虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

日本萌学会ジャーナルブログ「萌え人」に記事を投稿しました。

ツイートしたとき「寄稿」と書いてしまい、今になって猛烈に恥じています。(「寄稿」は頼まれて原稿を書くことのようです。今回は僕が勝手に記事を放り込んだので「投稿」が正しい。)

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初音ミクが「コロナウイルス対策サポーター」に就任した件に触れて、

初音ミクとウイルスがどちらも虚構的な性質を持っていることについて議論し、

陰謀論のような虚構にたいして、それを切り捨てるのではなく、包摂したうえで対応するメタ・虚構的なはたらきの可能性について書きました。

文字ばっかで長い(友人談)記事ですが、よかったら読んでみてください。

 

・「萌え人」で個人的に好きな記事。

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人は本当にアニメと向き合ってるとき、無言になっちゃう。

 

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日常系が描くものってそういう日常の中で起こったちょっとしたイベントごとがほとんどで、実際のところ本当に普遍的な日常を描いているということなんて無いに等しい訳です。

つまり、ヲタクは日常系を見ているつもりでも、実際に見ているものは日常のベストセレクションであり、総集編であり、コンビニに置いてある廉価版コミックスなのです。

日常系作品への刺激的な指摘。キャラクターたちのさらに平凡な日常へと思いを馳せてしまいます。

 

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小説家になろう」の各ジャンルごとの人気作のタイトルから頻出の単語を集計し考察する記事。こういうことしたくてMeCabをパソコンに入れたものの、結局僕は何もできていない。

 

以下、この記事の欄外として補足というかおまけ的なことを書きつけます。

 

 

 

修正点:作者の意図を読み解く上での留意点

記事の執筆にあたり、日本萌学会の日本萌学会(個人)さんに一部箇所について助言をいただきました。

具体的には「メタ・虚構として」の章にて

 

<修正前>

ここで「コロナウイルス対策サポーター」の話に戻って考えると、 コロナウイルスはその身体の微小さと所在のつかめなさに由来する現実感のなさ(虚構性)をはらんでおり、それを踏まえた「感染対策」として虚構性のシンボルたる初音ミクが抜擢された と言えそうです

 

と書いていた箇所についてです。これは記事中で僕が議論しているミクさんのある種の有用性・・・のおかげで彼女が対策サポーターに採用された、というふうに読めてしまう書き方です。

これは選出者の意思を引用したわけではなく、なんの客観性も持ちえない僕の意図について書いているため、主語をはっきりさせたほうが文章の正確さを保てる、といった趣旨のご指摘でした*1

僕自身、作者の意図と鑑賞者の意図はときに食い違う ことについてよく了解しているし、作者が意図しない解釈をすることが悪いわけじゃなく、むしろそんな外部の「観客」の視点から作者も思いもよらなかった解釈を見出すことで作品の可能性が広がるんじゃないか なんて思っていました。

そんな「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」的な揶揄に対するカウンターを内に秘めながら生きているつもりでしたので、そのへんをこだわって書くべきだったなと。

 

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月刊少女野崎くん』6巻より。もはや作品よりも有名なコマ。

このあと、「脚本の人」こと野崎君がしっかり考えて作ってたというオチが続く。

 

 <修正後>

ここで「コロナウイルス対策サポーター」の話に戻りますと、

実際に初音ミク感染症対策のシンボルに任命した機関や人物が、どう意図していたかは定かではありません(もしかしたら版権的な問題やら何かの利権が絡んでいるのかもしれません)が、

コロナウイルスはその身体の微小さと所在のつかめなさに由来する現実感のなさをはらんでおり、そんなウイルスの虚構面に対応できるのは虚構性のシンボルたる初音ミクしかいないのだと、どうしても僕はそう思ってしまうのです。

 

修正後は上のように、選定者の意図は不明としつつも、筆者はそう考察しているとわかりやすく変更しました。

自分で書いていると勝手に脳内で補完してしまう部分があるので、誰かに読んでもらうのは大事ですね。卒論研究が教授の添削指導で進んでいくのも納得です。そもそも僕は冒頭のように言葉の使い方が怪しかったりするし、「」とか""とか雰囲気で使ってるし......(そこは自分で直そうね)。

 

コンテンツの「有用性」?

 

さて、該当記事では初音ミクにはコロナウイルスの虚構的な性質を包摂して、人々を感染対策へ向かわせるようなはたらきを期待できる という風な内容なので、「ミクさんの有用性についての記事」とも読めるわけですが、僕はこういうコンテンツの有用性に関する言説に興味を持っていません。

今回はたまたま自分の好きなキャラクターが、公共的な役割を振られていて、それが医療という身体性と直結した問題だったから、逆説的でおもしろみを感じて掘り下げてみただけです。

「オタクは経済回してる!」とか、「BL/百合好きは同性愛者に対して理解がある!」(これ結構ひどいと思う)みたいな主張に対しては、それ自体が間違ってるとか以前に、そんなふうに主張しないとその趣味を楽しんではいけないのか?って思ってしまう。

アニメは!!!!!面白いから観るの!!!!

心の中のホリエモン「『ちゃんとアニメみてるえらい』って言うのがバカ お前らマジで(コッ…コンッ)マジで…(コンッ)…死ねバカ」

いや、かつて宮崎勤の事件とかでオタクおよびオタク・コンテンツに対する偏見が強かった時代、社会から疎外されて生きるか死ぬか、みたいな時代にはそういう「有用性」はある種の弁護・防衛手段として機能してただろうし、そのことについてまで批判しようとは思わないけれど....

今となっては、もはや深夜アニメなんかはメインカルチャーになってるわけだし、(いや、たとえサブカルチャーだったり肩身の狭いコンテンツだとしても)それを愛好することを、

社会的に通用する理由をもってして弁護するようなことしなくていいはずなんだ。

なんの利益にもならない無駄なことこそ純粋な趣味であって、たまたま何かの役に立つことはあっても、役に立てようなどと思ってはいけない。それにこだわってしまったとき、日々を彩る趣味は無機質なトレーニングに成り下がるのではないだろうか。

なんの役にも立ちやしない無用な営みこそ、本当の意味で人生に豊かさを与えてくれるんじゃないのかな などと、夜道を散歩しながらぼんやり思ってしまうのです。

「モノを食べる時はね 誰にも邪魔されず 自由で なんというか 救われてなきゃあダメなんだ」「独りで静かで 豊かで……」

 

お礼

日本萌学会(集団)の日本萌学会(個人)さんには先述のとおり、記事の査読および修正をしていただけたこと、ならびに外部の人間の堅苦しい記事を受け取っていただいたことにお礼申し上げます。

僕自身は投稿した記事については、もちろん真剣に書いたし、よそに出しても恥ずかしくないクオリティに仕上げたつもりですが、

 

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的な(たちのわるい)ユーモアが混入しているのも事実で、日本萌学会(集団)の皆さんならびに日本萌学会(個人)さんの、ブログトップの大自然ばりの懐の深さに感服しつつ、結びの言葉とさせていただきます。

*1:三者が作者の意図について語るとき、その客観性や正確性は保証されない、という議論に関係する書籍も教えていただきました。

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