虚無らがえり

アニメ批評/エッセイ

同人誌の寄稿報告

ながらくブログを更新しませんでしたが、文章は書いてます。葉入くらむ 名義で同人誌に寄稿しているので宣伝したいと思います。

 

 

金沢大学映画研究会部誌vo.8 『拡張するフィルム』

 10/29-30金大祭と、11/20 文フリ東京にて頒布。

 映画研究会の部誌では、編集校正を担当し、映画評を二本書かせていただきました。

 

『キャビン』―祝いと呪いのポルノグラフィ―

 以前から考えていたポルノ=ホラー論を下地に、『キャビン』の倒錯的構造を明らかにしようという論考です。恐怖ポルノであるホラーにおいて、テンプレ通りの物語展開を求める「古き神々」の認識は、作劇のプロトコルがフェティッシュに転化されているとかそういう話です。後述のアクアトープと明日ちゃんを先に書き終えて、燃え尽き気味だったこともあり、とりあえず過去記事をリメイクして紙幅を埋めるつもりで書きました。ホラー=ポルノの工学的側面について書いた文章の、副産物だったわけです。

 

comkaeri.hatenablog.com

 

とはいえ、「大麻」をパルマコンとして位置付けるあたりは書き直すときに発想したもので、よくなったと思います。「愚者」=マーティの登場から文体のレベルにおいて酩酊感を出すような、レトリカルな記述に挑戦したり。

『キャビン』、ちょっと古い洋画ですが、かなーり面白いのでお勧めです。

 

(本文抜粋)

ついに「ホラー映画のオマージュ」は、純然たるホラー映画となった。「愚者」はその役職を逸脱し……”マーティ”はホラーを救い出した。怪物の急襲、圧倒的な殺傷能力、そして飛び散る鮮血と肉片こそが恐怖に捧げる贄にほかならないのだ。

ラブ・アンド・ピース!レスト・イン・ピース!

 

『私に天使が舞い降りた!プレシャス☆フレンズ』―反復するプレシャス・タイム―

 二本目の批評記事です。『キャビン』のほうは執筆に随分と時間がかかったのですが、こっちは早かったです。原稿の締め切り前夜に、シンフォギア3に負けた足で映画館にいき、その晩に書きあげました。

 僕はTVアニメ視聴済みで、原作漫画も借りて読んでたので謎の義務感で観に行き......正直舐めてたんですよ。日常系作品の劇場版って断片的な話をまぜたOVAチックな印象があって。これは不当な侮りで、劇場でわからせられるわけですが。

 本作では花のおばあちゃんが登場するのですが、彼女にもまたマチさんという友人がいて、<花-みやこ>の関係の延長線に老婆二人がいるんですね。これは二人の行く末を示すと同時に、「このままでいてほしい」というみやこ(あるいは視聴者)の欲望を切り捨てていて、そこが面白いと思いました。本文ではマクガフィン=髪飾りを軸に、テーマとプロットを説明しました。構成を整えるために導入したのですが、書いているうちに「もうひとつのマクガフィン」がありますよね、ということになりクリティカルな文章になりました。見た当初は宿泊シーンで小依と夏音がおててつないで寝るシーンにかなりの 𝑃𝑅𝐸𝐶𝐼𝑂𝑈𝑆 𝐴𝑁𝐼𝑀𝐴𝑇𝐼𝑂𝑁 を感じたんですが、構成の関係で泣く泣く切りました。

 

 

(本文抜粋)

天を上る尾と、いまこの上空に瞬く閃光、遅延する轟音。その時その場所でのみ感じることができる一回性の経験。それはカメラでは再生不可能な光であり、彼女たちだけが過ごすことができるあらかじめ反復されざる運命にある時空間―彼女たちが生きる世界そのものである。

 

金沢大学文芸部部誌「轟」

 10/29-10/30金大祭にて頒布。

 夏休みを主題に短歌十首を書きました。秋に入り、この夏を振り返る短歌を書こうという気分で書きました。せっかくだからどこかに投稿しようと思い、友人のツテで文芸部さんの部誌に載せてもらいました。

 書いた勢いで寄稿しましたが、今思うとかなり無茶な要求でした。この場をお借りして感謝と謝罪の意を述べさせていただきます。

 

鬱アンソロジー『鬱と僕と…』

 11/20 文フリ東京で頒布します。

 

 

 

 大学サークルのつながりで参加した合同誌です。各自「鬱と○○」をテーマにした文章を書く合同誌です。僕は「鬱と希(まれ・こいねがうこと)」と題して『白い砂のアクアトープ』について書きました。「希」の字には「偶然」と「願い」の二つの意味をかけており、そのまま『アクアトープ』評のキーワードになっています。この作品の鬱展開には「奇跡」が絡んでおり、神学的奇跡/確率的奇跡(©『ゴーストの条件』)の線引きをヒントに、「水槽の幻」が神学的奇跡から確率的奇跡への変遷する過程とその「鬱展開」を記述しました。『アクアトープ』はとても好きな作品で、いつかまとまった文章を書きたいと思っていましたので、隙を見て(というより隙をこじ開けて)寄稿しました。意識して説明が通るように書いたつもりですが、終盤はドライブ感を抑えきれませんでした。

 

(本文抜粋)

完全に人為的な作業で構成された空間で、キャラクターは動き出して生命(anima)を獲得する。ディスプレイという表層の、此方と彼方の”隔たりを介して”、内部へと誘われることによって、私たちと、死せる人物(存在しないキャラクター)とが遭遇する。

 

 

 以上、寄稿の報告でした。

 同人誌は本の形に残るのがうれしいですし、他の人と作るので気が引き締まりますね。PVで言ったらネットにアップした方が多くの人に読まれるのですが......。本に成型することで紙の質量以上の何らかの重みがかかってますね。

 同人誌の寄稿を頑張りたいなーと思ってますが、だいたい文フリのタイミングに偏りますし、パッと書きたいときはブログに放流するかもしれません。

ではまた。

 

 

『明日ちゃん』と作画、写実化の不到達、その世界の自立性について

はじめに

 アニメ『明日ちゃんのセーラー服』は、蝋梅学園という架空の田舎の女子中高一貫校を舞台に、学内唯一のセーラー服を纏った限界集落出身の天真爛漫な少女、明日小路(あけびこみち)がクラスメイトたちを攻略と打ち解けていく物語である。アニメでは原作漫画を編さんし、ほとんどのキャラクターが主役となる回・パートがあり、16人の個性豊かなメインキャラクターたちの群像劇として楽しむこともできる。また、木崎-明日、戸鹿野-蛇森、苗代-鷲尾らの百合的な展開も見所だ。丁寧な作画で少女たちを描く本作は一部視聴者層に高く評価されるいっぽうで、フェティシズム的な着眼で未成年女子の身体を描く作風は「気持ち悪い」と評される*1側面も併せ持つ。

『明日ちゃんのセーラー服』の魅力は、キャラクター造形・動作の描写・ストーリー・キャラクターたちの関係など色々だが、本文では作画について取り扱いたい。というのも、すべてのアニメがそうであるように『明日ちゃん』の世界も作画がなくては成り立たないからだ。本稿では「よい作画」とは何か考慮したうえで、よい作画がもたらす作品世界の肯定と作品世界からのはたらきの可能性について扱う。そしてこの作品に独特の緻密な作画シーンについても考えていきたい。

 

 

1.よい作画とは何か

 作画とはアニメーションの基礎技術である。人物、表情、仕草、教室、机、床の木目、光、水......描かれるもの・・・・・・・はすべて作画され、丁寧な作画は描かれるもの・・・・・・・すべてに対して秩序をほどこす。アニメ(動画)はイラスト(静止画)と、その連続によって生じる動きの表現であるアニメーション(映像)、声優があてるキャラクターボイスやBGM(音声)によって成立するが、アニメそのものの制作過程からして、無声動画は録音に先行し、イラストは無声映像の構成単位であることから、イラストはアニメの基本的なレベルに位置する構成要素といえる。では、よい作画......いわゆる「神作画」などはどのように規定できるだろうか。

 すくなくとも、単にイラストの出来栄えだけで作画の良し悪しは判断できないだろう。というのも、とくにまんが・アニメではイラストの良し悪しは時代的な価値観に影響されるからだ。たとえば『スレイヤーズ』のキャラクターデザインは現在の感覚からして古めかしく見えるが、当時のアニメを見て「作画が悪い」とは思えないだろう。当時ではそれが普通なのだろうし、いま何気なく視聴しているアニメ作品もまた、10年後・20年後の基準からしたら「ヘンな絵」になっているだろう。アニメはキャラクターが写るシーンがほとんどだが、そのキャラクターたちの造形は同時代でも様々だ。イラストレーターの中村祐介*2のキャラデザを忠実に再現した『四畳半神話大系』と、四コマ漫画家のかきふらいの"萌え"なキャラクター原案からなる『けいおん!!(二期)』は同時期に放映されていた。キャラデザは時代やデザイナーのセンスに左右される。設計されたイラストに対する良し悪しの判別もまた、時代・視聴者の感性に左右される相対的なものにならざるを得ない。けれど、僕たちは異なる時代・異なるタッチの作品を比較して作画の良し悪しをジャッジすることができる。では、キャラデザや視聴者の趣向に左右されない普遍的な作画の良し悪しとはなんだろうか。これについては「神作画」とは対極的な概念「作画崩壊」を参照するとわかりやすいだろう。

Wikipedia作画崩壊*3によると、

 

作画崩壊(さくがほうかい)とは、「アニメ作品の作画クオリティが、秩序を失い、著しく低下している様相」を指す言葉である。(略)

キャラクターのデッサンやパース(遠近感)に狂いが生じたり、キャラクターの動きが不自然になったり、彩色のミスなどが発生したりするような例が挙げられる。

とされる。"崩壊"の名に着目すると、作画崩壊とはイラストの"崩れ"であり、キャラクターあるいは背景などがあるべき姿でいられない無秩序といえよう。そして作画崩壊は、単に担当したアニメータ・作画監督によって引き起こされる事態ではなく、アニメータの人材不足・制作会社の予算難・無謀な制作スケジュールなどの作品外で生じる困難によって引き起こされる。

 アニメーション制作の現場を描いた『SHIROBAKO』では作画崩壊を「溶ける」と表現した。生命が死とともに物質として発散するように、作画崩壊とは描かれるもの・・・・・・・、それ自体が自身のかたちを保てなくなる無秩序であり、恒常性(ホメオスタシス)の喪失であり、それは技術不足から生じる悲劇である。*4

フレームとフレームの間で、キャラクターたちは常にその同一性を揺さぶられる。ひとつ前のフレームと現在のキャラクターが連続していることを保証するのはただ視聴者の認識のみである。1コマ、1コマを移ろいゆく可塑的な身体をつなぎとめるのは、仮現運動という知覚現象である。アニメーションの本質が前後のコマの差分によって生じる仮想的な動きである以上、キャラクターは絶えず変化するしかない。立ち絵通りのフレームなど存在せず、手足を駆動し、言葉を紡ぎ、表情をつくる細やかな変化の連続のうちに、その輪郭を自ら揺るがし、しかし、それ自身が連続していることを示し、発散して背景に「溶け」てしまわないように...絶えずはたらく恒常性*5こそがアニメーションを可能にする。

 アニメを見る視聴者は無意識に正解の線画(秩序)を思い描き、あるべき姿から過剰にズレた画面を見て違和感を抱く......この現象が作画崩壊ならば、作画がいいアニメとは作品を通じて描かれるもの・・・・・・・が秩序に沿ってその存在の確かさを享受していることである。*6

まとめると、

・作画とはアニメ(動画)の根本的な構成要素となるイラストを描写する技術であり、

・「あるべくしてある線」の秩序によって、描かれるもの・・・・・・・につよい恒常性を与える。(それは作品外の要因によってもたらされる)

 

2.作画の祝福

 さて、ここで導出した作画論からこの作品について何を言えるだろうか。

 よい作画とは、キャラクターに活力を与え、それでいて過剰な変化によってキャラクターが発散しないように制御する技術である。作品の外部からはたらき描かれるもの・・・・・・・を確かに存在させ、それは作品世界そのものについて作用する。タッチの統一したアニメには安心感があるが、それは世界のゆるぎなさを示す。よい作画のアニメは、その作品世界全体を祝福する。作品に登場するものはすべて描かれたものである。*7高水準の作画を受けた作品世界は乱れの少ない「あるべくしてある線」によって構成される。これには必然性があり、その意味で強度の高い虚構世界である。作画のよい作品世界は肯定された世界である。

 だからこそ、作画のよいアニメはその内容をジャッジされ得る。

―「この"描かれたもの"は、"描かれるべきもの"なのか。この作品世界は祝福されるに足るものなのか。」

 しかし、この問いは転回できる。

 作品世界を美しく描くべきと肯定したから描くのではなく、そう描けてしまった事実が作品世界を肯定するのだ。よい作画で描かれた世界が、それに足るかどうかという判別は作品が生まれた後に行われるものであり、よい作画で描かれた時点にて既にそれは肯定された。その対象が美しいからこそ、美しいと信じるからこそ画家は対象を美しく描ける・精緻に描こうと思えるのではないか。

 ここで作中でのイラストレーションに関する言及を振り返ってみる。アニメ5話では美術の授業にクラスメートの大熊実が描いたトンボのスケッチが映され、明日小路が「絵、上手なんだね」とコメントするシーンがある。彼女は生物観察が趣味であり、普段から研究ノートをつけているので画力が自然と身についたと答える。生物学的な観察スケッチは写真のように生物の特徴をそのまま写し取ることが重視されるが、彼女には生物の美をそのまま描きたいという欲望があるのではないか。

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5話より,スケッチを取る大熊実
©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会

 5話冒頭にて、大熊は初めて生で見たハンミョウの美しさに「図鑑よりもきれい」と感動し、明日の目を「アザラシみたいな瞳」と形容して惹き込まれていた。このような感性を原動力として彼女は生物を描くのではないか。そしてそのスケッチを可能にするのは、他の生徒がおそれるなかアオダイショウを平然と掴み愛でる独特なセンスと、描かれる対象の美である。精緻なスケッチが成立するのは画力以前に、それを美しく思う主体の感性と、それを誘発する対象の美による。ここではもはや、対象がもつ本質的な美とそれを見抜く(あるいは見出す)画家のセンスは区別しがたい。対象が美しいから主体たる画家は美しいと感じるのか、画家のまなざしにより対象に隠された美が発見されたのか、どちかなのかわからない。おそらく両方だろう。『明日ちゃん』の世界がよい作画の祝福にあずかることは、(仮想的な存在であっても)それを肯定的に思う感性だけでなく、その世界自身が肯定されるに値すること・そう訴えること、その両面から可能となるのではないか。よい作画を成立させる、作中世界自体からのはたらきもあるのではないか。

3.「超作画」の位置づけ

 明日ちゃんは第一に作画アニメである。作画によって祝福された、祝福されるにあたう世界の物語である。そして作画技術が過剰に現れるのが「超作画」のシーンである(下の画像)。(便宜上、本文では絵画のように高密度の作画を「超作画」と呼ぶ)

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アニメ1話より、通常の作画

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2話より、「超作画」の例
©博/集英社・「明日ちゃんのセーラー服」製作委員会

 

 この作品では上の例のように通常の作画とは異なる、絵画のような緻密な作画のシーンがある。色の種類と描き込みの密度が飛躍的に増加し、ときにパン(水平移動)やスチル(垂直移動)・ズームなどを用いて視点を移動し1枚のイラストを5秒ほどかけて眺める。*8これは見事な絵だが、どこか不気味な印象を受ける。

 前章で述べたように、よい作画とは乱れぬ秩序であり、それがキャラクターにしなやかな恒常性を与え、その統一性は作中世界をたしかなものにするのであった。そこではコマ送りの変化に耐える線画の秩序について着目した。「超作画」のシーンではその精緻な線画に加えて更に色数と密度が加わり、画像としての情報量が跳ね上がる。これは原作漫画では通常のモノクロページからカラーページになることで表現された情報量の増加が、元々カラーで描かれるアニメでは直接再現できず、ゆえにイラストの密度によって表現したものと考えられる。漫画におけるカラーページは特別だ。1冊の連載誌ではごく一部の作品にしか割り当てられず、通常の紙とは異なる質感の紙面に印刷される。そういった素材の差異は印刷の都合で発生するものであり、電子媒体での『明日ちゃん』に適用できるかは一考の必要があるが、それを抜きにしても白黒の世界が展開される漫画においてカラーには特殊性が宿ることは確かだろう。「超作画」にも似たようなはたらきがあるのだろうか。

 この作品における「超作画」は、作画を超えた作画であり、よい作画とは異なるはたらきがある。

 よい作画技術とは、キャラクターが動作しても崩れないことだった。「超作画」においてもそれは一貫している。よい作画がまずあり、そこに描き加える形式で塗りが加算されていく。これは情報量の増大という観点で白黒イラストのカラー化に似ている。異なるのは、リアリティが変質することだ。既に十分描いたレイヤーに、さらに詳細なレイヤーを重ねていく。そこにおいて加算されるのはデフォルメによって省略されていた質感である。衣服の皺が作る影、髪の艶など光の作用の物理的整合性である。繰り返しになるが、これは本来不要となる情報である。「超作画」では1枚のイラストが前後のシーンと比較して過剰に情報を持ってしまう。作画コストによる制約という面もあるだろうが、過剰な情報量を持ってしまったがゆえに、視聴者が処理するには重たい絵となる(ゆえにコマ送りせず5秒ほどかけてじっくり見せる)。この非-アニメ的なシーンはカラーページのような存在感を発揮することになるが、ここで描き足された情報とはなにか。たんに画像としてモデル化して考えると、色の種類の増加と描画密度の増加は「写真化」の過程である。現実世界の視覚情報は網膜が捉えるほぼ無限の色彩と、その色を持つ無限に細かい点で構成される。緻密な作画によって使用する色の種類と描画密度が増加するとグラデーションが再現でき、服のシワのような細部を描き、光の反射を忠実に再現できるようになる。無限の色彩を無限のドットに展開し、省略した情報を精密に再現することでイラストは写真(それを超えて視界そのもの)になる。けれどもアニメーションのキャラクター、とくにその顔は美術背景とは異なり、色彩とドットを無限に細かくし極限化し、精緻化にしても到達できる実写の像はない。この写実性を高めていくことで漸近可能な像が欠落することが、背景とアニメ的リアリズムを生きるキャラクターの差異であり、現実世界と虚構世界の差異である。そのギャップの片鱗に触れるが「超作画」シーンである。

 他の例を挙げてみると、『電影少女』などで知られる漫画家・桂正和の『I"s』の表紙ではキャラクターが実写のように描かれている(画像左)。しかし、ページを開くとデフォルメされたキャラクターが登場する(画像右)。このギャップこそ、この両者をつなぐことのぎこちなさこそが、現実と(まんが・アニメ的な)虚構の視覚的に規定されたリアリズムの差異なのだ。

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桂正和『I"s』.左:表紙(15巻)/右:作中での作画

 "リアル"に描こうとするほど、キャラクターの顔貌をいかに表現すればよいか見失ってしまう。けれどもこの極限値を捉えることのできる存在がある。それは作中世界自体にある。明日小路にとっては自分も、クラスメートも、福本幹も実写である。写実性を高めていったそのさき・・・・を知るのは彼女たちだけである。緻密な作画による写実化がまっすぐ現実世界の写真へ向かうとは考えがたい。むしろ、その方向は"作中世界での写真"へ向かっている。それを踏まえると、「超作画」はデフォルメ度合いは減るが、それは必ずしも現実の視点での写実性の増加ではなく、作中世界の実写に近づいた視覚情報であると考えることができる。*9

 このようにして「あちら側」のパースペクティヴを挿入することは断絶を生む。僕たちが見ていた通常のシーンは、よい作画によってたしかに見えるが、それはあの世界のデフォルメに過ぎないと、その世界の深層を覗かせる。キャラクターと世界の同一性を担保したままより高解像度の階層へ導く。「超作画」をして写実化していくことは、キャラクターの視覚的リアリティをこちら側に引き寄せることではなく、むしろその延長線がこちらに到達しないことを示した。それは断絶に他ならないが、だからこそあの世界は美しいのだ。あるいは、女子校を美化しすぎで「現実」がないという指摘についても、それは当然と言える。視覚的段階―ただ見た目のレベルだが、アニメーションを成立させる根本的段階でもある―からリアリティの異なる世界について、どうして現実のリアリティが適用できるだろうか?

 少なくとも、現実世界からは描けない実写が「そこ」にはある。それを観ることは叶わないが、きっと、ぞっとするくらい美しく、不気味なのだろう。

 

 

 さて、章ごとのつながりについてあまり意識しないで行き詰りつつ書いてきたが、通じて作中世界の自立性という共通点があるように思う。

1章では「よい作画」とはあるべき姿という秩序を守ることだとしたが、それは描く側の自由度の低減(作画を崩さない=めちゃくちゃに描けない)であり、これは作中世界からの制限性である。

2章では「よい作画」という祝福の背後での、作中世界側からのはたらきかけの可能性を論じた。これは創造-被創造の関係とは逆の、未だ創造されない作品から製作者へのはたらきかけという被創造世界の能動性である。

3章では「超作画」での写実化が、現実世界の写真とは異なる像に向かっていて、かつ、その到達点がわからないという、現実世界との個別性について扱った。

べつにこれを『明日ちゃん』から導出する必要性はないかもしれない。ただ僕自身の主義主張が読解という迂路を通って表れただけかもしれない。それに作画の話ばかりして内容について触れないのも心苦しい。*10しかし、作画について考えるうえで作画のよいアニメ(あるいは悪いアニメ)は必要であるし、「超作画」という表現からアニメーション表現の(不)可能性について考えることは、(すくなくとも僕にとっては)『明日ちゃん』だからこそ、できたことではないだろうか。

 

 

 

*1:しかし、倒錯的な視点というのは、ある意味で性器に対する迂回であって、直接的な描写よりは幾らか倫理的ではないだろうか。

*2:謎解きはディナーのあとで』表紙や、アジカンのCDジャケット、最近では音楽の教科書などで知られる。

*3:

ja.wikipedia.org

※2022/4/6アクセス時点

引用部分は文献[1]:金田一「乙」彦(編)『オタク語事典2』(2009)を引用元としている

*4:恒常性(ホメオスタシス)とは生物が一定の状態を保とうとする性質を指すが、ここで一度、この語の選択について説明したい。アニメーション(animation)がイラストに生命(anima)をほどこすという含意のほかに、ここでは単に「安定性」では表現できない意味があるからである。画面が最も安定するのは静画のシーンであり、紙芝居状態で「安定性」は最大になる。これだと一般的な作画の良し悪しのニュアンスは損なわれる。宿命づけられた不可避の無秩序化(生物におけるエントロピーの増大則/キャラクターにおけるアニメーションという手法そのもの)にあらがうのが「恒常性」であり、むしろ激しい動きを伴ってこそその強度がわかる。静的な安定性とは異なる同一性、自身の変化に対して揺り戻る動的で柔軟な同一性こそが「恒常性」である。

*5:同一性をつなぎとめるのは線だけでなく「声」にも大きな役割がある。

*6:もちろん、バトルシーンなどで敢えてキャラクターを崩して描画することで躍動感のある描写を可能にする手法もあるが、動きを通して見てみると自然なこともあるし、このような"敢えて"の逸脱が可能となるのは、そもそも他の部分が安定していることを前提とするから、やはり作画と対象の恒常性は切り離せない。また、描き分けができないというのもキャラクター自身の同一性の欠如という点では作画崩壊といえるかもしれない。

*7:たとえ3DCGで描写されるものであっても、それはグラフィックデザイナーによって描かれる。

*8:この技法は他作品では『Vivy -Fluorite Eye's Song-』(2021)にも見られる。この作品ではアンドロイドを絵画のようなタッチの静止画で描写することで、静的な機械の冷たさを表現する効果がある。

*9:この、「超作画」は虚構世界からの視点であるという指摘は以下の記事を参考にした。「超作画」はそのフィルターを外した「虚構(虚構本来の姿)」との記述

 フィルターを通したまなざしを視聴者に与えることで、「虚構(我々が”見させられているもの”)」とそのフィルターを外した「虚構(虚構本来の姿)」を明確に区別することを、『明日ちゃん』は可能にしているのだ。

簡単に示せば、「現実(画面の前)-虚構(キャラクターの視点)」
 という構造のズレを生じさせることで、新たに虚構の不在性を創出している。

 

note.com

*10:もちろん、内容についても描きたいことがあるが、さすがに文字数が多すぎるので別の機会にする。

お料理回顧録「鶏へ帰れ!」

 すっかり春めいてしまって、2月の降雪が嘘のような天候になってきました。学生街は不動産会社の営業車が走り回り、新入生とその家族と思しき連れが真新しい家具を抱えてアパートへと入っていきます。それを眺める僕もまた、彼らほどの新鮮味はないものの、大学院への入学という節目を迎えることとなりました。学内の健康診断をさぼってしまったせいで手続きがやや面倒になりましたが、バイトの休憩時間に書類を提出してなんとか入学が確定した次第であります。もう2年ほど、もう幾分かいただき尽くした親の脛を端っこからはじはじと食み、恥を偲んで生きてこうという運びとなりました。

 さて、春といえば引っ越しと冬を越したお野菜の季節です。春キャベツに新タマネギといった野菜は越冬のために蓄えた糖分に由来するほのかな甘味が特徴です。今日の夕食はみずみずしい新タマネギを使った亡命ロシア料理「鶏へ帰れ!」ですよ♡

 ピョートル・ワイリ et.al.の料理エッセイ「亡命ロシア料理」(1996)に収録のレシピを参考にします。昨年Twitterで話題になったアレです。

 

材料/1人前

鶏もも肉 1枚

・新タマネギ 1個

あとはバターひとかけ、月桂樹一葉、粗挽き胡椒、塩少々

 

 まず鶏肉とタマネギをひと口大に切ります。

本来はまるっと入れちゃうそうですが、時短の為に切り分けました。

食材を細かいブロックに分割すると体積あたりの表面積が大きくなるため火が通りやすくなるとともに、個々のサイズの(統計的な意味での)分散が小さくなり、均一化して調理結果が安定します。このダウンサイジングを極限まで適用した調理方法がミンチ、ミキサーですね。

肉を一枚ごと加熱するステーキでは肉の表面・内部の特性の違いを加味して加熱する高い調理スキルを要求しますが、液状のスープは火を通すだけで誰でも(機械でも)調理できるので工業化に適した前処理と言えますね。ディストピア小説などで登場する液状・それを固めたようなブロック状の食料は工業的生産に合理的な形状をしていて、消費者から生産者の都合へ変容してしまった食文化として、リアリティある表現だと思います。

 

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q ©カラー より

さて、食材を切ったら鍋底にバターを入れて溶かし、煮込むだけです。

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 一時間ほど弱火でじっくり煮込みます。その間にこの記事の冒頭を書きました。

......しかし匂いがすごいです。シチューのようなコンソメに鶏ガラの合わさった食欲をそそる匂いがキッチンに立ち込めます。嗅覚と記憶は密接に連携するといいますが、これを嗅ぎながら受験勉強すれば大変捗るのではないでしょうか。あるいは、顔が思い出せないもはやその質量すら存在に耐えがたい少女との"あの夏の思い出"も鶏へ帰れ!と共に在ったのならば、報酬は入社後平行線で愛せどなにもない東京で、この匂いと共に飛んじゃって大変なことになれるかもしれません......

 

 

 

 

......完成です。

 

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 写真だとわかりずらいのですが、黄金色のスープに玉ねぎがとけ、鶏肉だけ形が残ってる感じです。

 実食してみた感想は「完全にシチュウ」です。柔らかくなった鶏肉と、溶けた玉ねぎにバターと鶏脂がたっぷり入ったスープ、これシチュウです。シチュウ作ってました。シンプルな味つけながら鶏のうまみがしっかり利いてて上品な味わい。とりあえず玉ねぎをバターで煮込めばシチュウになるという知見を得られました。

 むろん、この料理は「完全にシチュウ」でしたが「完全なシチュウ」ではないでしょう。シチュウとして成立するために必要最低限エッセンシャルの食材で構成した、最大公約数的な、プリミティブな、シチュウの祖先といった感じがします。ここに牛乳を加えてジャガイモやニンジンを入れればお馴染みの所謂シチュウになり、ワインで牛肉を煮込めばビーフシチューに、みりんと醤油で肉じゃがになりそうです。そう、イーブイですね。

 

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イーブイ(CV.悠木碧)「ブイ~♡」

イーブイ しんかポケモン

ふきそくな いでんしを もつ。
いしからでる ほうしゃせん によって
からだが とつぜんへんいを おこす。

 

あっイーブイだ♡かわいいね♡

エメラルドのバトルタワーでブラッキーに影分身積まれまくってボーマンダの技はずれ散らかしてガチ泣きしたトラウマがある。見た目はブイズで一番好き(チューニ=オ=タク)。

「人を見る目」とは何だろう

対象としての人の特殊性

 「人を見る目がある/ない」という言葉がある。悪い知人との関係を切れない人、メンヘラと付き合って共依存に陥る人、配偶者からDVを受ける人など、人間関係に失敗した人に投げかけられる言葉である。人間というのは(人にとって)特殊な対象だ。人間は社会によってはじめて成立する。僕たちは他人の存在を前提として人間足りえるのだという言説は、しばしば人間の条件として挙げられる言語、それがもつ他者性--言語は人から教えてもらってはじめて獲得できるとともに、その発話は他者への情報伝達を第一目的とする--から納得できるだろう。人間が他人の存在を前提とする人間そのものの特殊性と、犬にとっての犬が特別であるような同胞の特殊性からして、「見る」対象としての人は特殊である。僕たちは「人を見る」ことに「犬/ネコ/映画/建築物/法律 を見る」よりいっそう関心をかける。

人を見ることの特殊性(生物学的観点から)

 「シミュラクラ現象」というのがある。

顔っぽいものが顔に見える「シミュラクラ現象」 | 雑学

 ヒト(Homo sapiens)は上のように3点が逆三角形に配置された図形を見ると、顔として認識する。これは本能としてプログラムされていて、我々は生まれつき視覚情報からヒト(の顔)を抽出するための優れたコード(識別子)*1を知っている。このようにして「ヒトを見る」ことがヒトにとって重要であることは形質(遺伝子によって伝えられる、生物の特徴・性質)のレベルにおいても確認できる。シミュラクラ現象からわかる通り視覚情報による他個体の認識は生存上重要視され、サルの時代からの歴史を引き継いで「人を"見る"」という言葉が生まれたのかもしれない。

"見る"と"聞く"のちがい

 人間の本質を言語にゆだねるならば、「人を"聞く"」にはならなかったことになんらかの含意を感じとれるだろう。"聞く"ことは"話す"ことを前提とする。他人が意識して発した音声が耳に届いてはじめて聞くことは可能となる。その意味において"聞く"は聞かれる対象が主体的にはたらきかけて成立する情報の取得形式であって、また会話においては"聞く"主体もまた"話す"ため*2インタラクティブ(双方向型)な情報伝達なのだ。また、会話における自身の発した声が相手だけでなく自分自身にも聞こえる(フィードバックする)性質は"見せる"ときとは異なる。自分の会話内容は聞きこえるが、そのときの自身の表情は鏡を使わないと確認できない。

 この比較において"見る"ことは一方的に他者を認識するプロセスだと言えよう。"見る"主体にとって対象は、"見せる"気があるかどうかに関わらず"見る"ことが可能だ。僕たちは髪型や服装で外見をある程度制御できるが、自身の表情などをいちいち確認することは叶わない。見られたくないところを見られるかもしれないし、見てほしいところを見てくれないかもしれない。見る主体はさらに特権的なことに、目を閉じて"見ない"選択もできる。会話においては一方が口をつむげば沈黙(=情報伝達の停止)が訪れるが、一方が目を閉じたとしてもそれは自身が見ることを放棄するだけであって、むこうは見つめ続けることができる。そして互いが目を閉じたことを確認する手段は、見ることによって確認するしかないために、目隠しのような物理的アプローチをのぞき原理的に存在しない。

 見ることは一方的な他者の認識であり、暴力性を孕みうる。『宇崎ちゃん』ポスターなど広告における女性の性的対象化をめぐる議論が図画(graphic)を取り上げるのも、見ることの根源的な一方向性に由来するのかもしれない*3。あるいは、斎藤環*4が指摘したように"「視ること」は所有の第一歩"であり、対話的な関係性ではなく古典的には猫耳やメイド服といった「萌え要素」がビジュアルに偏重している事例も、「見ること」の宿命としての対象化作用が由来しているのではないか。

 もはや「見ること」は単に視覚情報を得ること以上の意味をおびた。それは所有であり解釈であり投影であり…けれど、日常的に使う言葉としての「見る」が身体の素朴な感覚から敷衍していったことはたしかだろう。

見ることは一方向

 見ることは主体が対象物を一方的に視認する行為なのだと確認した。これは対象物と対話せずに一方的な認識をもつことであり、そのプロセスで主観的なバイアスがはたらく。ならばいわゆる「人を見る目」があるとは、偏見なく人を見ることができる能力なのか。いや、むしろ逆ではないだろうか。冒頭に述べたような人間関係のトラブルの回避に必要な能力とは、断絶だ。つまり目の前の人が面倒・有害かそうじゃないか早い段階で判断し関係を切る能力こそが、現代社会において重要視される「人を見る目」であり、偏見はその実現において強力に作用するのだ。「地雷」というNGポイントを隠し持ち、そこを踏み抜いた者はコミュニケートしないという戦略*5をとれば、総合的な判断を介せず省労力で「人を見る」ことができる。インターネットによって他人とのアクセス可能性が高まった現代では、このような排他的基準によって他者を区別していく傾向はつよいだろう。公的人物の過去の失態を告発し、社会的地位を落とさせる「キャンセルカルチャー」はこの傾向の末路にも思える。バイアスという絶対的なパラメータを元にした計算によって他者を評価することは、見ることの一方向性からして避けられないかもしれない。けれど、同一の根源的特性から出発して異なる「見方」に着地することは出来ないのだろうか。

 主体が対象物(モノ)を見るとき、主体は見えるものすべてを見ることができる。対象が見せたいものだけでなく、対象が見せたくないもの、対象が見えないものが見えるのだ。アンコントローラブルなありのままの自分を見ることができるのは、他者だけであり、外部の視線によって対象の新たな側面が照らされる。そこに「人を見る」ことの意義があるのではないか。偏った見方というのは、対象のどこを見るかという差異であって、それはフェティシズムのように個人によって異なるだろう。「人を見る」ことで対象の新たな面を発見するとき、それは対象の個別性とともにそれを見た自身のものの見方(perspective)の個別性が作用する。それは、人からなにかを「見出す」ことであり、バイアスのかかった情報をさらに解釈する余地が入り込む。そこで社会通念と照らし合わせ外在的な基準で判断したら、そこには見る主体自身の個別性は宿らない。偏見は捨てることができないが、それを自身の個別性として引き受けた上で、ただ見たことを元に解釈する創造的な営み*6に、他人を"切る"かどうかチェックするような判別にはない「人を見る」ことの豊かさがあるように思えるのだ。そしてそこには見ることの特性とともに、他人がいて初めて個別に存在できる人間という対象の特殊性が関係しており、はたして「人を見る」ことの人間性は回復するのだ。

 

 ここでは人を見ることについて考えた。「人を見る」その"目"を対象化して見つめ返すことに、面接官のような採点として「人を見る」態度を崩壊させる可能性が託されるのではないだろうか。そのような含意を込めて、「人を見る」ではなく対象化された「人を見る目」をタイトルとした。

僕たちは特権的な主体として他者を見る、けれども僕たちが"それを見つめるその目"だけは、目を閉じるほかに覆い隠すことはできないのだから。

 

*1:∵三点の配置は、ヒト特有のものではないと思うかもしれない。両眼と口の配置はイヌやネコも同じなので、必ずしもヒトだけを見つけるためのフィルタではないという意見だ。けれども、他の動物はウマに顕著なように鼻が高く突きだし、正面からは口が見えにくい立体的な配置を取る。ヒトの顔は平面的なので∵三点による認識が特に有効と言えるだろう。むしろ、他の動物についてもこの三点の配置が有効だと思うことこそが、シミュラクラ現象によって動物の顔をヒトの顔として認識している例ではないか。

*2:そもそも「話す」という語句自体が、双方向の会話のやり取りを意味する。一方的な発話は「演説」だとか「報告」などにあたる。

*3:「モノ化」の問題点として" 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在と見なす"というのがある。けれども、他者を見ることそれ自体が他者を「モノ化」することならば、これはフェミニズムの領域を超えた問題(原理)にも思える。

参考:

gendai.ismedia.jp

*4:『関係する女 所有する男』(2009)P153より。本書において斎藤は「精神分析」(とくにジャック・ラカン)の立場にたって「所有」と「関係」の違いから男女を説明する。引用箇所では、おたくの虚構的欲望がイデオロギーなどの反映されない「純粋な」欲望であるとして腐女子と男性おたくを比較する。「やおい」文化が男同士の関係性に注視する一方で、男性おたくにとっての「萌えキャラ」はビジュアルがすべてであり、いかなる「関係」も無いとした。この記事では"聞く=話す"が「関係」、"見る"が「所有」に対応するが、ジェンダーについて扱うのではなく人間に普遍な"見ること"についての議論を主としたい。

※個人的にはこの本以降のムーヴメントとしての「百合」文化や、女性声優ファンに関してどのように適用できるか興味深いところではある。

*5:これは条件分岐であり、「戦略」というにはあまりにも単調な情報処理にすぎないが、しかし単純に処理することこそが戦略なのだ。

*6:これを創作物について行うことが、批評(critique)なのだろう。ポリコレに如何に準拠しているかではなく、内在的な読解によって作品の価値を判断する批評の重要性についてこのように援護することができよう。

「ヤニカス」から離れて、「喫煙者」であるために

 僕はタバコを吸う。ひょんなことでタバコの箱を手に入れてから3か月ほど愛煙している。ニコチンは眠気覚ましに効く。アパートのベランダから見上げたところに木があって、カラスが巣でもぞもぞするのを椅子に座ってぼんやり眺めながら吸うのがすきだ。僕が喫煙に至った直接の原因は大学院入試のストレスだが、思い起こせば文化的な影響の蓄積も多々あるように感じる。洋画や文学にはタバコがよく出てくる。お酒と比べて特段うまそうに描写されることは少ないが、煙が醸し出す退廃的な雰囲気には独特の魅力がある*1。飲酒も喫煙も本人の身体を破壊する。ゼミに遅刻しまいと坂道や階段を駆け上がったあとの息切れが日に日に苦しくなっている。嫌でも実感する。けれども、ニコチン、タール、アルコール、カフェインといった嗜好品が身体を破壊しているとして、しかしそれらは自らの身体を破壊している"だけ"であって、僕たちには自らの身体を自由に破壊する権利がある。このような嗜好品全般に対する見解というか、ある種の開き直りがあって、これは伊藤計劃の『ハーモニー』につよく影響されたのだと思う。

 

 

 この小説では過剰に進歩した医療技術と、社会的リソースとしての人間の健康を至上とする「生府」によって嗜好品の類は禁じられている。「(あなたの)健康を守る」というのは禁止措置を設けるうえできわめて強力な建前*2だ。そのような社会において酒を飲み煙を吐く行為は、自らの身体を社会のリソースとして差し出すまいという(自治的な?)防衛活動として捉えることができる。このように 自らの身体の所有は自らに還る という論理によって喫煙の自由を保護するとしよう。しかしそれだけでは不十分で、なぜならタバコにはアルコールにはない特性--加害性があるからだ。

 直接的には副流煙というかたちで喫煙の意思のない(未成年者を含む)他者に有害物資を吸引させてしまうし、タバコの匂いによって間接的に他者を不快にさせ得る。さらに火の不始末による火災のリスクや吸い殻のポイ捨てなど、先に挙げた身体の所有権のような個人の範疇を超えたところに、社会的な加害性がタバコには備わっている。不健康で恐い印象や物質としての加害性も相まって、喫煙者の立場は年々弱くなっている。タバコの税率は6割を超えた。大学の喫煙所も数を減らし、入学時に見かけた集会所のような喫煙スペースは消えてしまった。研究室からしばらく歩いて屋外の喫煙所に向かうと、各地から撤収された吸い殻入れが墓場のように並んでいる。

 そのような現状においても肩身の狭い思いをしながら喫煙をする者を揶揄する言葉として「ヤニカス」がある。これはタバコを吸わない人間が非難の意を込めて使うだけでなく、喫煙者が自嘲の意味で使う言葉でもある。しかし、ここにおいて僕は 「喫煙者」と「ヤニカス」は異なる(べきだ) という立場を取ろうと思う。

 

 ここで「ヤニカス」とは、先述のようなタバコによる(他者への)加害(あるいは、加害のリスク)を防止しない者を指すことにしよう。つまり、禁煙スペースでもぷかぷかとタバコをふかし、吸いさしをきちんと消火せず煙を垂れ流し、吸い殻をポイ捨てし、不快な匂いを常に振りまくような行動をする人だ。

よってタバコに対する依存度は「ヤニカス」たるまでの決定的な要因ではない。1日1箱以上開けるようなヘヴィスモーカーであっても、しかるべき場所で喫煙してエチケットに気を使っていれば「ヤニカス」ではないのだ。そのような(他者への)加害性を基準として、倫理的な基底状態*3に「ヤニカス」を位置づけることによって、そうでない「喫煙者」の立場を守ろうという試みである。

 

 ここで「ヤニカス」に対置する「喫煙者」にもまた、実践的な意味を与えることにしよう。「喫煙者」はタバコによる他者への加害を未然に防ぎ、社会悪とされないような行動をする。指定された場所以外ではタバコを吸わない、火の始末をきちんとして吸い殻をポイ捨てしない、飲食店に入る前には喫煙しない、指についた匂いを丁寧に洗い落とし、服はすぐスプレーしたり、匂いがあれば洗濯する。このようにしてタバコの社会的加害性を"脱臭"することで、100%の実践は不可能かもしれないけれど、努力目標としてそれを目指すことによって、「喫煙者」は認められていくのではないだろうか。あるいは僕たちはタバコの地位向上のために「ヤニカス」から離れて「喫煙者」を目指すではないだろうか。

 

 「喫煙者」と「ヤニカス」を社会的加害性とその防止への試みを軸に切り分けることは、倫理的に基底状態にある「ヤニカス」に安住することへの批判として作用する。これは喫煙者が自分はヤニカスなのだからと、社会の認識に都合よく迎合して「カスらしい振る舞い」をすること、その理由として「ヤニカス」という言葉がはたらくことをよしとしない。

 --あなたが「ヤニカス」なのはあなたがタバコを吸っているからではない、あなたがタバコの加害性をコントロールできないから「ヤニカス」なのだ

「喫煙者」として尊重されるには喫煙のたびに配慮した振る舞いを実践し続ける必要がある。タバコが吸いたくなるたびに、ここで吸ってしまおうかという誘惑を拒絶しなくてはならない。タバコを吸うとき・吸おうとするとき、「喫煙者」は絶えず「ヤニカス」と化す危機に晒され続けることになる。その意味において「喫煙者である」ことはほとんど不可能だろう。けれども「喫煙者であろうとする」ことは可能だ。各人がこの「喫煙者」であろうとするプロセスを実行し続けることによって、すべての愛煙家たちが「ヤニカス」に侵食されて内包されてしまう(そしてゆくゆくは「ヤニカス」は一掃されるであろう)言説空間にあらがうことが可能となるのではないか。

 

 

*1:メイドとタバコの組み合わせいいよね、みたいな。違うか。

*2:健康の管理者たちは建前ではなく、本気でそう思っているかもしれない。だからこそ厄介なのだが。

*3:基底状態」とは簡単に言えば「(倫理的に)おわってる状態」なのだが、この言葉は本来、エネルギーの最も低い状態をさす。ここでは外力を加えないと勝手にその状態に"落ちて"安定してしまうことを含蓄している。

吉野家の(早)朝食

 

 妙にはやく目が覚めた朝は吉野家に行くことにしている。

昨日はゼミが終わってからたっぷり昼寝してしまったので、明朝の四時に起きた。前日の夕食が少なかったこともあり、お腹が空いている。吉野家にいこう。師走も終盤にさしかかり、簡素なアルミサッシ越しに外の温度が伝わってくる。実家から持ってきた電子ストーブのスイッチを入れる。手入れが不十分だったのだろうか、一年前に火花を散らしたストーブは電熱線が片方切れてしまって出力が半減している。外出するのに十分な気力が湧くまで片落ちのストーブにあたりながらスウェットからスーツに着替える。わざわざ私服をピックアップするのも面倒なので日中バイトで着る服を先取りして外出する。

 

 インターネット・ラジオを再生しながら部屋を出る。アパートの駐輪場から原付バイクを取り出す。梅雨や雪の時期は乗車(乗輪?)の機会が減るので入居者による駐輪スペースの苛烈な取り合いが発生する。窮屈なサンクチュアリで前カゴはハンドルと絡み合い、サドルと後輪は干渉しあってもはや一体化しつつある。付近の自転車を丁寧に取り出して、それはまるで知恵の輪を解くようで、スペースを確保してからカブを抜刀する。鍵を回してエンジンをかけるとMCの声が遠のいた。

 バイクは外界に剥きだした乗り物だ。早朝の国道は暗く、速い!寒い!

信号機に引っかかってギアを落とす。とすん、とすんとニュートラルに落とす。エンジンから伝わる動力は車輪から切り離される。エンジンの拍動はただ搭乗者を揺らすだけだ。直交する歩行者信号が切り替わった。ギアを蹴ってハンドルを握る。青信号をみてグリップを回して発進する。さらにギアを踏んで2速3速と加速していくにつれて外気が冷たく刺し込む。マフラーがはためくのは風が吹いているからではない、僕(たち)が空を切っているからだ。周りに人はない。ウィンカーをつけずにぬるりと車線変更してくる車も、自転車の方が速いんじゃないかと疑う渋滞もない。2キロほどの吉野家まで一瞬で着く。平坦な夏休みには回顧すべき思い出も無いように、あっさりと到着した。

 店内に入る。他に客はいない。暖かいお茶を飲む。これはラーメン屋の冷や水のように、居酒屋のスーパードライのように、友達の家のカルピスのように、そこに溶け込んでいる。

「納豆牛小鉢定食 ご飯大盛り」

ご飯と味噌汁にサラダ・納豆・牛小鉢が付いて400円ほど、定食として攻守ともに最高クラス。朝から牛丼は重い。納豆だけというのも寂しい。そんなわがままなニーズにも寄り添ってくれるが吉野さんなのだった。食事についてとくに描写することはない。牛肉を食べてから納豆を食べると重くなくていいと思う。あと牛丼でも味噌汁でも豚汁でも七味をかけると吉(きち)です。

ご飯を食べていると夜勤明けと思しきおじさんや、徹夜明けのカップルが入ってきた。深夜~早朝にかけての吉野家の客層は、洋画で観る深夜のハンバーガーショップのようで、まだ今日という日に満足しない人々が肉と炭水化物でハッピーになろうとするか、あるいはただ朝を待っている。最後にぬるくなったお茶を飲みほしてお会計。

 店外はさっきより明るくなった気がする。きりりとした空気を感じながら来た道を戻る。出勤まではまだまだ時間がある。せっかくだから起きていようか、もうひと眠りしようか。ほっと吐き出した白い息が、さっきより増したのを感じながら帰宅した。

 

 

 

 

 

現状

 生活が終了している。

 

昼夜逆転が極まって午前五時就寝⇒午後五時起床の逆老人となっている。

このところの活動といえば、バイトのない日は半額弁当やカップ麺を買い出しにスーパーにいくか、ネット麻雀(全然勝ててないので段位が停滞している)、YouTubeを観る(麻雀と併用、ジャルジャルチャンネルをずっと見ている)、そして研究くらいだろうか。

金沢は先日から雪が降り始めていて、路面に積もるというほどでもないが、急に降ってくるのでカブで移動する身としては外出しずらい。

幸い僕の研究分野はコンピュータがあればできるので、自宅からラボのパソコンを遠隔操作して自室に籠りながら研究を進めるのだが、その研究が難しい。機械学習の一分野でデータセットを変えてネットワークの精度を検証しているのだが、対象とするネットワークが簡素ながら高性能すぎて面白い結果が出ない。

いろいろとパラメータを変えながらチャレンジしているが年内最後のゼミに間に合う気がしない。問題設定を変えたり方針転換することになるかもしれない。

 

 研究が終了している。

 

そして趣味活動のほうも停滞している。かつては毎クール少なくとも2,3本アニメを観て映画を週一本以上見ていた。面白い作品についてはこのブログやサークルで記事を書いていた。けれど今は何もできていない。

まず、観るということの体力がなくなってしまった。

映画を観るハードルはもとから高かったが、アニメも気楽に観れなくなってしまった。これは単純に長時間視聴できないわけではなくて、僕はアニメを見ると一気に最新話まで見たくなってしまうので時間管理の問題が並立しているのだが、しかし結果として見なくなった。もうYoutubeで五分くらいのコントを観るか、Vtuberの切り抜き紙芝居を観るしかなくなっている*1

映像ですらこうなのだから本なども全く読めない。今年の映画『花束のような恋をした』を引用するならば「もうパズドラしかできなくなった状態」。

ゴールデンカムイ」の複雑な展開についていくことができず、横たわりながらパズルをぐるぐるする状態。(この期に及んで固有名を列挙するあたり、"しぐさ"だけ名残ったカスの元オタク感ある)

 

 熱量が終了している。

 

むかし*2書いた文章を見ると、それは決して優れた文章ではないけれど、楽しんで書いたことを思い出してしまう。

 

僕ってどうしたらいいですか?(僕ってどうしたらいいですか?)

というようなことを一応書いてみた。もうダメかもわからんね。

でも意外となんとかなるかもわからんね。

 


www.youtube.com

 

 

*1:これらのコンテンツが劣っているとは思わない。ただ、ここで着目するのは視聴カロリーの低さ・不可逆性についてだ。映画を観れる人がVチュの切り抜きを観ることはたやすいが、その逆は難しい。その意味で前者の消費様式は後者を超えている。

*2:せいぜい数か月前のことなのだが、いまの僕とはそのくらい隔たりがある。