虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

ぶり大根と再現性

ぶり大根を作ろう(唐突)

 

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ぶりはあら・・かま・・を使う。ほんとはあら・・だけで作ろうと思ってたが、近所のスーパー2軒回ってもアラが十分量に満たなかったのでカマを追加した。

ぶりは高価なお魚だがアラは最も価値の低い部位の寄せ集めなのでかなり安く、切り身のだいたい半値以下で手に入る。
半値以下で手に入るが、そのぶん処理が難しく、ただ焼いて食うってわけにはいかないのでじっくり料理できるときにしか手が伸びない。

 


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ぶりアラとカマを一口大くらいの大きさに切る。

魚のアラは骨とその周りの肉や皮で構成されているわけだが、肉の切れやすさに対して骨が圧倒的に切りにくいために、その切断に必要なエネルギー・時間はほとんど骨を断つのに費やされる。

だから「アラを切る」ということはほとんど「骨を切る」ということなのだが、

その実際の動作としては包丁を使って、その包丁といっても家庭用のさして研いでもないなまくらなので、硬い骨を切断するために、その鈍らの背をドンドンと叩いてごりごり少しずつ刃を進めることになる。

その所作は「切る」というよりはきわめて「削る」に近く、したがって「アラを切る」は「アラを削る」と言い換えてしまってもよい。

 削ったアラは後で洗うので塩を小さじ1振っておく。


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アラを削ったあとは大根を切る。

包丁をつかってざっくりを皮を剥ぎ、2センチほどの輪切りにしたあと、半月の形になるよう二分割する。

面取りをすると煮崩れしにくくなり、隠し包丁を入れると味がしみこみやすくなるのだが、 煮崩れに関しては気にしないこと、味の染み込みについては時間をかけて煮込み・寝かせることで問題にならないため、さらに包丁で細工しない。

逆に面取りまで手を付け始めると「自炊」の域を超えてしまうのではないか。

僕にはそれが怖い。

日常的な営みが、単純な作業--それもシンプルすぎる繰り返しがゆえにある種のリズムの快楽を帯びるような、それ自体はごくつまらない作業--にとどまらなくなったとき、過剰なまごころが宿るとき、そのこだわりは時に人(他者だけでなく、自分自身とも)と衝突する可能性をはらむ。

 

 

このとき切り出した大根の皮は適当な大きさにカットしてポン酢に漬けとくと美味しく頂ける。

大根の皮を美味しく頂けるようにすることで、大根の皮を美味しく頂けるだけでなく、多少厚めに皮を剥いてしまったとしても、まぁ漬物として食べるからいいか、と思うようになり損した気分にならない。

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漬けるのにシップロック風のビニール袋を使うと少量の液でもしっかりと漬かるので損した気分にならない。(画像は大根の量に対してちょっと多めにポン酢を使ってしまったので、僕は少し損した気分になっている)

 

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塩を振っておいたアラにほぼ熱湯(沸騰したあとに水を少量加えるなり、沸騰後少し冷ますなりして90℃ほどにした熱湯)をかけたのち、水をかけながらアラの表面を洗う。

店頭に並んでる食品なんて洗う必要などあるかと思うかもしれないが(僕はそう思っているのだが)、写真の通りけっこう汚れがとれる。

まぁ汚れに見えてるけど、熱湯をかけたことで剥がれ落ちた魚の断片や脂がほとんどなのではないかと疑ってみたりもするのだが、こうしておくと清められている気がするので、ついしてしまう。

 

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 ショウガ半かけらほどをざっくりとスライスしたものを臭み消しとして加え、

水:酒=3:1の液で煮込む。

ここでは水600ml料理酒200mlで煮込んだが、鍋の大きさや具の量と相談して調整するとよい。

 

ひとにたちしたら灰汁をとって醤油・砂糖大さじ4で味付けし、落し蓋をして気が済むまで煮込んで完成。

煮込みの終盤で蓋を開けて強火で一気に過熱して水分を多少飛ばして味を調整するとよい。

 

 


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完成品。

味付けが醤油と砂糖だけなので味が足りないのではと思ってしまうけど、酒とアラの出汁で十分味が出ていて美味しい。

素材の性質からして綺麗に食べるのは難しいが、あらかた食べ終えて残った汁にご飯を入れてチンしたのち、生卵を溶き入れると魚の脂や出汁を最後まで美味しく頂ける。

 

よく「料理は科学(化学)だ」と言われる。

これは科学の再現性を引き合いに出しての言説だと思われる。

同じ食材を使って同じ手続きで料理をすれば、だれがどこで作ろうと同じ味にたどりつける というのは至極真っ当な考えだ。

だから「料理は愛情」などというのは欺瞞、あるいは行き過ぎたヒューマニズムなのかもしれない。

ただ(「料理は愛情」かどうかは置いといて)、「料理は科学」--あらゆる料理は食材と調理を精密に管理するによって精密に再現可能--だったとして、それを評価する人間サイドの価値基準はあまりにも曖昧ではなかろうか。

 

育った環境や遺伝的特性によって人それぞれ味の好みは違うし、さらに言えばその好みだって長期的・短期的に変化する。子供の時は大嫌いだった漬物の類がロースカツよりおいしいと思ったり、体育でマラソンがあった後の水道水は家でぼんやりと飲むコカ・コーラよりもおいしかったりする。

個人的な変化だけでなく、だれと・どんな気分で食べるかによっても味は変わる・・・・・

 このふらふらと「うまい/まずい」の指針がゆらぐ僕たちのような曖昧な測定器に対して、「料理は科学」とした厳密な料理は必要なのだろうか。

材料と手法どおりに緻密に合成された料理よりもむしろ、いかに王道のレシピから逸脱し、食べる人の揺らぎに合わせた料理を提供するかのほうが実態に即しているように思う。

食べる人の曖昧な好みの揺らぎを認識するには、その人の通時的な特徴を抑えたうえで、「今」の微小な変化を捉える必要があるだろう。

再現性が担保されたレシピの不変性を軸としながら、食べる人の機微を察知しレシピから逸脱する柔軟性...これを兼ね備えるのが最高の料理だとしたら、それは料理人と食べる人の揺らぎが合致する奇跡であり、「料理は科学であり、愛情だ」と言ってもいいかもしれない。

 

......まぁ僕はさっき作ったぶり大根5人前を一人で消費するのだが。