虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

「ヤニカス」から離れて、「喫煙者」であるために

 僕はタバコを吸う。ひょんなことでタバコの箱を手に入れてから3か月ほど愛煙している。ニコチンは眠気覚ましに効く。アパートのベランダから見上げたところに木があって、カラスが巣でもぞもぞするのを椅子に座ってぼんやり眺めながら吸うのがすきだ。僕が喫煙に至った直接の原因は大学院入試のストレスだが、思い起こせば文化的な影響の蓄積も多々あるように感じる。洋画や文学にはタバコがよく出てくる。お酒と比べて特段うまそうに描写されることは少ないが、煙が醸し出す退廃的な雰囲気には独特の魅力がある*1。飲酒も喫煙も本人の身体を破壊する。ゼミに遅刻しまいと坂道や階段を駆け上がったあとの息切れが日に日に苦しくなっている。嫌でも実感する。けれども、ニコチン、タール、アルコール、カフェインといった嗜好品が身体を破壊しているとして、しかしそれらは自らの身体を破壊している"だけ"であって、僕たちには自らの身体を自由に破壊する権利がある。このような嗜好品全般に対する見解というか、ある種の開き直りがあって、これは伊藤計劃の『ハーモニー』につよく影響されたのだと思う。

 

 

 この小説では過剰に進歩した医療技術と、社会的リソースとしての人間の健康を至上とする「生府」によって嗜好品の類は禁じられている。「(あなたの)健康を守る」というのは禁止措置を設けるうえできわめて強力な建前*2だ。そのような社会において酒を飲み煙を吐く行為は、自らの身体を社会のリソースとして差し出すまいという(自治的な?)防衛活動として捉えることができる。このように 自らの身体の所有は自らに還る という論理によって喫煙の自由を保護するとしよう。しかしそれだけでは不十分で、なぜならタバコにはアルコールにはない特性--加害性があるからだ。

 直接的には副流煙というかたちで喫煙の意思のない(未成年者を含む)他者に有害物資を吸引させてしまうし、タバコの匂いによって間接的に他者を不快にさせ得る。さらに火の不始末による火災のリスクや吸い殻のポイ捨てなど、先に挙げた身体の所有権のような個人の範疇を超えたところに、社会的な加害性がタバコには備わっている。不健康で恐い印象や物質としての加害性も相まって、喫煙者の立場は年々弱くなっている。タバコの税率は6割を超えた。大学の喫煙所も数を減らし、入学時に見かけた集会所のような喫煙スペースは消えてしまった。研究室からしばらく歩いて屋外の喫煙所に向かうと、各地から撤収された吸い殻入れが墓場のように並んでいる。

 そのような現状においても肩身の狭い思いをしながら喫煙をする者を揶揄する言葉として「ヤニカス」がある。これはタバコを吸わない人間が非難の意を込めて使うだけでなく、喫煙者が自嘲の意味で使う言葉でもある。しかし、ここにおいて僕は 「喫煙者」と「ヤニカス」は異なる(べきだ) という立場を取ろうと思う。

 

 ここで「ヤニカス」とは、先述のようなタバコによる(他者への)加害(あるいは、加害のリスク)を防止しない者を指すことにしよう。つまり、禁煙スペースでもぷかぷかとタバコをふかし、吸いさしをきちんと消火せず煙を垂れ流し、吸い殻をポイ捨てし、不快な匂いを常に振りまくような行動をする人だ。

よってタバコに対する依存度は「ヤニカス」たるまでの決定的な要因ではない。1日1箱以上開けるようなヘヴィスモーカーであっても、しかるべき場所で喫煙してエチケットに気を使っていれば「ヤニカス」ではないのだ。そのような(他者への)加害性を基準として、倫理的な基底状態*3に「ヤニカス」を位置づけることによって、そうでない「喫煙者」の立場を守ろうという試みである。

 

 ここで「ヤニカス」に対置する「喫煙者」にもまた、実践的な意味を与えることにしよう。「喫煙者」はタバコによる他者への加害を未然に防ぎ、社会悪とされないような行動をする。指定された場所以外ではタバコを吸わない、火の始末をきちんとして吸い殻をポイ捨てしない、飲食店に入る前には喫煙しない、指についた匂いを丁寧に洗い落とし、服はすぐスプレーしたり、匂いがあれば洗濯する。このようにしてタバコの社会的加害性を"脱臭"することで、100%の実践は不可能かもしれないけれど、努力目標としてそれを目指すことによって、「喫煙者」は認められていくのではないだろうか。あるいは僕たちはタバコの地位向上のために「ヤニカス」から離れて「喫煙者」を目指すではないだろうか。

 

 「喫煙者」と「ヤニカス」を社会的加害性とその防止への試みを軸に切り分けることは、倫理的に基底状態にある「ヤニカス」に安住することへの批判として作用する。これは喫煙者が自分はヤニカスなのだからと、社会の認識に都合よく迎合して「カスらしい振る舞い」をすること、その理由として「ヤニカス」という言葉がはたらくことをよしとしない。

 --あなたが「ヤニカス」なのはあなたがタバコを吸っているからではない、あなたがタバコの加害性をコントロールできないから「ヤニカス」なのだ

「喫煙者」として尊重されるには喫煙のたびに配慮した振る舞いを実践し続ける必要がある。タバコが吸いたくなるたびに、ここで吸ってしまおうかという誘惑を拒絶しなくてはならない。タバコを吸うとき・吸おうとするとき、「喫煙者」は絶えず「ヤニカス」と化す危機に晒され続けることになる。その意味において「喫煙者である」ことはほとんど不可能だろう。けれども「喫煙者であろうとする」ことは可能だ。各人がこの「喫煙者」であろうとするプロセスを実行し続けることによって、すべての愛煙家たちが「ヤニカス」に侵食されて内包されてしまう(そしてゆくゆくは「ヤニカス」は一掃されるであろう)言説空間にあらがうことが可能となるのではないか。

 

 

*1:メイドとタバコの組み合わせいいよね、みたいな。違うか。

*2:健康の管理者たちは建前ではなく、本気でそう思っているかもしれない。だからこそ厄介なのだが。

*3:基底状態」とは簡単に言えば「(倫理的に)おわってる状態」なのだが、この言葉は本来、エネルギーの最も低い状態をさす。ここでは外力を加えないと勝手にその状態に"落ちて"安定してしまうことを含蓄している。