虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

ゆるやかな社会のマインド・オブ・キャンプ--『ゆるキャン△』について

 新型コロナウイルスの流行は僕たちの生活を、ヴァーチャルなものへと転換させた。人と人の接触が感染を引き起す以上、パンデミックの収束のためにはみんなが家に籠る必要がある。

高度に発達した情報伝達技術のおかげで経済活動や教育などの実務はおろか、映画やライブ鑑賞のような文化的な活動もオンラインで代替できるようになったが、今までのすべての活動がオンラインに転換できたわけではない。

観光やキャンプといったレジャーは身体の移動、それ自体が目的の一部であるために、家のディスプレイで現地の様子を眺めても満足できるものではなく、疑似的な活動体験がむしろ現実で楽しむ欲望をかきたてるような気さえしてしまう。

今季(2021冬)放送中の『ゆるキャン△SEASON2』は、まさに身体の移動が(法的・物理的な効力はないが心理的に)制限されている真っ只中に、アニメーションという実写よりもヴァーチャルなメディアを通して、キャンプや観光といった移動のレジャーの楽しみを視聴者に見せつけている

 そんなタイムリーな作品である『ゆるキャン△』を見ていて印象に残るのは、先述したキャンプ・観光がもつ移動の快楽はもちろんのこと、なでしこやリンたちの関係の「ゆるやかさ」ではないだろうか。

 

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TVアニメ『ゆるキャン△SEASON2』公式ポータルサイトより

© あfろ芳文社/野外活動委員会

 

 

 

ゆるやかなつながり

 『ゆるキャン△』は富士山を望む山梨に住む女子高校生たちが、アルバイトをしながらお小遣いを貯めてアウトドアグッズを買ったり、実際にキャンプ場に行ってキャンプをしたり、キャンプはしないが旅行を楽しんだりする作品である。

孤高のソロキャンパーの志摩リン、料理が大好きで初対面の人ともすぐに仲良くなる各務原なでしこ、野クルの部長で頼りっぽいけど抜けている不人気大垣千明、のんびりとしていて悪戯好きな犬山あおい、リンとは仲が良いがアウトドアをするわけではない斎藤恵那。

性格やキャンプに対する考えかたの異なる5人のメインキャラクターが、お互いにつながりながら、しかし集合(アセンブル)することなく物語は展開される。

アニメ1期最終話のクリスマスキャンプにて、彼女たちはついに5人でひとつのキャンプを実現する。未来の5人が同じように一緒にキャンプを楽しむ描写が挿入され、集団の関係がこれからも続くことが示唆される。しかし物語はこのまま終結することなくBパートに入り、それぞれの日常が再開されることを示して1クールの幕を閉じる。

2期以降も相変わらずリンは単独でツーリング・キャンプを繰り返すし、なでしこもソロキャンプを始める。リンと桜(なでしこの姉)が旅先で出会ったり、恵那が千明とあおいの3人でキャンプをしたりと、まるであらゆる組み合わせコンビネーションを網羅するように、彼女たちは複雑なメンバー構成をとるようになっている。

これはデザイン、性格類型の異なるキャラクターたちが「部品(パーツ)」として集合し、バランスの取れた一つの「完成品(ユニット)」を構成する......日常系・部活作品の典型から離れたストリーの運びではないだろうか。

 

作品全体の雰囲気から考えるに、『ゆるキャン△』ではおそらく共同体というものがきわめてフレキシブルで、曖昧なものになっている。別の言い方をすれば、「自治体」だとか「学校」「部活動(クラブ)」などのコミュニティについて、旧来の静的で厳密なメンバーシップを確保することが重視されず、共同体自体が無効化されてしまっているのだ。

 

先ほど、登場人物たちの組み合わせ的なメンバーの流動性について触れたが、メンバー内の立ち位置もまた流動的である。

ゆるキャン△』はキャンプをテーマとしているが、アウトドアがまさに「out+door = 屋内という日常の生活領域の外」を志向するように、遠くへの移動がよく描かれる。

なでしこが浜松から山梨へ引っ越してくることから物語は幕を開け、本編の1期と2期の間に放送された『へやキャン△』では、千明とあおいがなでしこのために山梨の名所を紹介していた。

このときなでしこは県外からの訪問者であり、観光客的な立ち位置であったが、2期3話では彼女が地元民としてリンに浜松を案内している。

県という物理的・社会的境界を越え、なでしこは山梨では訪問者、浜松では現地民としてその立場を変化させている。

1期と『へやキャン△』によって山梨に定着したようにみえたがしかし、祖母のいる故郷の浜松では現地民として振る舞う彼女の姿は両義的に感じるけれども、山梨になじめていなかったとか、本当は浜松に帰りたがっているようには思えない。

山梨と浜松の両方を満喫しているようにみえるからこそ矛盾を感じてしまうが、もし彼女が自治体という社会的な概念を無視していたらどうだろう。

 

ゆるキャン△』は現実に実在する名所を取り扱う、聖地巡礼の楽しみがある作品だが、そのエリアはいち地方自治体の範囲を超えている。

「聖地」となった自治体と作品のコラボレーションはさまざまな地域で行われており、地方創生に一定の効果を上げているようだ。

例えば『ガールズアンドパンツァー』の大洗、『ラブライブ!サンシャイン!!』の沼津などには「この作品と言えばここ!」といった作品-自治体の一対一の対応があるが、『ゆるキャン△』は複数の自治体--というよりはスポット--が聖地となっている。

山梨、長野、静岡に点在する聖地は自治体ではなく富士山のような自然物をベースとしており、自治体という人間がつくった社会的な枠組みを無視している。

 

県や市のような自治体は自然的な境界ではなく社会的な境界で区切られた政治的な場である。

政治的な場が機能するには、カール・シュミットが言ったように敵・味方の区別が必要である。政治とは敵・味方が明確に分別されることではじめて成立する。

「敵」とまではいかなくてもコミュニティの外部の人間が誰か判別できないと、その内部もまたわからず、だれに選挙権があるのか、だれが行政によるサービスを受け取れるのかわからなくなる。

ここで急に政治学者の名前を出したのは、政治の話をしたいからではない。

文章をそれっぽくしたいという気持ちもなくもないが、シュミットのように敵/味方の概念、コミュニティの外部/内部の対立について注目することが、『ゆるキャン△』を語る助けとなると思うのだ。

自治体に準拠しない振る舞いをみせるなでしこ。そしてメタ・フィクションのレベルからみても複数の自治体をゆるやかにまたいで聖地を生み出している『ゆるキャン△』とい作品そのもの。

この共同体の超越--あるいはその無視--はさらに小さな社会領域でも見つけられる。

次は日常系作品では欠かせない「学校・部活」についてみてみよう。

 

ゆるキャン△』の脱-学園性

部活動をスポ根的なまなざしからではなく、日常的な営みとして描く作品は『けいおん!』がヒットした時期くらいから安定した人気を誇っている。

最近のアニメでも、『恋する小惑星』(2020冬)、毛色は異なるが『映像研には手を出すな!』(2020冬)、『放課後ていぼう日誌』(2020春)などの作品は「美少女×趣味」的なテーマをもちつつ、少女らの活動の場が学校の部活動(同好会)であることが物語の根幹に関わっているように思える。

 特に『放課後ていぼう日誌』では釣りの楽しさにふれた陽渚が、いままでの自分の趣味を続けて手芸部に入るか、生き物に対する苦手意識を克服して「ていぼう部」に入るかの葛藤を丁寧に描いていた。

本来は個人的な営みにすぎない趣味を部活動を通して描くことは、軽音楽のような多人数を必要とする趣味についてはメンバーの結成を自然なものにしてくれるし、文化祭や入学・卒業式といったイベントも用意できる。

「学園もの」の系譜をたどりながら、(主に女子)高校生が部活動という学校に管理された場で趣味に打ち込む構造は、ストーリーの展開やキャラクターデザイン、読者のニーズなどから総合的に面白い作品が生まれるのかもしれない。

しかし教育機関に管理された部活動では「趣味」の豊かさ--なんの役にも立たない個人的な活動という本質--を欠いているように思えてしまう。

 ひるがえって『ゆるキャン△』では、メインメンバーのなでしこ、あおい、千明の3人は高校の野外活動サークル(通称:野クル)の部員だが、しまりんと恵那は野クルに属していない。

ふつうの部活ものの流れでは一緒にキャンプに行って仲良くなるうちに2人が野クルに加入することが期待されるが、なかなかそうはならない。

千明たちもそれとなく勧誘するが、キャンプに対する価値観の違いを尊重して無理に引き込んだりしない。というか、視聴者にとっても2人が野クルに加入する必要がないように思える。

というのも、この作品では学校だとか部活という枠組みの存在感が薄いのだ。

アウトドア以外の日常的なシーンでもアルバイトをしている姿が見えるし、教室で授業を受けているシーンも少ない。このような学園性の欠如が、社会人のファンを共感させ、キャンプ場(聖地)へといざなっている要因なのではないかと思うのだが、とにかく学校=教育的なシーンが少ない。

教育現場では、教師/生徒の区別や外部の生徒/内部の生徒といった区別が必要である。

だれが教師で、だれを指導するのか、どの生徒まで指導する裁量を得ているのか、

学校指定の制服によって生徒たちの所属は顕在し、学年・クラスでさらに細かく分別される。ここでも政治のように外部/内部の区別がはたらいており、その区別こそが学校をメンバーが明確な共同体たらしめている。

たしかにメインキャラクターの5人は同じ学校に通っているが、リンとなでしこの出会いはキャンプ場=学外だったし、リンと桜の関係は学校という枠組みを超えている。

 

 生徒の彼女たちと対置する存在=先生が登場する場面を振り返ってみると、2期6話は危機的な回だった。

千明、あおい、恵那が冬の山中湖でキャンプを決行する。昼間は新調したアウトドア用の椅子に腰かけながらのんびりと過ごす3人であったが、日没が近づくにつれ気温がどんどんと下がっていく。

凍えそうになりながらも焚火をしたり、コンビニでカイロを買って夜を乗り越えようとする3人。携帯の充電が切れ、キャンプ場の管理人も帰ってしまう絶望感のなか、薪ストーブを装備した別のキャンパーたちのテントに入れてもらうことで寒さをしのぐのであった。

 

キャンプは楽しいレジャーだが、自然は僕たちを癒してくれるだけでなく、ときには容赦なくその生命を奪ってしまう。アニメというヴァーチャルな体験から実際にキャンプを始めようとする僕たちへの教訓めいた注意として、駆け付けた野クルの先生が千明たちを咎める。

これはキャンプの教育的な側面が前景化するという意味で、クリティカルなシーンだ。

 

 文明的な生活から離れて自然の中で集団で食事を作り寝床を用意することは、自然とのふれあいの機会を与えるとともに円滑な集団生活のためのコミュニケーションを向上させたり、親の庇護のもとからの自立心を養う。原始的な生活の再体験は子供たちの「生きるための力」を目覚めさせ、環境への問題意識や自然観を形成するのにかけがえのないカリキュラムになっている。

キャンプとまではいかなくとも「林間学校」と呼ばれるイベントを経験したことのある人も多いのではないだろうか。

 

 そのようなキャンプの教育面があらわになる契機こそ、「大間々岬の冬」だったのだ。

しかし、この回において公的な教育機関「学校」の代行者たる先生はきわめて慎重に無力化されている。

そもそも、先生が生徒たちのキャンプ場へ駆けつけたのはリンからの連絡があったからだった。3人が山中湖でキャンプすることを知ったリンが冬のアウトドアの危険性を察知し、気を利かせて先生に「通報」したことで先生は事態を把握することができた。

この時点ですでに3人が学校の管理下から離れていることが分かる。

とくに恵那は野クルの部員ではないため、彼女たちのキャンプは学校の管轄を離れた私的な営みなのだろう。部活の顧問に連絡もせずにキャンプ場に来ていることからも、彼女たちの学校を軽視したスタンスが伺える。

そして、先生が来る前にたまたま居合わせたキャンパーによって彼女たちは「救助」される。学校の庇護のもとから離れた3人は、学外の者によって保護されたのだ。

 

ここでは「学校」が二重の意味で無力化している。

ひとつは生徒を管理下に置いてその行動を見守る機能の不全。もうひとつは生徒に降りかかる--あるいは生徒が引き起こした--トラブルを解決する能力の不全。

教育の場では学校=教師はあたかも全知・全能の神のごとく生徒に対置するが、この回ではそんな「学校」の能力--実際には学校にそんな能力はないが、生徒に対してそう見せかける「神話」にこそ意味がある--が失われてしまっている。

事後に現れて3人に指導したのちに学外の・・・キャンパーから差し出された酒をのんでべろべろに酔っぱらってしまう先生のすがたは、共同体が集合することで現れる「学校」というリヴァイアサン的怪物が無力化されたようだ。

ゆるキャン△』での学校の扱いをみると、キャラクターたちが学校という枠組みに囚われていないというだけでなく、その「学校」という共同体自体が生徒を管理するだけの能力を持っていないことが示唆される。

野クルのメンバーは部室を与えられ、多少なりとも学校からの援助を受けているが、顧問に無断で危険なキャンプを決行しているし、そのメンバーにも部員以外が混じっている。

学校という共同体のなかにいながら、それを無視した振る舞いをすることには反社会性を感じるが、これは暴走族を結成するような行為とはズレている。

 

 共同体からドロップアウトしたものたちが寄り集まってつくるもの--暴走族だとか宗教団体、コミューンやオンラインサロンなど--は、また別の共同体に過ぎない。

そこでは学校のような表の世界の外部にて別の共同体が再生産され、共同体の悲劇はまた繰り返されるだろう。

この反復から抜けだすためには、共同体の内部からその意味を揺るがすような、ハッキング的な試みが必要なのではないか。

山中湖での一件は、学校の内部にいる千明たちが、学校の恩恵を受けながらしかしそれを無視することでその「脆弱性」を発見した一幕であった。

 

そしてこの共同体を無視--そもそも共同体には注視するに足る能力などないのだと看破--して個人のつながりを重視する試みの実践こそが、『ゆるキャン△』の世界観であり、人々が自治体や学校のような枠組みに縛られずに個人-共同体の内包関係としてではなく、個人-個人のつながりとその連鎖(つながりがつながる)によって形成される「ゆるやかな社会」なのだ。

 

この「戸籍」によって管理されることのない「ゆるやかな社会」はキャンプという揺籃のなかで育まれたものである......というふうに考える。

 

キャンプの精神

 変わらない日々のトビラを開け、外へ、自然の中へ。

折りたたまれ圧縮された住居を三次元に展開して、コンロに火を灯せばそこはもう完結した生活圏になる。

キャンプとは野外で生活を営むことにほかならないが、そこでの営みは一時的なものとされる。

僕たちが動物を狩ることに明け暮れていた時代は、キャンプこそがメジャーな生活様式だった。即席で一時的な営みの連続に身をおき、一年を過ごしながら獲物や住みよい場所を求めてさまよっていた。やがて米のような穀物を手に入れ農耕をはじめるようになると、安定した食料と人が集まり貯蓄の概念が生まれた。

住居をコロコロと変える不安定な生活はモンゴルの遊牧民のようなごく一部の人々をのぞいて淘汰されていった。

農業が主要な産業ではなくなった今でも、農地を必要としなくなったからこそ僕たちは同胞がいるところを好んで寄り添い生きている。

東京都の人口は1000万近くまで膨張し、名も知らない地方の集落はひっそりと死んでいる。

 

 人の集まるところに住み、労働を貨幣に交換する都市的な生活はあっという間にスタンダードなものになった。

そんな現代においてキャンプをすることは、窒息しそうな人の群れから飛び出す行為なのだろうか。

しかし普段の生活圏を飛び出して野営することと、現地の旅館に宿泊すること、両者の差異はなんだろうか。

旅館やホテルといった宿泊施設は、だれかが管理している。オーナーが経営し、雇われたスタッフがマニュアル通りにフロントで案内し、料理を用意し、掃除する。

家から飛び出したとしても、施設に宿泊している限り、他者のサービスに依存した生活を送っているのでは場所が変わっただけでその「営み」自体は同じだ。

 

キャンプではテントという最小限の持ち運べる住居にすっぽりと潜り込み、自分で火を用意して食事を作る。

ラグジュアリーなもてなしは受けられないけれど、そこには圧倒的な孤独と自由さがある。

キャンプの道具さえあれば最低限生きていけるということ--「営み」を移動させることができるということ--は、自分の生活圏を動的なものに変化させてくれる。

物理的な生活圏の移動--移動可能性--が、社会的な生活圏も変質させるとしたら。

狩猟採集生活から農耕をはじめた人類が農地に縛られた結果、富という概念と権力者を生み出し戸籍が発明されたように、キャンプによって都市部にいながら移動の可能性を手に入れることで、静的な共同体は透明化する と考えてしまうのは大げさだろうか。

キャンプの移動は確かに一時的なものにすぎないけれど、一時的だからこそ「引っ越し」のように生活の再生産としては回収されない、独立した営みとして日常に影を落とす。

リンが原付にキャンプ装備一式を載せて県境を越えるとき、彼女は自治体の概念をその内部から揺るがしているのだ。

 

 

 静的な共同体が薄れゆくときに、キャンプ場で彼女たちはLINEのようなSNSでやりとりをしている。

そこではグループのような機能は確認できず、一対一の人間関係が物理的な距離をこえて維持されている。

組み合わせ的な複雑なメンバーの変化も、それぞれのつながりの結果として考えれば自然だ。

そこには学校・部活のような内と外を区別するような膜は存在せず、ただ個人と個人がつながり、「つながりのつながり」はコミュニケーションのグラデーションをつくり、ゆるやかに人と人を結ぶ。

キャンプ場にテントを張るように、アドホック(限定目的)な共同体は一時的に形成され速やかに解体される。

クリキャンでの集結はその時においてのみ有効で、それ以降は異なるパーティが形成された。

キャンプが提示する物理的な生活圏の移動可能性は、社会的な人々の生活圏--共同体--を無視し、より動的なオルタナティヴだが古めかしい共同体のあり方へとキャンパーを導くのかもしれない。

 

 このようにして『ゆるキャン△』は「美少女×趣味」作品でありながら、学校・部活を透明化し、趣味=キャンプの精神性をキャラクター同士の人間関係まで還元している。

ここでは「キャンプ」部分についてのスロット・マシンのような交換可能性はなく、これがこの作品独特の雰囲気を醸し出すとともに、文学的な手触りを与えているのではないだろうか。

 

家から、自然へ。膜の中から、外へ。

自治体・学校を超越する彼女たちはテントの隙間から星座を眺めながら、この空には境界なんてないと、ささやく。