選手とそうでないものの関係についても触れておきたい。

 

希は博多から埼玉の新越谷高校に入学し野球部に入部。恵まれたバッティングセンスから部内で最高打率を誇る選手だが、過去の試合のトラウマからチャンスの場面で打てないというスランプに陥っていた。

そうした状態を見かねた芳乃が、マネージャー・監督として希の悩みを聞き、練習に付き合う、練習試合で打順を変えるなどサポートし、二人三脚でスランプを脱した。

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単行本2巻、第11球より

こうした経緯から希は芳乃に対して好意を寄せていて、芳乃もそれに気づいていく。

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単行本6巻、第32球より

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単行本6巻、描き下ろしより

そして逆転のチャンスの場面で芳乃のために希がホームランを打つという、クラシカルなスポーツ漫画のような展開もある。

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単行本6巻、第33球より

二人の関係は、マネージャーと選手(それも打撃の花形)の関係を下地に、作中でも特に力を入れて描写されている。主人公バッテリーの詠深と珠姫の関係よりも濃厚に描かれているような気さえする。

この二人の関係も、マネージャーと選手という、プレーできないもの/プレーできるもの、サポートするもの/サポートされるものという非対称な関係による差異がはたらいているのではないか。

野球における「ポジション」(投手-捕手、マネージャー-選手)が、同性愛における「タチ」-「ネコ」のような差異の発生装置として機能していて、それによって男女のない『球詠』の世界の登場人物たちであっても性的な情動として「百合」を描くことができるのだ。 

 

結びに

<今回の要約>

『球詠』の世界には男性が存在しない。

性の本質が差異であることを鑑みれば、男性の無い世界に存在する登場人物たちは女性ではない。

そんな無性的な存在である登場人物たちは、野球における「筋肉」(ペニス的象徴)や「ポジション」(「タチ」-「ネコ」に相同)によって非対称な役割が与えられることで性=差異を獲得し、この作品は同性間の性愛を帯びた情動を描く「百合」作品として成立する。

 

こう見ると、作品のテーマとして野球と百合を選んだマウンテンプクイチ先生のセンスの高さがうかがえる。

男性の不在という、不自然な世界への回答として「野球」が用意されいることに、この作品世界の緻密さを感じざるを得ない。

そして制作陣の「筋肉」への特別なこだわりについても多少は説明できたのではないだろうか。

 

 

おわり

*1:漫画家。他著作に『ぷくゆり』『あまゆる。』など、百合作品を手掛ける。

*2:参考:あにこれの評価 https://www.anikore.jp/anime/12404/では作画の得点が最も低く総合64.5点。2020春同季春アニメで最高評価の『かくしごと』は75.1点。

*3:逆説的に、異なる者同士が交わって自己複製が起きればそれは「性」である。『球詠』世界にも両性具有(ふたなり)の人とそうでない人がいて生殖が起きているのかもしれない。しかしそうであっても、それらの「性」は、「男性」と「女性」の二項対立である我々の「性」と異なるため、ここでもやはり我々の知る「女性」は存在しない。