虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

『安達としまむら』--宇宙人(ヤシロ)とはなんだったのか

 

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アニメ『安達としまむら』制作:手塚プロダクション,TBS

 

  • はじめに 作品を通しての雑感と宇宙人(ヤシロ)への違和感について

安達としまむら』は2020年秋季に放映されたアニメーション作品である。入間人間の小説が原作。

・あらすじ

女子高生である安達しまむらは、体育館の2階で出会い、友達になった。二人は好きなテレビ番組や料理のことを話したり、たまに卓球をしたり、普通な日常を過ごしながら、友情を育んでいくが、やがて安達はしまむらに対して特別な感情を抱くようになる。自分の中に生まれた感情に苦悶しながらも、安達はしまむらと一緒に少しだけ変わった日常を歩んでいくことになる。

(Wikipedia安達としまむら」より)

 

 百合アニメに分類される作品。きらら系作品のようなキャラクター同士が無条件に愛をふりまく、のんびりとした百合ではなく、安達からしまむらへの一方向な情動を描いているところがこの作品の特徴だろう。

 原作が小説ということもあり、登場人物の独白(モノローグ、ひとりごと)のシーンも多く、しまむらが人間関係や周囲の人間へ冷めたことを言うのには驚いた。

ふつうのアニメだったら「友達とは仲がいいけど友達の友達とは微妙な関係になる」とか「クラスが変わったら、前のクラスの人とは疎遠になって、また別の仲良しグループをつくる」とか、そういういやなリアルさは無いことにされたり、隠される。

一般的な女子高校生特有の、とろみをおびた人間関係について、男性の僕には外部から窺い知ることしかできないけれど、美少女動物園的な百合アニメのさっぱりした、幼児的ともいえる人間関係は、やはりファンタジーなのだと思う。

もちろん、キャラクターの関係がファンタジーだから良い/悪いという話でもなくて、フィクションなんだからこそ、現実の写生にはできない魅力があるし、ガチガチのリアリティ*1があったら素直に楽しめない部分もあると思う。

 

 それでも『安達としまむら』はリアリティを選択して、独白を多用することで安達やしまむらの考えていることを明かして、人間関係の嫌さとかをちゃんと無視しないで描いている気がする。

 画像3

 舞台も現代のちょっと田舎っぽい(岐阜がモデルらしい)高校で、超常現象とか異能力もなく、そしてリアリティのある人間関係を描いているのだけれど、どうも浮いているキャラクターがいる。

 

 

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美少女形態の宇宙人(ヤシロ)

それがこの宇宙人(名前はヤシロ)。

先述のように現実味ある世界観の本作だが、彼女だけ明らかにおかしい。

釣り堀で日野が遭遇した「変なやつ」。宇宙服もどきを纏った小学生くらいの少女。自称宇宙人で超能力者であり、粒子を飛ばしそうな水色の髪と瞳を持つ。本人によれば近隣にいる「ドーホー」を探してはるばる宇宙からやってきたそうだが、その割には町内のあちこちで遊びほうけている。しまむらを気に入ってよくまとわりついているため安達に対抗心を持たれているが本人は気づいていない。しまむらの妹と仲がよく、しょっちゅうしまむら家に上がり込んでは一緒に遊んでいる。しまむら妹を「しょーさん」と呼び(「しまむら(小)」という意味)、しまむら妹からは「ヤチー」と呼ばれている。

Wikiより)

 

唐突に表れた宇宙人、キャラデザ的にも設定的にも浮いているそれに、僕は存在意義を見出せなかった。

 

…...いや、可愛いよ?可愛いけどさ、要る?

最初の方はしまむらに懐いたりして、それに安達が嫉妬するくだりがあり、しまむらへの独占欲を掻き立てるためのキャラなのかな?と思っていたが、そんなこともなく。

初登場以降も箸休め的になんどか登場するけど、物語の核(安達としまむらの関係)に絡まない。

話の間に唐突に表れ、話の軸に絡まないところは、『CLANNAD』の風子を思わせる


CLANNAD迷場面集 風子なごみ編

が、風子もヤシロ同様、特殊な設定を持っているけれど、彼女に主眼があてられる回でちゃんと説明されるし、作品の世界観になじんでいる。

 

風子のように、毎話出てくる箸休め的なポジションをヤシロが担っているならば、

"ヤシロが登場するシーン"には意味があるだろう。

しかし、そうだったとしても、おまけとして用意されているならばこそ、彼女の「宇宙人」で「ドーホーをさがしている」というインパクトのあるSFチックな設定は全く必要なく、その設定が生かされていないのならば"ヤシロが登場する"意味はない。

だから僕は、作品の世界観にマッチしない、おまけのキャラクターなのに、「宇宙人」という浮いた設定をあたえられた彼女をグロテスクに思った。そして彼女の存在意義を明かさないまま放置するこの作品に対してストレスを感じた。

この感覚は僕だけではないだろう。実際、google検索で「安達としまむら 宇宙人」と打ち込むとサジェストで「いらない」とか「邪魔」とか言われている。

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かわいそう・・・

今回は作品内での彼女の扱われ方を検討し、メタ・作品的な視点をもとに「宇宙人(ヤシロ)とはなんだったのか」を考える。

先に結論を述べると、

宇宙人(ヤシロ)は「異物」のメタファーであり、『安達としまむら』という作品そのものにとって、作品の外部にある「異物」である。

 

  • 宇宙人(ヤシロ)は作品内でどう描かれるか

ヤシロが異物のメタファーとして意図的に描かれているか、検討してみる。

初登場のとき、彼女は宇宙服を着ている。宇宙服は地球に適応したヒトが、月面や宇宙空間のような低温、低圧の環境でも活動するための装備である。

彼女は『安達としまむら』の世界とは異なる環境から来た存在なのだ。

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第2話で初登場したときのヤシロのようす、宇宙服を着ている

 ヤシロは第3話で宇宙服を脱ぎ、ふつうの少女の形態に変化するので、作品世界に順応したように思える。しかしながら、ヒトの姿になった彼女の容姿は、他の登場人物と違っている。きらきらと発光するすがたは、しまむらの妹に「妖精さん」と評され、地味目な髪色の人物ばかり*2の本作では、淡い水色の髪の毛はとても浮いて見える。

また、”「ドーホー」を探している”という設定からも、しまむらたちはヤシロの同胞ではなく、両者は異なった存在であることが察せられる。

そして物語における役割についても先述のように、"唐突に登場シーンが挿入されるが、物語の核(安達-しまむらの関係)に関わらない"ため、話の本筋から疎外されている。

ヤシロはキャラクターデザイン・設定・ストーリーについて、異物のメタファーとして意図的に描かれている。

 

  • クロスオーバーした訪問者としてのヤシロ

ヤシロは作品全体を通して異物として意図的に描かれている。異物というメタファーから特権的な意味を見出すならば、ヤシロは『安達としまむら』という作品自体に疎外されているのではないか。そして"作品自体にとって異物かどうか"を知るには、作品内の考察だけでは不十分だ。作品の外について、その枠を超えた視点から考える必要がある。

さて、原作者の入間人間は自身の小説で別の作品のキャラクターを登場させる手法(クロスオーバー)をとっている。

 

irumahitoma.wiki.fc2.com

有志のファンがまとめたWiki入間人間WIKIイルティマニア」には、ある作品に別の作品のキャラクターや設定が引用されているところを確認することができる。

 

ヤシロは『電波女と青春男』とクロスオーバーしているようだ。「降りるところを間違えたようです」という台詞に示唆されるように、

彼女は『電波女と青春男』の作品に登場するはずだったが、『安達としまむら』の世界に不時着してしまった

のではないだろうか。

入間人間の作品では様々なキャラクター(シャーマン田岡とか)がクロスオーバーして共有された世界にあるが、すべての作品の世界観が統一されているわけではない。

安達としまむら』の世界観では説明できないヤシロ(おそらく、『電波女と青春男』の世界観で説明される)が前者の作品に混入してしまったのだ。

 

  • 宇宙人(ヤシロ)とはなんだったのか

ヤシロは『安達としまむら』の外からやってきたキャラクターだった。それゆえにこの作品の世界観では彼女の存在を説明することはできず、物語の核に関わることはできず、作品の内部でその必要性を提示することはできない。

けれども、宇宙服や「ドーホー」を探す--異物のメタファーとして彼女が描かれていることを考えると、この作品への訪問者は彼女以外にあり得ないように思えてくる。

 キャラクターデザイン・設定・ストーリー・メタ作品的機構(クロスオーバー)を総動員して異物としての使命を果たすキャラクターなど、ほかにいるのだろうか。

 

現実的な舞台で、人間関係を描く『安達としまむら』の世界観ではヤシロの存在を説明できない。

けれども、そんな異物の彼女について「なんか変わった子だな」ぐらいの認識でフラットに受け入れてしまうしまむら達を見せることで、

ヤシロは『安達としまむら』の世界観を説明しているのだ。

 

本作は「間に挟まるもの(外部の異物)」に対する風当たりの強い「百合」を売りとした作品でありながら、ヤシロという"作品の枠を超えた特級の異物"を受容しているのだ。

 

ここまでヤシロについて論じてきたが、この議論自体もまた、(かなしいことに)この作品の核には関係ない。

けれども、だからこそ僕は "フィクションから疎外された異物" として、ヤシロが『安達としまむら』に受容されることに感動してしまうのかもしれない。

 

 

 

*1:いやなリアリティの例:『ごちうさ』のシャロちゃんは特待生として憧れのリゼ先輩と同じ学校に通えていることを誇りに思う反面、経済的に苦しい生活をする自分に負い目をもっていて、お嬢様学校の同級生とかは実家が太くて、学校にいるときは制服を着てるからあんまりわかんないけど、休日あったときとか、みんなハイブランドのしっかりした服着てて。それもバイト代頑張ってためて買ったとかそういんじゃなくて、親から与えられてて、それをあたりまえのように享受していて。かたや自分は上下ユニクロで買った服で、それも結構頑張って選んで気に入ってる服なわけ。でも同級生と比較すると、そんな金銭的にできる範囲で一生懸命おしゃれしてる自分が恥ずかしくなっちゃってさ、「なんかコンビニいくだけだったから適当な格好してる」みたいな風に振るまって、家に帰ってちょっと両親や自分の境遇に悲観して、でもシャロちゃんはいい子だから環境のせいにしてしまう自分にたいしても嫌悪感を抱いて、自分なんかがリゼの隣にいていいのだろうかと悩んでしまう......みたいな。

*2:この作品ではしまむらのように「髪の毛の色を染める」ことに言及がある