虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

レトルト・パウチとパスタを茹でる

 「パスタの主食としての有用性について―」

彼女は500g入りの乾燥麺のパッケージをびりびりと破いた。

パスタの主食としての有用性―スーパー・マーケットやドラッグストアにて100gあたり数十円ほどで並ぶ安価な乾燥パスタは、場合によってはインスタントラーメンや蒸し麺よりも安く、それでいて長持ちする。

小麦を練って成形し、水分を飛ばすことで腐りにくく・軽くして保存し、いざ食べるというときには水と熱を加えてやれば元に戻る。この乾燥と湿潤の可逆性によって、僕たちはパスタの状態を保留することができる。

ほっそりとして白い中指と親指で作った輪で、麺たちを掬い上げ、ぐつぐつと水道水を煮ているフライパンに同心円状に花が咲くようにパスタを放つ。

からからになってしまった麺たちに水と火をささげて、かつての状態を思い出してもらう。十分足らずで麺たちの一本一本は結晶のような堅苦しさをほどいて、柔らかなカロリー源にもどってくれる。

塩を3本の指でつまんで撒く。

 「パスタを茹でるときに塩を加える理由については、単なる味付けだとか浸透圧の影響で麺の水分量が変化するだとか言われているけれど―」

海のようだ、と言う。あるいは祈りのようだと。

 

生命は水でできている。高温と熱風にさらされた乾燥麺は、何重も死んでいる。

かつて地から水を吸い上げ、日の光を受けていた小麦は、刈られ挽かれ練られて切られ乾かされ、そのたびに生命から遠のいていく。

それを再び巻き戻そうとするのなら、それも自分が生きるために物質から生命の方へ取り返そうとするのならば、そこには海が必要だと。

イタリア人は塩がないなら海水でパスタを茹でると聞くし、生命のはじまりは熱水噴出孔という暖かな海水域ではないかと言われている。

はじまった生命は絶えず増殖し・変化し、それぞれのありようは僕たちと小麦のように異なっていった。進化は不可逆なプロセスで、パスタを水で戻すようにバラバラになった僕らの姿ありかたを元に戻すことはできない。

麺を箸でくるくる躍らせたら、レトルトのパスタソースを袋のままフライパンに沈める。

薄くて強固な樹脂の小胞によって密閉されたミートソースは「海」に溶けることなく漂っている。

 「面倒だから。」

すこし困ったような眉をして笑う。

かまわなかった。

携帯電話のアラームが鳴った。

指先を使ってすっかり熱くなったレトルト・パウチをつまみ出し、ざるに麺と「海」を潜らせる。

ざるは麺だけを捉え、再び空になったフライパンにそれを返す。

ソースを麺に垂らす。パスタから染み出た澱粉質のせいでパウチがぬるぬるして封を切るのに苦戦していた。

さて、このパスタを再び乾燥させたとして、もとの形に戻るのだろうか。

あるいは、再び乾燥させたこれを茹でれば、同じような味わいがするのだろうか。

いや、そんなことは。

ぬめぬめと「海」に溶け出した澱粉のように、反復の前後で何かが少しずつ失われていくように思う。

海水の浸透圧など素知らぬ顔でぷかぷか浮かぶレトルト・パウチのように、海を拒絶しない限りにおいて。