虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

シン・エヴァを観て、その周縁で

この記事は該当映画に関するネタバレを含みません。

 

『シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版:||』を観てきました。

 

 田舎に帰省してるのにわざわざ歩いて最寄り駅まで行き、異様に高い運賃を払って権堂へ。久しぶりに乗った長野電鉄の乗り心地は相変わらずで、しみったれた単館系の劇場のごわついたシート--ジュースかビール、あるいはそれらの成り果てとしての体液か知らない汁がたっぷりと染み込んだような色をしている--に腰を落として、ぼんやりと車窓を眺めていた。

対面の高校生は部活動のジャージを着ていて、隣の受験生と思しき女子生徒は英語の単語帳をめくっていた。国公立前期の結果がまだなのか、後期試験に備えているのだろうか。僕は電車通学しなくてもいい近所の高校に進学したから、電車について思い出も思い入れもないけれど、帰省に際して過去を探してしまうのは、この土地を終わったものとして了解しているからかもしれない。

 

僕が回顧できる時間範囲はせいぜい4~6年ほど。

エヴァンゲリオンのテレビシリーズ、『序』・『破』はおろか『Q』が公開された2012年は13歳。

そのときも、なんとなくそういうガンダムみたいな作品があることを知っていたけどあんまりハマってなかった。

たぶん今の三十台くらいの人たち、思春期にリアルタイムでテレビシリーズを観ていた人たちが第一フェーズで、メインストリームのファン層で、僕はその世代を後から追うような距離感を感じていた。これはまさに今も思っているエヴァの世代間、ギャップなんだけど、でも同級生でもエヴァに酔狂していた人はいたなぁ。

なんだか忘れてしまったけど、同世代の中学生が集まってバスに乗ってどこかへいくイベントがあったとき、コミックスを全巻持ってきたヤツがいて借りたっけ。なぜか途中の巻から渡され、かつバス酔いがひどかったのでロクに読めなかった。

そーいう、エヴァーに対する思い入れが深い人とのギャップを自分のうちに感じてしまうから、僕はこの映画についていろいろと言えない。

作品に対する精神的なつながりや経験といった神学的理解がないとうかつに語れない、そんな規範を感じるので、僕は作品の周縁で、その封印柱の外部--いや、内部なのだろうか?あるいはそれらのふち--にて たたずむしかない。

 

とはいえ、純粋に映像作品としてすごくおもしろかったし、楽しめた。

エヴァとヴンダーがガッシャガッシャぬるぬる動いてて気持ちがよかった(小並感)。

アニメーション作品としての表現の限界にも挑戦していて、確実にひとつの時代を作った作品の終着として、到達点としてよかったんじゃないでしょうか*1

 

作品の深部(テーマ・構造)について触れられないので、アクションの快楽と表現の新規性について表面的に語ることしかできそうになく、それはひどくつまらないので黙ったほうがよさそうだ。

 

シン・エヴァを観た一番の理由は、ほかの人、とくに青春とその痕跡をエヴァに残した人たちがどのようにこの作品を解釈し、この神学的作品を語るのかが気になるからだ。

*2

 

 これ以上散文を連ねても、専門的なテクストにたいして

なるほどわからん!」とか、「うーむ、わからないことがわかった」などと石をコツリと投げるような、冷やかしにしかならなそうなのでここらへんで閉じよう。

 

あ、綾波(のそっくりさん)は可愛かった。

 

 

 

 

*1:往々にして「よかったんじゃないでしょうか」というのは、「よくなかった」と感じる人がいる場合にのみ使われる。

*2:僕の学部の同期で、お酒を飲むたびに「いままでの人生は灰色だったが、『ラブライブ』と出会ってから人生に色がついた」と語る友人がいて、僕は彼の一回性の虚構経験を奇跡として理解し、ネタだとか物珍しさを抜きにその経験と、それを語れる彼を尊敬している。

彼と僕と共通の友人の3人で、試験が終わるたびに会合--野口3枚程度の居酒屋で適当に飲酒したあと、カラオケに行くか、誰かが体調をきたして友人宅に避難する愚者の宴--を開いていた。

彼は今年の春から臨海研究所に配属される予定なので、これからはなかなか会えなくなりそうだ。

ラブライブ!!』は虹が咲の次のフェーズもはじまりつつあり、コンテンツの寿命はまだまだ続くのだろうけど、その終焉--彼にとってはμ'sの解散こそ紛れもない終演かもしれないが.....--にて、彼が何を語るのか知りたいという気持ちがある。